49 蛇剣衆頭領堂島豊 五

 豊は一日中酷く悩んだ。

 もしもここに剣宮竜刀がいてくれたら、きっと玲のことを救ってくれたろう。黒蛇を斬って、滅ぼしてくれるだろう。けれど剣宮竜刀はこの世にいない。

 豊には黒蛇を斬れるほどの力はない。村の誰だって無理だろう。

 だからと言って、女の子一人の命と引き換えにのうのうと生きたくもない。しかしそれで多くの命が助かるのであれば、玲を犠牲にするのも仕方のないことなのかもしれない。

 ぐるぐると同じところを思考が回っている。入り組んだ樹海の中にいるみたいだった。

 そうして夜が来て、朝が来た。容赦無く時間が進む。冷徹な運命は待つことを許してくれない。

 豊はふらふらとした足取りで家を出た。

 豊の顔を見た母はぎょっとして、止めようとしたけれど、無視をした。

 向かった先は、玲の家だった。一日中待ったけれど、彼女は家から出てくる様子はない。

 次の日も、その次の日も出てこない。

 考えてみれば当然のことだ。玲が外に出ていたのは豊と会うためだ。豊ぐらいしか友達はいないのだから。


 数日後の朝。豊はビワの家の前にいた。

 中には入らず入り口近くで佇んでいる。ここに来て、また迷っているのだ。

 入り口の戸に開いた穴からはビワの姿が見える。

 豊に声がかかった。

「いい加減、中に入ったらどうだ」

 ビワは盲目であるはずなのに、豊がいることに気づいていたのである。

 蛾が明かりに誘われるように中に入った。

 いつもの習慣通りに腰を落ち着かせると空虚を感じた。隣を見る。玲がいない。当たり前だ。しかし空虚さの理由は彼女がいないせいだと気がついて、豊は物悲しくなった。

「来たか」

 ふっふっふ、と老人は薄気味悪く笑う。

「……はい」

「それでどうするのだ?」

「玲を、助けたいです」

「……良いのか?」

「……はい」

「分かった」

 ビワはにたりと笑んだ。


 多数の命よりも少女一人の命を優先する。それが正しいのか豊には分からない。けれどそもそも封印は解かれないかも知れないのだ。そうなれば豊が正しいことになる。

 もちろん何も根拠はない。老人の口車に乗っている自覚はある。希望にすがり、最悪から目を逸らしている。

 だがどうしようもなかった。少女を救い黒蛇も復活しない。その可能性に賭けるしかなかった。

 どちらにせよ、村の人間に気づかれれば罰は免れない。少なくとも玲を助け出すその時までは、絶対に避けなければならないだろう。逆に玲が助かりさえすれば、どれほど厳しい罰であれ、甘んじて受けると決めている。

 そのためにも、今は耐える時だとビワは言う。まずは情報収集に時間をかけるべきなのだと。

 その役目は主に豊が受け持つこととなった。幸いにも時間はまだある。何よりも父から儀式の詳細を聞かされる。これ以上の適役はいない。

 集めた情報を元にビワが作戦を立てる。どのようにして玲を助けるのかはまだ考えている途中だが、ビワによれば作戦は直前になってから発表するのだという。豊の態度に出て気づかれることを何よりも注意しなければならないからだ。

