第10話 失踪

 カツン、カツンと冷たい靴音が部屋に響く。


 僅かな時間のはずなのに、まるで時が止まったかのような不思議な感覚がした。

 足元の闇、近づいてくる冷酷な目の父。

 目を閉じたいのになぜか閉じる事も背ける事も許されない。

 

 フォード侯爵は震えるリリアーナのアゴを持ち上げた。


「早く私の役に立て」

 フォード侯爵が不敵に笑う。

 トレードマークのモノクルが部屋の明かりでギラリと光った。


「私とマリーのために、精々頑張るがいい」

「……マリー?」

 ニヤッと笑ったフォード侯爵はアゴから手を離し、リリアーナを勢いよく突き飛ばす。


「っく」

 ツルが離れたリリアーナの小さな身体は本棚に激突する。

 ドンッと大きな音を立てたあと、リリアーナは床へと倒れ込んだ。


「忘れるな、お前は誰にも愛されない娘。その身を捧げ、願いのために世界を変えろ」

 フォード侯爵の不快な笑い声が応接室に響き渡る。


「……世界?」

 男性の笑い声に混じった女性の笑い声にリリアーナは眉間にシワを寄せた。

 この声がマリー?


「うっ、」

 本棚にぶつかった衝撃で何冊かの本がリリアーナに降ってくる。

 背中にも、頭にも降る分厚い本。

 数冊の本の下敷きになった小さなリリアーナはイヤな笑い声の中で意識を失った――。

 

 

 フォード侯爵はその日を境に姿を消した。

 別邸の使用人達は全員眠らされており、応接室で何があったのか、フォード侯爵は馬車にも乗らずにどこへ行ったのか、当時の状況がわかる者は一人もいなかった。


 大臣職は辞任となり、副大臣がそのまま大臣に。

 仕事は引き続きできるように整理されており「計画的な失踪だったのでは?」と人々には囁かれた。


「さて、今日はいろいろと話さなくてはならないことがあってね」

 ウィンチェスタ侯爵の合図で侍女のミナが紅茶とお菓子の準備を始める。

 全員がソファーに腰かけると、ウィンチェスタ侯爵は鞄からいくつかの書類を出した。

 

「まず、エドワードの進学は予定通り中等科騎士コースに」

 入寮手続き完了の書類と中等科騎士コース進学通知をエドワードに手渡しながらウィンチェスタ侯爵は困った顔で微笑んだ。


「え? 騎士コース?」

「騎士コースは全寮制ですよね?」

 初めて知ったノアールとリリアーナが驚いてエドワードを見る。


「父上に頼んでいたんだ。騎士コースに行きたいって」

 魔術は最低限使えるようになったので自分の身も領地を守るためにも剣が使えた方が良いと説得し、なんとか許可をもらったとエドワードは笑った。


「騎士って、怪我とか、万が一とか、それに寮なんて」

 兄に会えなくなるのはイヤだ。

 ずっと毎週土曜日に会えると思っていたのに。


「泣かないでよ、リリー。ちゃんと長期休暇はここに来るからさぁ」

 エドワードは困った顔で頭をガシガシ掻いた。

 

「強くなって僕がリリーを守るから」

 リリアーナの腕や足には何かで縛られたような痣。

 首から胸の上は内出血で青色に。

 侍女のミナの話によれば、背中にもいくつか内出血の痕があるそうだ。

 もう二度とリリアーナをこんな目には合わせない。

 エドワードはグッと手に力を入れた。


「私が後見人だから学園で困ったことや必要なものがあればすぐに連絡するように」

「はい。ありがとうございます」

 リリアーナが13歳に満たないためノアールとの婚約届はまだ国へ提出していなかったが、婚約内定の書面を交わしていたため、ウィンチェスタ侯爵は後見人に選ばれた。

 

 家督は長男エドワードが継ぐ事になったが未成年のためしばらく保留。

 エドワードが成人するまでの間、財産・領地も全てウィンチェスタ家が管理することに。


「私としてはこんな形でリリアーナの父になる予定はなかったけれどね」

 少し困ったようにウィンチェスタ侯爵は笑った。


「リリアーナ、ウィンチェスタ家で暮らさないかい?」

 ウィンチェスタ侯爵の有難い申し出にリリアーナは首を横に振った。


 行けばきっと優しくしてもらえるだろう。

 でもどう接して良いのかわからない。

 ウィンチェスタ侯爵、夫人、ノアールには兄が二人。

 もしかしたらお兄さんには奥さんや子供がいるかもしれない。


 今の自分には家族団欒に入って行く勇気がない。

 ここに住むのはお金もかかるし迷惑だとわかっているけれど。


「寂しくなったらいつでもおいで」

「リリーは寂しくなりません。私もここに住みます」

「えっ?」

 土日だけではなく平日も毎日ここから学園に通うと言うノアール。

 

 そんな話は聞いていません〜。

 ノアールに横からぎゅっと抱きしめられたリリアーナは固まった。


「ノア先生がここにいるなら外出申請して土日も遊びに来るよ!」

「ちょっと待って、お兄様! 私に会うだけなら長期休暇で、ノア先生なら土日の外出申請?」

「あはは、もちろんリリーに会うためだって」

 絶対ノア先生狙いだ。

 プイッと横を向くリリアーナの頭をノアールは優しく撫でた。


「では次に調査結果を」

 ウィンチェスタ侯爵は次の書類を手に取り、テーブルの真ん中に置いた。

 

「応接室から闇魔術の形跡が見つかったよ。詳しくはまだわからないけれど」

 別邸の応接室は魔術師団が調査中のため立ち入り禁止になっている。

 リリアーナの腕輪も部屋の隅から隅まで探してくれているが、今のところ見つかっていない。


 フォード侯爵の下にあった漆黒の穴。

 あれが闇魔術だったのだろうか?

