第17話 常識
父上がリリアーナを連れて行ってしまった。
リスのように頬を膨らませた顔も可愛いと思ってしまい、つい木陰に放置してしまった。
それなのになぜ、こんな事になっているのか。
庭から少しだけ見えるリビング。
リリアーナが抱きついていると思ったら、父上も抱きしめているように見えた。
頭を撫で、頬を寄せ、耳元で何かを囁き、リリアーナのおでこに口づけ。
どう見ても恋人同士ではないか。
後見人だが娘のつもりではなかったのか?
リリアーナは父上の方が好きなのだろうか。
頼り甲斐があるのだろうか。
大人の包容力だろうか。
でも年が離れすぎではないか?
気づいてはいけなかった。
リビングを見てはいけなかった。
ノアールは目を逸らし、庭の方を向いた。
「水を出したいのに!」
上手く出ないとエドワードが頭の後ろを掻いた。
「剣に気を取られて詠唱が途切れてしまいますね」
「リリーみたいに無詠唱なら楽なのに」
「少し休憩しましょうか」
リリアーナのお気に入りの木陰はひんやりとして心地がいい。
5歳のリリアーナとこの木の下で出会ってからもう4年。
いつの間にか一緒にいるのが当たり前だと感じるようになってしまった。
「ノア先生、お兄様、見て見て〜! 制服!」
「小さい!」
初等科の子を見慣れているエドワードは、リリアーナが一般的な初等科の子よりも背が小さい事をまず突っ込んだ。
「お兄様! そこはかわいいと言うべきです!」
腰に手を当てて仁王立ちで言った後、ノアールの顔を見たリリアーナは慌てて足を閉じた。
「どうですか?」
くるっと1周回って見せる。
「……とても可愛らしいですよ」
今、間があったよね。
絶対、間があったよね!
リリアーナはスカートの裾を少し持ち上げ、かわいい赤のボーダーを確認した。
まぁ、2人にとっては普通の制服か。
前世だったら絶対有名私立でしょ! というくらい可愛いのだが。
「じゃぁ、汚すといけないから着替えて……」
戻ろうと身体の向きを変えると、なぜかノアールに手を掴まれた。
「ノア先生?」
「あ、いえ。すみません」
顔を逸らしながら謝罪するノアール。
うん? 変な反応だ。
「ほあっ?」
なんで?
何これ?
リリアーナは現状把握が上手くできずに固まった。
なんでノア先生に抱きしめられているの?
これは夢?
妄想?
「似合っていますよ」
耳元にノアールの声が響き、リリアーナは真っ赤になった。
ぬあ、ぬあ。
リリアーナの口が酸欠の魚のようにパクパクと動く。
さらに追い討ちをかけるようにノアールはリリアーナの右の頬に口づけをした。
チュッというリップ音が妙に耳に響く。
「なななななんで? は? 何? 今日はなんの日?」
いやいやいや、何これ、どういう事?
「ノ、ノ、ノア先生、」
待って、待って、待って。
私9歳。
まだ9歳だから!
右の耳の下にも口づけが落とされる。
「ふはぅ?」
色気も何もない声しか出ない。
耳元で、はぁ。という大人な溜息の後、リリアーナはようやくノアールの腕から解放された。
「……すみません」
額に手を当て考え込むようなポーズをしているノアールの顔は赤い。
当然リリアーナの顔は真っ赤だ。
エドワードも驚いて固まっている。
ど、ど、どうする?
こんな時、ゲームみたいに選択肢が出て来れば行動が三択なのに。
この場面は何が正解ですか?
チラッと建物近くを見ると、侍女のミナがサムズアップしているのが見えた。
「それはどっちー⁉︎」
確か欧米はgoodだけど、中東はbad。
この世界はどっちの意味?
