37 蛇法師蛇辻蛇道 後編
このままでは死ぬ。しかしここで死ぬわけにはいかぬ。
蛇を操っているのは蛇辻蛇道。奴は高所から生えた細い枝に立って、こちらを睥睨している。
この状況から逃れるには、せめて一撃だけでも蛇辻に与える必要がある。しかしハナは届かない。花びらで飛び上がっても蛇地獄で邪魔される。
ならば前に進むのみ。
「辰也……」
炎蛇を斬り続けながら決断した辰也は、ハナの心配そうな声を聞いた。
刀であっても心配性な女の子なのは変わらない。いやむしろ、刀になったからこそなのか。どちらにせよ、心配させるのは辰也の本意ではない。
「大丈夫だ、ハナ」
安心させるために口角を上げた。
「だけど……」
「あれを使う」
「あ、あれを? でも今使えば」
「安心しろ。禁手ではない」
「じゃ、じゃあ……。でも、あの技も……」
「蛇を斬るだけだ。無論力は抑えて使う」
「分かった……」
辰也とて、むやにやたらと使おうとは思わない。敵に手札はあまり見せたくないのだ。だが今は状況が許さない。他に生き残る手段は思いつかない。空の境地を発動し続けることができれば別だが、現在の辰也では一瞬が限界。だから選択肢はなかった。
辰也は群がる炎蛇を斬りながら、体内の気を練り上げた。
「行くぞ……。桜花一刀流奥義、桜吹雪」
辰也は呼吸を止め、怒涛の連撃を放った。凄まじい勢いで繰り出される剣撃は、炎蛇が生み出される速度よりも早く、一匹たりとも寄せ付けない。そうして着実に前へと進む足を、もはや炎蛇程度では止められなかった。
「おお、あれは。懐かしき桜吹雪」
蛇辻は瞠目した。されど楽しむ余裕があった。
「紡げ紡げ蛇共や
大きなうねりとなりて
飲み込めや
蛇法術大炎蛇」
大量の炎蛇が一つに集まり、一匹の巨大な燃える蛇と化して、辰也に襲いかかった。
迎え撃つ桜吹雪が、蛇の頭と真っ向から激突する。
しかし辰也の歩みを止めることは叶わない。
幾十、幾百と重ねられた斬撃が、炎蛇を斬り散らかしていく。
そうして進んだ先には、一本の木が立っている。蛇辻が立っている木であった。
見えうる限りの蛇を斬り尽くし、桜吹雪を止めた辰也は、荒く息を吐きながら上段に構える。
地面からまた新たに炎蛇が生まれつつあるが、辰也は気にした素振りを見せない。
辰也はハナを振るった。桜色の剣筋が斜めに走り、木が切断される。
どお、と盛大な音を立てて倒木する。けれども、蛇辻はその一瞬前に離脱していた。
気配を殺し、音もなく、辰也の背後に降り立つ。
枯れ木のような右手を肩より上に上げて、首筋に狙いをつけた。
辰也は振り向きながら横に一閃。
後ろに跳ねた蛇辻は驚いている。着流しの胸元が小指の爪ほどの長さで裂けていた。
「ほお。僅かであるが私の服に傷をつけようとはな」愉快そうに言う。「しかし残念である。もうあと十年も修行すれば、あるいは竜刀並の実力を身につけられるだろうに。どうだ。私の元に来ぬか? その腕、失くすのは惜しい」
いつの間にか生えかかった炎蛇がいなくなっている。そのことを確認しながら、辰也は鼻息を鳴らす。
「ふん。誰が行くものか」
「ふっふっふ。ますます竜刀に似ておる。あやつも私の誘いをそうやって蹴ったものじゃ」
「余裕を見せられるのも今の内だ。お前はここで俺に斬られるのだから」
「強がりはよせ。桜吹雪を使い、もはや体力は限界なのだろう? その証拠に、すでに息も絶え絶えではないか」
「ぬかせ……」図星を突かれながらも言い返す。「お前を斬るぐらい、この程度のこと枷にもならぬ」
「ふっふ。そんなお主に敬意を表し、我が剣を見せてやろう」
蛇辻は顔を上に向けて口を大きく開いた。そうして右腕を迷うことなく口の中へ挿入する。その怖気の走る光景に、辰也はなぜか目を離せない。
右腕を徐々に引き上げていく。口の中から現れたそれは、ねっとりとした涎に塗れた異様な剣であった。