「もっとも」ビワは意地悪く笑う。「誰かが玲の純潔を奪えば儀式は行われないのだがの」

「そ、それは……」

「分かっておる。安心せい。その方法は取らぬ。だが、そういう方法もあることは頭に入れておけ」

「……はい」

 豊は頷いた。




 平素はいつもと変わらなかった。

 剣術修行をこなし、父の講義を大人しく聞いた。琵琶法師の元へも足繁く通った。ビワの家には以前から話を聞きに行っていたから、誰にも怪しまれることがないのは幸いした。

「正直反対されると思っていたよ」

 ある時父は、儀式の講義が終わった後でそう言った。

 傍目にも玲とは仲良く過ごしていたから、儀式を取り止めるように抵抗されると思っていたらしい。

 確かにそうかもしれない、と豊は思った。ビワと出会わなければ、儀式と戦うことを選んだだろう。

「大勢の命と一つの命。どちらが大切なのかは比べるまでもありません」

 素知らぬ顔で豊は答えた。

 嘘はついていない。豊にとって大切なのは、比べるまでもなく一つの命なのだから。

 しかし父はそんな答えに満足したようだった。大きく頷きを返した。

「そうだ。その通りだ。やはりお前も黒蛇村の一員。大切なことをよく分かっている。

「……そういえば、前から気になっていたのですが」

「なんだ?」

「もしも儀式に反対していた場合、どうなっていたのでしょうか」

 父は考える素振りを見せた。

「確か、昔反対した者がいたと聞いたことがあるな。その時は、百度の棒打ちに加え、打首にして晒したらしい」

「……凄まじい罰ですね」

「そうだな。しかし多くの命を危険に晒したのだ。相応とも思うがな」


 その後も時は順調に流れていった。

 結局、玲と会える日を迎えることなく、明日は元服の日である。そうして、同時に、儀式の日でもある。

 すでに秋は終わりに近づいており、日ごとに気温が下がっていく。儀式の準備に忙しない中で、豊はこっそりと抜け出して足早に道を急いだ。

「いよいよだな」

 ビワの家に行くと、彼はいつもの不気味な笑みを浮かべて言った。

「はい」

 豊はどことなく高揚している。

「一ヶ月前から玲は毎朝みそぎを行い、明日は特に時間をかけて行う。そうだな?」

「はい。間違いありません」

「その時間のお主は自由に動ける。確かか?」

「はい」

「ならばその時、玲を拐うが良い」

「さらう……」

「そうだ。だが使命感の強い玲のことだ。きっと抵抗をするだろう。しかし、好機はそこにしかない。彼女を助けたければ、無理やりにでも拐うのだ」

 豊は生唾を飲み込んだ。緊張で体が震える。

 無理やり拐うのは正直気が引けた。けれど他に手がないと言うのならば、従う道しか残されていない。

「わかり、ました。それで……そのあとは……?」

「うむ。ここからが真に肝心なところよ。逃亡の道筋はすでにおおよそ割り出している。だが村に詳しいのはお主だ。そこでお主の意見も聞きたい」

 豊が肯くと、ビワは逃走経路を話し始めた。




 そうして日付が変わり、数刻ほどが経った。

 太陽はまだ登っていない時刻である。豊は起き出して、音も立てずに家から抜け出た。

 暗く、星もまだちらついている。冷たい空気を吸って吐き出すと、白い息がふわりと上がった。

 寝る前にあらかじめ暗い色の服に着替えていた豊は、見回りに見つかることなく村の外へ。

 細い崖道を上り、森の中に入ると星明かりも月明かりも通じない。見通しが利かない真っ暗闇が木々を覆っている。だが幾度となく森に出て遊び、あるいは剣術修行に明け暮れていた豊にとっては庭のようなものだ。迷いなく歩を進めた。

 辿り着いた場所には小さな泉が広がっている。朱色の鳥居が建っており、厳粛な空気を醸し出していた。

 この場所こそが玲が禊ぎを行う泉である。

 周辺の中で最も清浄な神気を宿しているらしいのだが、豊にはよく感じ取れない。だがこうしてここに立っていると、不思議なほど心が穏やかになるのを感じる。

 豊は人がいないことを確認すると、茂みの中に息を潜めて隠れた。少し早く来すぎたかも知れない。それでも豊は辛抱強く待ち続けた。

 しばらくすると、太陽がわずかに顔を出した。

 薄明かりで泉が照らされる中で、ふと葉が擦れ合うような音が聞こえた。

 目をやると、白い襦袢を羽織った少女が鳥居をくぐるところである。

 彼女の黒髪が肩口を越えるほど真っ直ぐに伸びていた。華奢な体は未成熟な女性らしいなだらかな曲線を描いている。残念ながら豊の位置から顔は見えないものの、思わず息を呑んで見入ってしまった。

