太平の学園 ー 184

 猪原智真美の提案に少年は頭を悩ませた。それが誰も幸せにならない結末を生むことが分かりきっていたためである。

「猪原……やけになりゃいいってもんじゃないんだぜ。翡翠はちょっと混乱してるんだから挑発に乗ってもしょうがないんだ」

 般若の少女はここで「はい?」と少年に詰問を始める。

「混乱してる? 神威? ねえ? ちょっと見てごらん」

 般若の少女は突然に粉受けからチョークを取って、黒板に次の文字を流麗な筆致で書き始めた。


 憂鬱


「私の気持ちを丹念に書いたの。こんな難しい字をすらすらと書ける私が混乱してる? そんなわけないじゃん」

「俺のことが大切なのは分かったよ。俺だって翡翠が好きだ。翡翠に傷ついてほしくないし、翡翠に誰かを傷つけてほしくもないし、誰かを傷つけることを自ずから望むような人でもないと俺は思ってるよ」

 般若の少女はため息をついて「ホントに言ってる?」と答えた。

「私に幻想抱きすぎだよ。私は神威が思うよりダーティな女なんだよ。昔は隠してたけど、神威に振られた今、別にそれを隠す必要もなくなったんだ」

 少年は周囲の喫驚を背に受けながら姿勢を正した。土肥神威という一人の純愛の少年が彼女を振っていたという事実は、皆からは奇異に思えたのだった。二人の会話を、アブラムは貧乏ゆすりをしながら聞いていた。

「……そのことなんだけどさ」

 少年は硬い唾を飲み込んだ後、ゆっくりと口を開いて自らの気持ちを吐き出す。

「今さらこういうこと言うのも酷い話だと思うけどさ」

「うん」

「俺、気持ち改めたよ。自分の気持ちにようやく整理がついた。俺、やっぱり翡翠のことが好きだ。翡翠の告白にただ乗りしてるみたいで悪いけどね、俺、やっぱり翡翠と――」

「――私も土肥くんが好きです」

 少年の言葉を遮って、アブラムが立ち上がって告げた。

「雨宮さんに取られるかもって思った時、どうしようもなくモヤモヤした気持ちになって、我慢できなくなったの」

 アブラムが少年に背後から迫り、その体に抱きつく。

「八朔、一緒にもうちょっとだけこの関係続けたいなあ、私」

「鴇田さん、俺と翡翠の関係を応援してくれてたはずだけど?」

「応援してるよー、今も。でも私が奪う、それとこれとは別問題だよ」

「俺の遊び相手ってこと?」

「私を乗りこなせるほど器用じゃないでしょ? 童貞くん」

「……鴇田さんってホントよく分かんないよね」

「ということで浮気は無し。私はアルゴンからあなたを奪うの」

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