その刀身は蛇のように曲がりくねっており、刃が両側についている。蛇の意匠をした柄で、不気味な気配を漂わせていた。
「蛇行剣ヒュドラ」
と蛇辻は言って、刃先を辰也に向ける。
「……ひゅどら?」
聞き覚えのない言葉だった。辰也は呟いてみると、何やら異質な感触がある。
「あの剣。変だ」
ハナが緊張感を滲ませて言う。
「変?」
「あの剣、蛇気の塊だ。もちろんジャジャのものじゃない。もっと別のおぞましい何か」
「どちらにせよ、油断はできぬな」
そう言いながら、辰也は少しずつ近寄っていく。
構えは下段。疲労のためである。呼吸は荒く、隠すこともしない。全身が悲鳴を上げ、激痛が駆け回っている。体は重く、今にも倒れたくなる。
一方蛇辻は動かない。蛇行剣を向け続けている。
隙だらけだ。どこからでも攻撃が通りそうである。されど全てが罠に見えてくる。
それでも近づく。
そして、間合いに入った。
袈裟懸けに振るう。
がっ、と金属がぶつかる音がした。蛇辻が蛇行剣で防いだのだ。
決して手を抜いたわけではない。体はほぼ限界といっても、並みの者なら容易く斬ることができる剣速である。それを痩せた老人が片手で難なく防いだ。それだけでも十二分に驚異的だが、辰也が真に驚いたのはその刹那の後であった。
蛇行剣から九匹の蛇が生えてきたのだ。
「下がって!」
瞬間、ハナの切羽詰まった声に押されて辰也は後ろに飛んだ。
あと少しでも遅れれば蛇に噛まれていたところであった。
しかし、
「何かと思えばこの程度か。これならば蛇地獄の方が脅威だな」
と、辰也はうそぶく。
蛇辻は、にい、と口元を歪めた。
「蛇地獄でじわじわとなぶり殺すのも一興。だがそれではつまらぬ。やはり剣で戦う者は、剣で倒さねばな」
蛇行剣から生えた蛇たちは、うねうねと蠢いて刀身を覆っている。
辰也は深呼吸を一度した。
ああは言ったものの、目前の不気味な剣は蛇地獄に匹敵するか、あるいはそれ以上の何かを隠しもっているようにしか思えない。それが何なのか分からないが、恐らくはヒュドラという名前に手掛かりがあるのだろう。しかし辰也にはヒュドラと言う名前に心当たりはなかった。
「ハナ……ヒュドラという名に聞き覚えは?」
「ごめん。分からないよ」
「やはり、そうか」
「ただあの蛇は、普通の蛇じゃない。それだけは確かだよ」
「普通じゃない? 蛇地獄の蛇とは違うのか」
「うん。違う。間違いない。試しにあの蛇を斬ってみて。何か分かるかもしれない」
「心得た。だが、蛇辻を斬れそうならば、構わずに斬るぞ?」
「……もちろん。でも油断しないで」
「ああ」。
辰也はハナを中段で構え、にじり寄っていく。
「話し合いは終わったか?」
と、蛇辻が尋ねる。辰也は何も答えない。
距離は少しずつ詰まっていく。
「一つ教えてやろう。ヒュドラとは、とある伝説において、英雄に殺された蛇の名だ。もっともこの伝説は、私以外に知る者はおらぬがな」
「……貴様の創作だからだろう?」
「ふっふっふ。そうではない。そうではないのだよ。私が生まれるよりも遥か昔に生まれた伝説なのだ。それもここよりも遥かに遠い。星の裏側など軽く超え、永遠とも思えるほどに遠い遠い場所で生まれた伝説。いや、正確には神話か。果たしてお主は、この神話の難行を超えることができるか?」
間合いに入った。
蛇行剣の九匹の蛇が一斉に辰也を襲う。拍子を合わせ、右から左へハナを振るった。
三匹の蛇の頭が宙を舞う。残り六匹の勢いは止まらない。口を開いて牙を剥いた。
噛みつかれる寸前、辰也は後ろに飛んで回避する。
中段に構え直して、相手の出方を伺った。
蛇辻の余裕は消えていない。口元に笑みを浮かべたままだ。
そして変化が起きた。
頭を落としたはずの三匹の蛇。その切り口から肉がぶくぶくと沸きたって、やがて頭部が完全に再生した。
