38 白蛇神社 一
「はあ……はあ……はあ」
息苦しくなりそうなほど木々や草が生茂る森の中は、深くて濃い闇に沈んでいる。
そうした中、荒く息を吐きながら、重たい足取りで地面を踏んで歩く少女の姿があった。
朱色の腰帯に引っ掛けた小さな提灯だけが、唯一頼りになる光だった。彼女が纏っている純白の巫女服は奇妙なまでに際立って、どこか幻想的な美しさを醸し出している。
だが彼女の顔は疲労の色が濃い。それもそのはずで、彼女は自分の細く小さな体よりも一回り以上大きな体躯の男、剣宮辰也を肩で支え、引きずりながら歩いていたからである。
辰也は気絶している。それ故に、さらに重く彼女の細身にのしかかっていた。
「ごめんなさい……。私が刀でなければ……」
しおらしい声で謝罪するのは、辰也の腰に提げられている桜刀ハナである。
「いえ……」
言葉少なく少女は返す。すでにまともな会話ができないほど疲労していた。
半刻前。
辰也が気絶して思わずハナが叫んだところ、現れたのは森の獣ではなく巫女服を着た彼女であった。
「やはり……そうなんですね」と少女は納得した顔で言う。「先ほどの叫び声は、あなたなんですね。刀さん」
「……分かるんですか……?」
地面に転がっているハナは、驚きの声音を隠せない。
「はい。あるお方が仰っておりました。それからそこに倒れている方が、剣宮辰也様」
そう言って彼女は、辰也に近づいて蹲み込んだ。手を当てて、脈拍と呼吸を調べる。
「大丈夫です。命に別状はありません」
「……そう」
安心した風にハナは呟いた。
「ですが、危険な状態には変わりありません。今すぐ連れて帰る必要がございますね」
少女はそう言うなり、迷うことなく辰也の左腕と肩を担いだ。
「だ、大丈夫なんですか? 誰かを呼んでこられた方が……」
「そのような暇はありませんし、人もおりません。そもそもいたとしても、蛇気に犯された人々は人を助けませんよ。そのことはよく知っているのでしょう? それに私はこう見えても力には自信があるんですよ」
余裕ありげに微笑んだけれど、辰也を持ち上げると顔をしかめた。
「あなたは一体……」
「私は見ての通り巫女です。……が、すみません。やはり重たいです。詳しく話している余裕がありません……。それに、剣宮様を一刻でも早く連れ帰らねば……」
少女は重々しく一歩を踏み出した。
ハナは彼女と出会った時のことを思い返しながら、改めて刀である自分がこういう時無力であることを実感する。
旅が始まってから、いつもそうだ。敵を斬る道具として唯一無二の存在で、辰也を助けてきた自負がある。しかしそれは、辰也がハナを万全に振るえる時だけだ。辰也自身を自分だけの力で助けられたことなんてない。今だってそうだ。ハナは誰かによって辰也が助けられるのを見ているだけなのだ。しかも、自分とそう年が変わらないであろう少女が、歯を食いしばって助けようとしてくれている。歯痒くて仕方がない。思えば山辺彩もそうした気持ちを抱いていたのだろう。
今辰也を助けようとしてくれている少女は、だらだらと汗を垂れ流し、顔色が青ざめて、へとへとになった足を無理やり前へ突き出している。もしも人間のままだったら、その役目を真っ先にしている自信がある。
そうしてさらに数刻経ってから、少女はようやく足を止めた。
ハナは思わず己の知覚を疑い、
「光だ……」
茫然と呟く。
目の前には大きな神社があった。白木造りの美しい社で、神気に満ちている。そればかりか太陽の日差しが降り注ぎ、きらきらと輝いて見えるのだ。
相変わらずの蛇空だが、どういうわけか空を泳ぐ黒蛇はこの神社を避けて通っている。そのおかげで青空が垣間見えて太陽の光が神社に差しているのだ。
しかしながら巫女の少女は、ハナが抱いているであろう疑問を予想できていながら、それに答えてやれる余裕はなかった。足元はふらつき、汗は滝のように流れ、呼吸はまるで嵐に似ていた。
さすがにハナも今は直接聞くことを躊躇わせる。何しろ辰也の生命もかかっているのだ。おいそれと邪魔をできるはずがない。
少女はやがて太陽によって照らされた地面に足を踏み入れた。そこでちょうど限界が来たのか、ぐらりとよろめき、転倒の兆候を見せた。
「あ!」
