【仁識】錦川の氾濫について
1.水下の由来かつてその土地の浸水しきりに起こった事に因りたり
仁識――現象上の「持続」の目録群。人間の持続単位ごとに目録が異なり、個々の持続内容は観念的無限に継続せられる再起的器械によって算出される。開闢以来、全ての計算結果の記録がされているが、全ての目録、全ての持続内容において未だ重複は観測されていない。
現象的最小単位の持続内容を定義する器械【仁王】には計算機構造上の重大な瑕疵があり、その結果には多分に不正が含まれる。
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婦人清廉な気性と頗る良好な器量とを持ち合わせし故に隣人からも好かれたるが畢生に亭主現れずして失せたり。
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仁識の消失は人々の持続にごく僅かな変化を与えた。未曾有の災厄の時、全ての人間は無限に近い選択肢を掴むことをやめ、本質的な無限へと進んだのである。
大いなる自由意思の強風に晒され、ある者の人生は例えば次のように動いた。
仁識消失の時分、彼はまだ弱冠の書生であった。突然の災厄が二十年の生涯により培った現象の惰性をたやすく瓦解せしめることは無かったが、彼は大往生で死ぬその間際に一度だけ強盗を働いた。それは仁識のあらゆる持続単位にあり得なかった「準無限」の外側の選択肢である。
このように、仁識の消失によって些細な徳を失せる者はいた。個人の問題ならず、不徳の蔓延により治安の多少悪くなる町もあった。
◇
水下に一人の殊勝な青年ありて、新聞配達を生業としていた。
青年はその心優しさゆえに多くの友人を持ち、休日には公園で談笑する姿がよく見られた。
青年は若き頃よりある悩みを抱えていたが、それを知人に打ち明けることは終にしなかった。
悩みの種が単純な色恋の沙汰であることは知人たち皆が当然のように承知していた。
青年の意中の相手は水下に住む一人の婦人であった。婦人には早朝に神社に行く習慣があり、仕事柄早出の青年との邂逅も稀ではなかった。婦人の楚々とした立ち居振る舞いと莞爾たる破顔とは、青年を恋路に至らせるには十分な魅力であった。
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