「今度は」と驚いている辰也を尻目に蛇辻は言う。「私から行こう」
ゆるりと歩いてくる。構えは依然隙だらけ。しかし何をするのか予測がつかない。だから目を一瞬たりとも離すわけにはいかない。そう思った途端、蛇辻の姿が跡形もなく消失した。
「後ろ!」
ハナが叫んだ。はっとした辰也は急ぎ振り向く。蛇辻が目に入る。九匹の蛇が纏わりついた蛇行剣は頭上に掲げられ、直下に振り下ろされた。
反射的に受け止めようとした辰也はしかし、すぐに刀を引っ込めて大きく後ろへ下がった。その後を追うのは蛇たちだが届かない。
「よい判断だ」蛇辻は感心したように言う。「受ければ蛇に食われ、蛇を斬れば剣の餌食になっていただろう」
言葉を無視し、辰也は肉薄して右下から斬り上げた。
けれど蛇辻は瞬時に距離を取って躱している。相変わらず浮かべているのは憎たらしいほど余裕の笑みだ。
辰也はさらに追い討ちをかけた。けれど蛇辻は後ろに下がりながら回避する。
ハナを振るいながら辰也は理解していた。蛇辻はわざと反撃をしてこないのだと。
しかし胴を狙い面を打つも、どれもこれも当たらない。逃げに徹した蛇辻を捉えるのは困難だ。それでもハナを振るうのは、途切れた瞬間に何をされるか分からないからである。それを本能的に分かっていた。だから乏しい体力でも振るい続ける。
そして袈裟懸けに斬り下ろした時だった。がっ、と刃が木に食い込んだのである。
「む!」
すぐさまハナを引き抜く。だがその間に蛇辻は、九匹の蛇を辰也に向けていた。
一匹の蛇の胴体の一部が丸く膨らんだ。
思わず目を見張る辰也。
蛇の膨らんだ箇所は、徐々に頭部へと移動していく。そうしてそれが、口元に達した瞬間。
「毒気だ!」
ハナの声が弾けた。
ほぼ同時に辰也は横に飛んでいる。
蛇の口から黒く濁った球体が放出された。球体は寸分違わずさっきまで辰也がいた場所を通過し、その後ろでばしゃりと衝突する。それは粘り気のある液体で、毒々しい色合いが地面の上に広がった。
「毒気?」
と辰也が聞いた。目線は蛇から外れない。
「うん」と答えるハナの声は緊迫感がある。「あれは多分……ううん。間違いなく毒だよ。それも想像できないぐらい強力な」
「分かるのか」
「分かる……。どうして分かるのか私も確証できないけど。多分、あれは陰気の一種だからだと思う。きっと蛇辻が言う通り、神話の怪物が持つ特殊な毒なんだ」
「なるほど。どちらにせよ、当たってはならぬな」
「うん。ほんの少しでも触れたら駄目だよ。その瞬間にはきっと、命を落としてるから」
「……分かった。何よりもハナの言葉だ。信じぬ道理はない」
「ありがとう」
会話を交わしている間に次弾が装填されている。九匹の蛇が次々と毒気を撃つ。
辰也は横に走った。足元に毒気が着弾しては破裂していく。その一滴の飛沫すら人を即座に死へ至らせる。辰也は大きく距離を取る他にない。紙一重では近すぎる。
木を盾代わりにして立ち止まった。毒気が幹に当たり音を立てる。
そっと覗き込んで様子を伺う。蛇辻はその場から動かずに毒気を放ち続けている。
「さあどうする? 隠れていては私に勝てぬぞ?」
口角を上げる蛇辻。明らかな挑発だ。
対して辰也は取り合わない。磨耗した体力を回復させるため呼吸を整え、体内の気を滞りなく循環させて落ち着かせた。その間にも、蛇辻の動きを警戒するのは忘れない。
辰也が何をしているのかは勘付いているはずである。それでも回り込んできたりしないのは、勝利に対して揺るぎない自信があるからなのか。どちらにせよ、わざとその場に止まって、毒気を放ち続けているのは間違いないだろう。
さて、どう勝つかと考える。けれど妙案は何も浮かばない。何をしても雲を掴むが如く躱されるような気がしてならない。それでも勝たねばならぬ。
辰也はようやく決断した。
深呼吸を行なって、ハナを鞘に仕舞い込む。