 少女は泉の縁にかがみ込むと、手の平で水をすくい取って体にかけた。それを幾度か繰り返すと、彼女は立ち上がってゆっくりと足先から泉の中に入っていく。

 それから真ん中に向かって緩やかに歩いて行って、肩まで水につからせた。長い黒髪は水の上に漂う。まるで墨を流したみたいだった。

 少女は静かに顔を洗う。

 水は酷く冷たいはずだ。けれど少女は一向に気にした様子がない。そんな彼女のことを称えるように、虫たちが澄んだ音を奏でている。

 顔を洗い終えた彼女は、振り返って岸の方へ戻っていく。水位が腰の高さにまで来たところでふと立ち止まった。

 顔は俯いていて、水面を眺めているようだ。薄暗いせいもあって、やはり豊からは顔が見えない。

 水に濡れた襦袢が滑らかな肌に張り付いて透けて見える。その上を黒髪が流れていく。なんとも言えない色気があって、豊は胸の高鳴りを抑えることができなかった。

 しかしここでただ見て終わるわけにはいかない。彼女に嫌われてでもやらなければならないことがあるのだ。

 がさり、と音を立てて茂みから出た。驚いた彼女は顔を上げ、つぶらな黒い瞳が見開き、豊を茫然と見返す。

「玲」

 と豊は小さく呼んで、泉の中へ侵入した。突き刺さるような冷たさが体を貫く。

「……ゆっ」

 声を上げようとした玲の口を、素早く動いた豊が手で塞いだ。豊に見えないところで誰かがいるかもしれない。それを危惧してのことだ。

 豊は人差し指を立てて己の口元に当てた。静かに。その意は伝わったらしく、彼女はこくりと頷いた。

 手を離した豊は思わずまじまじと玲を見た。実に半年ぶりの玲の顔は、やはりとても綺麗であった。抗え難い衝動が起きて、豊は彼女を抱きしめる。

 細く柔らかい彼女の体は冷水のおかげでとても冷えていた。それでも彼女の存在を全身で感じ取り、もう二度と手放さないと心に決める。

「……ど、どうしたの?」

 玲は豊らしからぬ行動に困惑し、顔を赤らめて疑問の声を小さく上げた。それでも抵抗を見せずされるがままになっている。

 豊は玲の耳元に口を近づけて囁く。

「ここから逃げよう」

 戸惑う感触が豊の体に伝わった。

「だ、駄目だよ」

 玲もまた豊の耳元で囁く。

「俺にとって玲の命は、誰よりも何よりも大切なんだ」

「私だって……豊の命が一番大事だよ……」

「儀式をしなくても黒蛇は復活しないかもしれない」

「そんな保証、どこにもないでしょう」

「……そうだな。けど、俺は君が嫌だと言っても連れ出すと決めている」

 一拍か二拍、間が開いた。

 玲は嘆息した。

「……分かったよ。こうなった豊は言うことを聞かないんだから」

 相変わらずなんだから、と玲は悲しそうに言う。

「ごめん」

「謝らないでよ」

 豊と玲は離れて、互いの手を繋いだ。

「こっちだ」

「うん」

 泉からそっと上がる。それから豊の先導で鳥居から反対方向へ進んだ。

 二人は無言だった。息遣いだけが聞こえてくる。足取りはゆっくりで、豊は時折振り返って玲の様子を見た。

「寒くないか?」

「……少し」

 豊は立ち止まった。すである程度離れている。ここならすぐに追いつかないだろう。

 自分が着ていた服を脱いだ豊は、玲に被せる。豊は上半身が露わになった。

「ありがとう……。でも、豊は大丈夫なの?」

「俺は平気だ」

 玲は訝しげな目で豊を観察した。我慢しているようだが体が小刻みに震えている。それに鳥肌も立っていた。

 玲はため息を吐いた。そうして自分の体を豊の体と密着させる。

「れ、玲?」

