4.創造の獣=神獣

 「人獣」という言葉は今日あまり用いられることが無い。

 この言葉の由来は少し複雑であるが、最も起源に近いのは、吏北の地域で信じられていた「神獣じんじゅう伝説」であろう。

 かつて吏北では独自の宗教的風俗が栄華を極め、世界のありようは「創造の獣=神獣」の本能的創造活動に端を発すると信じられていた。ここで言う神獣とは神そのものではなく、観念的な神に生み出された現象上の創造者に過ぎない。

 神獣は草食で、本能的な創造活動のみを行う。即ち、空腹となれば森を生み出し草を食らい、眠りを欲すれば夜を生み出し瞑目する。そして、自らの寿命が近づけば、幼き自らを生み出し死に至る。神獣は自らの変態を除くあらゆる創造が可能であったが、それは常に動物的本能のために用いられた。

 神獣はやがてより大きな繁殖を求め、幾何級数的に自らを増やし続けた。そして個体数の飽和状態を迎え、世界のサイズに見合わない繁殖を遂げた生物の必然として飢餓が蔓延するようになった。それはある種の生物進化上の破局とも言える。

 これを打破したのは、神獣の中に生まれた一人のトリックスター「人獣」である。彼はそのほとんどの性質を神獣と共にするが、唯一肉食の性質のみは神獣と明確に違う志向を持って生まれた。

 もうお気づきかもしれないが、人獣の主食は神獣自身であった。人獣は神獣を食らうことで生きながらえ、辞世の際に自らと同じ性質を持つ人獣を生み出した。

 人獣もまた繁殖の意思を持ち、数多な地域に根を広げた。結果としてその混沌が今の生物的多様性をもたらし、今の世界ができているというのがかつての吏北に栄えた思想のあらましである。やがてこれは始祖信仰と合流し、吏北の周囲により複雑化した神話体系を築くのだが、その話は今は割愛をしよう。神獣の創世伝説もまた紙幅を割ける機会があれば幸甚である。

 この伝説で問われているのは、人間の起こりの正当性ではなく、人獣を生み出したのが神獣自身だという点にあると吏北のある宮司は語る。

 即ち、ある動物の形質における個体的な役割と巨視的な役割というのは必ずしも一致しない。神獣は動物的本能に従い自らを防衛し、神獣自らを破壊したのである。

 話を人獣に戻すが、人獣という言葉はこの背景を元に、吏北中心で「儀識不全により村社会から孤立した者」の総称として用いられていたようだ。ここで言う「獣」とは、神話上からもそうであるように、組織の破壊者を指している。

 この言葉が吏北の垣根を超え、神獣伝説など知らぬ巷間に流布されるようになった時、果たせるかな、その意味として二つの侮蔑的意図が強調されるようになる。

 一点目は儀識不全者に対するある種のステレオタイプ的なもの、二つ目は獣という言葉に元来込められた野蛮性である。今日では起源は忘れられ、人獣は単に儀識不全に対する蔑称として用いられることが多く、それゆえに尋常な言葉としては死の道をたどりつつある。

 以上の話を踏まえ、この挿話において留意されたいことは、要するに次のことである。

 いかなる理由があれ、次の事実を語ることに人獣へのある種の偏見が伴う場合、それは全て語り手の筆の巧拙に責任がある。



 水下本川沿いに現れた一人の人獣は、まず水神の社殿を破壊しにかかった。それは自身の元来の巨大にも及ぶ木槌を持ち、怪訝な様子の近隣住民のことなど気にもかけず、真っ先に神社の敷居を跨いだ。

 異常に気づいた近隣住民は「野蛮な人獣が来たぞ!」「“獣狩り”を呼んでくれ!」と町中に吹聴し、すぐに退散を始めた。社務所で仕事をしていた巫女も外の喧騒に気づくと、取るものも取り敢えず神社から逃げ出した。神職が命からがら抜け出した後のもぬけの殻となった社務所は、人獣の振りかぶった槌により、風穴の空いたあばら屋へと変貌を遂げた。

 人獣の振った槌が長押に嵌り、しばらく抜けないでいる時、その後背に一人の女性が現れた。

 彼女は昂然とそこに立ち、敢然とした態度で「おやめなさい」と人獣を強く制止した。

 言わずもがなであろうが、それこそが件の婦人であった。婦人は神社を、あるいは水下の地を守るためにひとり人獣に立ち向かい、ついには大いなる槌の餌食となって、帰らぬ人となる。

 これが婦人の死の顛末であるが、そこには一つの疑問が残るだろう。その点については正しく補足をしておきたい。

 つまり、人獣に立ち向かう婦人の勇姿は、いかにして後世に語られるに至ったのか。ここには単純で、しかしそれゆえに複雑な答えがある。

 人獣が通りに現れ、婦人を除く者たちが奔走を図った時、真っ先に婦人のことを気に掛け、その邸宅まで駆け付けた者がいた。

 婦人の宅に着いた時、その玄関の戸が開き放しになっており、屋内には既に誰もいないことを悟った者がいた。

 斜向かいの神社から「おやめなさい」という怒声が聞こえ、思わず屋内のリビングから通りに飛び出した者がいた。

 そして、件の青年は、婦人の生涯を終える瞬間を数歩分の先で目の当たりにした。

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