これが正解なのかは分からない。だが他に有効そうな手は見当たらなかった。
木を盾にしたまま正面を向いて、居合の格好を取る。
勝負は一瞬。一太刀で終わる。
これは分が悪すぎる賭けだ。それでもやるしかなかった。
気を脚部に集中させる。
桜花一刀流居合術、春一番。
だがこれでは足りぬ。蛇姫と違い、蛇辻を当てずっぽうで斬ることは敵わない。根拠はないが、そう感じる。だから足さなければならない。
深呼吸を再度行う。緊張しているのが分かる。外せば確実に死ぬ。むしろその可能性の方が高い。
それでも引くわけにはいかない。
意を決して五感を集中する。
空の境地を発動。
瞬間酷い頭痛が走った。それを堪えながら、辰也は横に飛び出た。
襲いかかる毒気。地面を全力で蹴った。体が瞬く間に進む。
圧倒的な速度の中、空の境地は全てを知覚する。
連発された毒気が、全て狙い違わず辰也に向かってくるのが分かる。全て蛇辻が狙いをつけたのも分かる。
その尽くを避け、蛇辻の懐に潜り込む。
目が合った。相手も辰也を知覚している。蛇辻の体が右に逃げていく。
しかしもはや遅い。
鞘の中から逆袈裟にハナを解き放つ。
蛇辻は蛇行剣で防ごうとしている。だが狙いは正にその蛇行剣だった。
が、と音を立て、蛇行剣は弾き飛ばされた。驚愕で蛇辻の顔が歪む。
すかさず手首を返し、今度は袈裟懸けに振るう。
桜色の筋が蛇辻の体を斜めに分かつ。
「天晴」
と蛇辻は口の端を上げた。
ハナを振り下ろし、息を深く吐く辰也。手の内にある手応えに違和感があった。
確かに斬った。だが人を斬った時の感触ではなかった。もっと別の生き物の感触。
辰也は面を上げる。今度は辰也が驚愕で顔を歪めた。
蛇辻の体は斜めに裂かれていた。しかしその傷口には、蛇がうじゃうじゃと生えている。
そうして、ぼとりぼとりと蛇が落ちていき、蛇辻の体が解けて崩れ落ちた。後に残っているのは無数の蛇のみ。
「こ、これは……」
いつの間にか数え切れぬほどの蛇が寄り集まって、蛇辻蛇道の姿に擬態していたのである。
「ふっふっふ。これぞ、蛇法術蛇幻」
不気味な笑い声が周囲に響いて、辰也は周囲を見回すが姿形はない。
「見事な腕前よ。お主の技量は竜刀の域へ着実に近づいている。お主の剣がジャジャに届くのか、興味が出てきた。ちょうどジャジャの世にも飽きてきた所だしの。故にここで引き、お主が辿り着く先を見届けてやろうぞ」
蛇行剣を弾き飛ばした方角を見ると、どこにも落ちいていなかった。ただ声だけが聞こえてくる。
「だが心せよ。蛇剣衆の頭領は、かのお方を守るため今まで研鑽を積んできた剛の者。頭領を破らぬ限り、ジャジャに手が届く事はないと思え」
蛇辻の気配は、徐々に消えていった。
声も聞こえなくなった。
「いなくなったよ……」
ハナは呟く。
「そう……か」
辰也の鼻孔から、二筋の血が垂れた。
「辰也?」
ハナは様子がおかしいことに気づく。
辰也の手から離れて落下したハナが、乾いた音を立てる。
「え?」
げえ、と辰也は地面に吐瀉する。どろどろになったそれには、血が混じっていた。
「辰……也?」
ぐらり、と辰也の体が揺れたと思うや、どうと地面の上に倒れた。体が小さく痙攣を起こしている。
「辰也!」
返事はない。意識を失っている。
花びら、桜吹雪、空の境地、春一番と、体に大きな負担がかかる大技を発動させた反動が、安堵した途端一挙に押し寄せたのだ。
「辰也ーっ!!
ハナは号泣しているみたいに叫んでいた。
その声を聞いていたのは、生き物たちだけではなかった。
森の中を歩いていた少女も、泣き喚くような女の子の声を聞いて顔を上げていた。
彼女は真っ白な巫女服を着ている。
「今のは……」
少女の呟きを、一陣の風がさらっていった。
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