 リリアーナは目を伏せた。


 自分に絡まったツル

 あれは何だったのだろう?

 ノアールはツルや葉のような物は何も応接室にはなかったと言っていた。

 でも足首や太腿、腕に残る痕が夢ではなかったという証拠だ。


「あと光魔術」

 リリアーナの肩がビクッと揺れる。


「……リリアーナだね」

 ウィンチェスタ侯爵の言葉にリリアーナは泣きそうになった。

 俯き、膝の上で手をぎゅっと握る。


「一部の人しかこの事は知らないから大丈夫だ」

 ウィンチェスタ侯爵は紅茶のカップをソーサーに戻し、テーブルに置いた。


「国王陛下がリリアーナに会いたいと言っている。私としても今後のためにリリアーナを会わせたい」

「……国王陛下?」

 国王陛下、教皇、魔術師団長。

 教会に引き取られるのだろうか。

 魔術師団長の所へ養子だろうか。

 リリアーナは両手で自分自身を抱きしめるように腕を抱えた。


「リリー、大丈夫です。ずっと一緒です」

 きっとまた一人になってしまうと考えているのだろう。

 小さく震えるリリアーナの背中をノアールはそっと撫でた。


「謁見はすぐでなくてもいい。でも前向きに考えておいてほしい」

 何も答えないリリアーナを辛そうな表情で見た後、ウィンチェスタ侯爵はエドワードの青い眼をしっかりと見つめた。


「頼まれていた件だが……フォード邸の地下にエドワード、君の母マリアンヌの棺があった」

 ウィンチェスタ侯爵は先ほど置いた資料をずらし、下の方に置かれていた書類を広げた。

 書類には棺の中にドレスや装飾品のイラストが書かれ、色や大きさが横に記載されている。

 

「……そ……うですか。父の大切な物は母だったのですね」

 小さい頃、一度だけ絨毯の下にある隠し扉を父が教えてくれた。

 金色の鍵を父はいつも持っており、家具を退かして絨毯を捲ると床に扉があった事を覚えている。


 鍵は開けてもらえなかったが、大切な物はここに入れると教えてくれた。

 家を継ぐのだから覚えておきなさいと。


 母はいつの間にか居なくなった。

 お腹が大きかった事だけは覚えている。

 だが、いつから居なかったかあまり思い出せない。

 葬儀をした記憶はなかったが、地下にずっと亡くなった母はいたのだ。


「マリアンヌ……マリー?」

 小さな声でリリアーナが呟いた。

 抱きしめていたノアールだけにギリギリ聞こえる微かな声だ。


『早く私の役に立て』

『私とマリーのために、精々頑張るがいい』

 父の声が頭から離れない。

 

「……リリー?」

「どうかしたかい?」

 ウィンチェスタ侯爵がリリアーナを見たが、リリアーナは小さくなったまま動くことも答えることもなかった。


「そして、マリアンヌのお腹の辺りにもう一人、産まれる前の子供の骨があった」

「えっ?」

「……産まれる前?」

 エドワードのひゅっと息を吞む音と、ノアールの声が重なる。

 

「あぁ、産まれる前だ」

 ウィンチェスタ侯爵は肩で息をする様に大きく深呼吸をすると、書類の該当部分をトントンと叩いた。


『お前は私の子ではないのに、なぜ「水」だ!』

『何のためにお前を連れてきたと!』

 あの人はそう言った。

 

 ウィンチェスタ侯爵はエドワードに「君の母マリアンヌの」と言った。

 「君達の」ではない。

 つまりリリアーナとエドワードは兄妹ではないと言う事だ。

 

 あの人は私をどこから連れて来たの?

 マリアンヌのお腹の子供が本当のリリアーナなら私は一体誰?

 何のためにここにいるの?

 もう心が壊れそうだ。


 あんなに会いに来なかった父でも、一応父だと思っていた。

 私の子ではないとはっきり言われたが。

 一度も写真すら見た事がない母は、やはり母ではなかった。

 優しい兄も私の兄ではなかった。


 結局私はこの世界でも一人なのか。


『誰にも愛されない娘』

 フォード侯爵の笑い声が今でも耳から離れない。

 

 リリアーナのむせび泣く声はしばらく止むことはなかった。


「父上、本当にリリーを国王陛下達に会わせるのですか?」

 国王陛下達に会わせたらリリアーナとはもう二度と会えなくなるかもしれない。

 ノアールの目が不安そうに揺れた。


「フォード侯爵が何を考えているかわからないが、リリアーナを守るためには三人に会った方が良いと判断した」

「リリーを守るため……?」

「神託を捻じ曲げたからね、私もそれなりのお咎めがあると思うよ」

 ウィンチェスタ侯爵は肩をすくめて言うと、真剣な表情でノアールを見た。


「……もし私に何かあれば、隣国のスライゴ侯爵を訪ねなさい」

 そうならないように交渉はするけれど。

 ウィンチェスタ侯爵は髪をかきあげながら困った顔で微笑んだ。

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