太平の学園 ー 167
少し遊びましょうよ。
猪原智真美が少年を突き放し、そう提案した。彼女の要求するところに従って、二人は数歩を置いて向かい合い、互いに両手を前方に伸ばした。
お互いの手がギリギリ触れ合わないほどに近づいている。感じるはずの無い体温が自らの手に宿る気がして、少年は恥ずかしそうに身を悶えた。
「こりゃ一体何の真似だい?」
「私を幽霊だと思ってみてよ」
「は?」
彼女が蠱惑的に頼むことを、少年は理解することができなかった。
「私の手を肉体と精神の彼岸だと思ってみなさいと言ったのよ」
「思ったら一体何だってんだ?」
「それでも私の手を触れる?」
少年はその時、一度開こうとした口をゆっくりと閉じて、姿勢を正した。
「……分からねェ」
「どうして?」
「その手に触れたら、俺も幽霊になるわけだろ?」
「そうよ」
「俺にはまだ未練がある」
「そうでしょ?」
猪原智真美は昂然と胸を張ってそう答えた。
「それを本当の愛情の基準にしたらどうかしら?」
「……」
「あなたが自らの命まで捧げられる愛を、真の愛情と定義してみてはどうかしら」
「……」
「あなたはそうして私から目を背ける。あなたにはそれが、ある種の漢らしさからの逃亡のように思えるかもしれない。その罪悪感が、あなたを狂気に至らせるのかもしれない」
「……」
「でも、あなたはそうやって逃亡した時、確かに生に向かって歩いているのよ」
「……」
「真の愛情に向かって歩いているのよ」
少年の再三に渡る沈黙にも構わず、彼女は説得を続ける。
「それのどこが逃亡だというの? そっちの方がよっぽど漢らしく生きていると思わないかしら?」
「こんな比喩に一体何の意味があるってんだ」
「そう、この比喩に意味は全くない。意味をつけるのはあなた自身よ」
彼女は一歩進み、少年の手に自らの手のひらを重ねた。
「はい、死んだ」
「てめえやっぱり死神だったか」
「そうじゃないわ」
彼女は両手を下ろし、少年をすり抜けて校舎へと向かった。背中越しに、彼女の声が聞こえてくる。
「比喩を忘れないで。私は一歩進んだのよ」
「……は?」
「虫を取ってくるわ。あなたによく似た薄気味悪い虫をね」
彼女はその時、思い出したように振り返り、最後に次の一言を残した。
「比喩に従うのならば、適度にしなさい。あなたは0か100かしか知らない馬鹿なタヌキなのだから」
「俺はタヌキじゃねェ」
「あなたの献身で誰かが傷つくってことに頭が回るといいわね、坊や」
「俺は坊やじゃねェ」
「残念ながらそれは事実。あなたはどうしようもない坊や」
彼女はあきれ返るような調子でそう述べた。
「そんなゴミクズのあなたが私に出会えたことは、人生で最大の幸福だった」
「……勝手に決めんな」
「そして、私のおかげであなたの人生はこれからも幸福に満ちるのよ」
彼女が両手を広大な空へと広げ、見上げた。そこには欠けた月と無数の惑星とが空のオブジェとして厳然とあった。
「ただし私は見返りを求める悪魔でもある。あなたは自分で
少年は彼女が広げた両手と立ち尽くす身体に、一つの十字架のシルエットを見た。
それが少年に次の言葉を惹起した。
「……降参だ」
「ふーん」
「分かったよ。俺はお前の幸福を約束する」
「正しい契約よ」
「だから、いつか訪れるその日に、俺たちだけの十字架を立てよう」
「いい表現ね」
「その名は希望。俺たちが進む先には、必ずその十字架はある。そのために俺は意地でも生きなきゃいけねえのさ」
「殊勝な心掛けよ」
「それがお前にとっての希望でもあることを願うよ」
少年は踵を返した。
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