3.命ある亡霊

 完熟トマトを投擲する狂人と化した群衆と、看過し難き無数の打擲を受けながら仕事を続ける命ある亡霊The spectral vivantとの間には、多くの場合、形而上明確な位識の高低差が生じている。これは人格の清貧を批評するための挿話ではない。結論を出すにはしばし待たれよ。

 全ての人類は生まれながらに平等に籤腫に罹り、それ故に不平等を約束される。それは寛解なき病なるもステージは移ろい、刹那ごとに変化と停滞のコイントスを繰り返し続ける。いや、その比喩は不適切であるかもしれない。籤腫を罹患することは、けだし、近所の庭に虹色のライオンを見つけたら梯子を降り、離れの煙突に玉虫色の飛龍を見つけたら梯子を上がるというような突拍子のない世界に身を置くことに等しい。いや、それすらも正鵠を射るには理路整然とし過ぎている。籤腫とはあらゆる現象の因果の鎖に繋がれず、発生もしなければ恩恵ももたらさない、ただそこに在り、その状態がであるというだけのものに過ぎない。

 しかし、それは稀に浮世の事象と「相関」という大義名分で結ばれることがある。あるセグメンテーションにおける位識のグラデーションやパラレルが時に有り得るのである。それは天文学的確率による起こりうる奇跡であり、世界中のどんな都市にも見つからない。

 したがって、ヴィヴィアン・スペクタクルズのスペクトル・ヴィアンの熱狂に見られる位識のある種の対比構造は形而上学的に非常に興味深い事例である。そして、ここに招かれた件の青年の籤腫のステージの低さというのもまた、運命じみていて筆舌のし甲斐があるというものである。

 青年は現場の狂喜乱舞に衝動の発破をかけられながら、かくも自由闊達な芸術の形式について考える。灰儛の卓越の先には縁の無き刺激。そのうちに取り留めもない疑惑に支配される。

 即ち、芸術の階梯は進む道ごとに段数が違うのではないかということである。その着想に至るや否や、青年は腰に掛けた麻袋を破り捨てて、こぼれ出た瓢面をいきおいのままに掲げた。

 赤いトマトの飛沫に混じり、切創の血糊が劇場を満たす瞬間を想像した。幾星霜もの都市の些末な記憶が、今や人間生活の本質的な価値批評の俎上に上げられようとしていた。

 まさにその時、前例なき未曾有の大災厄が世界を襲ったのであった。

 世界から無数の観念が失われ、現象の惰性だけがそこに残った。放物線を描くトマトはまだ慣性にしたがって役者を汚し続けていた。スペクトル・ヴィアンの狂乱は、籤腫の寛解など与り知らぬ人々らによって平然と続けられた。

 その時、ただ一人青年だけはおもむろに瓢面を下ろし、劇場を後にした。凄惨な結末はついに免れたのである。

 この精神的変化については、形而上学的にも説明することはできない。なぜなら、位識というものの本質はあらゆる人間の営みから独立していることにあるからである。

 籤腫上の相関が現象的な因果へと変わった瞬間はこの他に例がない。この事象をあえて説明するのであれば、災厄のその瞬間、青年には自分の籤腫が文字通り視えた可能性がある。そして、それが本質的に無意味であることを青年に悟らせた可能性がある。この点については推測が多分に含まれるゆえ、これ以上は語るまい。

 青年は今も浦坂灰儛の儛い手として誇りを持って仕事をしている。

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