「ごめん。まだ少し寒いの。だから、しばらくこうさせて」

「……分かった。このままゆっくり行こう」




 さらに数刻が経過した。

 日は上り、雲が一つもない青い空が広がっている。

 山を登っていた二人は休憩をしていた。眼下には黒蛇村が見えている。今頃は玲がいないことに大騒ぎになっていることだろう。けれど、ここからはその様子が窺い知れない。

 豊も玲もその話題には触れなかった。ただぼんやりと村を見ていた。それが見納めになるかも知れないと思って。

「お二人とも」

 そこに声がかかった。聞き覚えのある低い声である。

「ビワさん!」

 二人の声が重なった。けれど声色には落差がある。豊を喜びの色を、玲は驚愕の色をしていた。

 ビワは言う。

「上手くいったようですな、豊殿」

「はい。これもビワさんのおかげです」

 玲は目を細め、

「……そういうことですか」

「玲?」

 と豊は疑問に満ちた眼差しを彼女に向けた。玲は豊のことを気にすることなく続ける。

「おかしいと思っていました。豊が儀式に抵抗するなら、もっと直接的な方法を選ぶだろうと。ですが、今回は私をこっそりと拐うというらしくない行いをした。あなたが、唆したんですね」

 一瞬の沈黙の末、ビワは笑みを浮かべた。口の端を一杯に広げたそれは、まるで蛇のようであった。

「その通りじゃ」

「あなたの狙いは、もしや」

「そう、黒蛇ジャジャの復活じゃよ」

 そうして、ビワの目が見開いた。盲目であるはずの瞳が変化した。瞳孔が細く縦長になり、金色に輝いて二人を射抜く。まるで蛇のような瞳。

 豊の全身を寒気が走った。

「ど、どういう、意味ですか」

 動揺を隠せない彼の声は、震えている。

「そこで見ているが良い。お主がしでかした事の顛末を」

 思わず村を見下ろす。ここからでは、まだ何も変化はない。

 しかし、

「か、体が動かない」

 玲が訴えた。

 その言葉を受けて、豊も体を動かそうとするが微動だにしない。

「蛇法術、蛇睨み。蛇の眼光を受けた蛙は、動けぬようになるのだよ」

 琵琶法師の声は、もっと得体の知れない何かに聞こえた。


 時間はさらに冷たく経った。

 太陽は山間に隠れつつあり、赤い光が地上を照らしている。

 儀式が予定通りに行われていれば、すでに終了して宴が催されている時刻である。

 けれど、村は静かであった。宴に灯される篝火は一切上がっていないのだ。その原因は豊と玲にあるのは明白。豊の願いに儀式は行われなかったからである。

 やがて、変化が起きた。

 村の先端に位置する場所には社がある。その奥には立ち入りを禁止されている洞窟があるのだが、そこから黒く太く長い何かが湧き出したのだ。

 途端、点々とした村人たちの動きが慌ただしくなった。しかし彼らは一切合切、黒い何かに呑み込まれていく。

 豊と玲は、何かを叫ぼうするも、蛇睨みの影響で声が出ない。そればかりか表情も変わらず、ただ目だけが村に起きている異常事態を伝えている。

 黒い何かは瞬く間に村がある窪み一帯を埋めつくし、頭がのっそりと天を突いた。

 その顔を、その目を、豊と玲は目を逸らすことすら許されずに直視させられる。

 それは、漆黒の蛇の頭であった。

 黒い何かは、蛇の胴体なのであった。

「ふっふっふ! 豊よ! 玲よ! これがお主らが選んだ結果だ! あの蛇こそが、黒蛇ジャジャなのだよ!」

 琵琶法師のビワは嘲笑して、黒蛇の復活を告げた。

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