一歩後退りし、もう一歩。
リリアーナはとりあえず着替える事にした。
選択肢があったならきっと「逃げる」だ。
心臓がバクバクする。
顔も熱い。
身体中から湯気が出そうだ。
ウィンチェスタ侯爵は、慌てて建物に向かって走るリリアーナの姿をリビングから眺めた。
窓際に立ち、左手にはソーサー、右手には紅茶を持ち優雅に香りを楽しむ。
「子供の成長は楽しいねぇ」
ウィンチェスタ侯爵は嬉しそうに紅茶を飲みながら呟いた。
ノアールは慌てて走り去るリリアーナの後ろ姿を見送った。
ほわほわと揺れる黒いウェーブの髪。
ぴょんぴょん跳ねる足。
そういえば走っている姿は初めて見るかもしれない。
「ノア先生ってさ、リリーの事、本当に好きだったんだね」
すっごい意外とエドワードが呟いた。
「偽装婚約だと思ってた」
「……私も自分の行動に驚いています」
父上にリリアーナを取られると思った。
気づいたら捕まえていて。
リリアーナはどう思っただろうか。
「何あれ! チュッて! 本気ですか、ノア先生!」
リリアーナは階段を駆け上がり、自室のドアを慌てて閉めた。
心臓が飛び出しそうだ。
「何が、どうして、どうなった?」
リリアーナは真っ赤になった顔を押さえる。
身体が熱い。
ワンピースを着て、制服はハンガーへ。
顔はきっとまだ赤いだろう。
心臓もドキドキが収まらない。
興奮して汗まで掻いてきたせいで、長い黒髪が暑い。
「お嬢様、遅くなりました」
ミナは着替え終わったリリアーナに困った顔で微笑んだ。
何でも一人でやってしまうお嬢様。
お嬢様は本当に寮で生活するつもりなのだろうか。
ここから通えば良いのではないか。
何度も聞こうと思ったがずっと聞けなかった。
「ねぇミナ、髪を縛るゴムって売っている?」
「ゴムとは? 髪を縛る?」
「体育とか髪が邪魔でしょ? 髪を1人で縛れる様に輪っかになっているものが欲しいのだけど」
リリアーナは腰まである黒髪を手で適当に整えて後ろで1つに纏めた。
「長くて、黒くて、ウェーブで。ボリュームがありすぎて運動も勉強も邪魔になると思うの」
「お嬢様、リボンではダメなのですか?」
ミナは髪を後ろ手に持っているリリアーナを見て、髪を留めたいのだと理解した。
「リボンじゃ一人で出来ないよ」
片手では無理だ。
「100円均一で売っているような飾りも何もない普通の輪っかのゴムで良いのになぁ」
リリアーナが髪から手を離すとすぐに髪はふわっと広がりまたボリュームを主張する。
「あ! 短くすればいいんだ! 肩上? ショートヘアなら洗うのも楽だし、縛らなくても良いね」
名案だとばかりにリリアーナは手をポンと叩いた。
「ミナに切ってもらえばいいんだ!」
振り向いたリリアーナは驚いた。
目の前には顔面蒼白で今にも倒れそうなミナの姿。
「えっ? ミナ? 体調悪いの?」
リリアーナの斜め上の気遣いとは裏腹にミナは慌てて走り出し、リリアーナの部屋の窓を開けた。
「ノアール様! ノアール様!」
ミナが大声で必死に庭のノアールを呼ぶ。
「え? ミナ? どうしたの? 何でノア先生?」
「お嬢様、早まってはいけません! 落ち着いてください!」
「あ、うん。ミナが落ち着いてね?」
よくわからないリリアーナは首を傾げた。
「なにかあったのかい?」
「リリー、どうしました?」
「何があったの、リリー!」
リビングにいたウィンチェスタ侯爵、庭からノアールとエドワードがリリアーナの部屋に駆け込む。
リリアーナは3人をキョトンと見上げた。
「お嬢様が髪をお切りになると!」
大興奮のミナ。
「リリアーナはノアールを嫌いになったのかい?」
「え?」
ウィンチェスタ侯爵の言葉にリリアーナが驚く。
「先程はそんなにイヤでしたか? すみません」
「え?」
口元に手を当てながら落ち込むノアール。
「リリー、結婚しなくても大丈夫だから!」
「お兄様まで何の話です?」
「ふむ。何か誤解がありそうだね?」
ウィンチェスタ侯爵はアゴに手を置き、にっこり微笑んだ。
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