とハナが叫んだ。
その時、巨大な白い蛇の尾が伸びてきて、倒れそうになった少女の体を支えたのである。
畳が敷かれた四畳半の部屋に白い布団が敷かれている。眠っているのは辰也だった。枕元の傍には桜刀ハナが横たわっている。
横には巫女の少女が正座で座り、小さな水差しのような物で辰也に何やら飲ませていた。
「薬です。蛇気を追い出し傷ついた体を癒す効果があります。あとは安静にしていればいずれ目を覚ますかと」
「何から何まで……ありがとうございます」
「構いません。それよりも、主様とお会いにならなくともよろしいのですか?」
「はい。私は辰也の刀だから、会うときは辰也と一緒に」
「わかりました。主様もあなたの意思を尊重するように、とのことです」
「うん。……その、あなたの主様っって、もしかして……」と言いかけてから、ハナは間もを置いた。「ううん。全ては辰也が目覚めれば分かること。余計なことは今は聞かないでおきます」
「そうですね。それがよろしいかと」
「それより、あなたは大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。とはいえ、疲れているのは事実。私もこれから休むことにします。隣の部屋におりますので、何かあればお呼びください」
「わかりました。重ね重ねありがとうございます」
「いえ。全てはこの星のためにしたこと。それでは、お大事に」
そういって巫女は、静かで丁寧な所作で部屋から出て行った。
少ししてから隣室に人が入る気配があり、物音がわずかに聞こえたと思うと静かになった。
穏やかに寝息を立てる辰也の顔を眺める。
少女によれば、この神社に蛇剣衆が襲ってくる危険性はないのだと言う。全てを信じる気はないけれど、大きな神気を宿した何者かがいるのを感じ取っている今、少女の言う通り襲撃が起きる可能性は限りなく低いのだろう。
周囲に危険がないか探知する必要がないのであれば、辰也の寝顔をいつも以上に眺められる。不思議なことに、この旅の中で毎日のように見てきたのに少しも飽きが来ないのだ。
気になることは当然はある。この神社について、巫女の少女、それから大きな神気を持つ何者かがいる。さらに何やら覚えのある奇妙な気配がある。
これらの秘密について知りたく思う。けれどハナは辰也のそばから離れたくない。もしもの時に彼の手元からいなかったら、自死したくなるほど後悔するのは目に見えている。
そうして三日が経過した。
「辰也。おはよう」
目を開けた辰也にハナは声を掛けた。
「……どれぐらい寝ていた……」
二回目ともなれば慣れたのか、辰也はそんなことを聞いてきた。
「三日。どこか痛むところはない?」
「ない……。だが、体が重い。思うように動けぬ」
「何か欲しいものは?」
「喉が渇いた……。水が欲しい」
「分かった」
それからハナは、何やら大きな声で「辰也が起きました」と言った。
すると隣の部屋からごぞごそと音がしてから、がらりと戸が開いて巫女服を着た少女が入ってきた。
「お目覚めになられたのですね、剣宮辰也様」
「君は?」
「申し遅れました。私は、白蛇神社の巫女。白崎美也子と申します」
と、彼女は四つ指ついて礼をした。
「彼女が一人で辰也を助けてくれたんだよ」
そうハナが補足すると、辰也は驚いた顔をする。
「君が?」
その細身の体で大柄な辰也の体をここまで連れてきたのかと思うと、辰也は感服する思いだ。
「ありがとう……。おかげで助かった。ここまでどれほどの距離があったか分からぬが、大変だったろうに」
「いいえ。全ては私の主様が願ったこと。私はそれを叶えたまででございます」
「主? 失礼だが、その主様というのは、もしや」
「はい。この神社にて祀らわれております」
「ふむ……」
思案気な顔をする辰也。
「すみません」とハナが割って入った。「それよりも、お水を一杯頂けませんか」
「あ、これは気付きませんで、すみません」
そうして美也子はそそくさと水を用意した。碗に入った水は綺麗で、底が見えるほどだ。美也子はそれを辰也の口元に持っていく。
「いや……自分で飲める」
そう言って手を伸ばした辰也であったが、ふるふると震えている。
「そのように震えては溢れてしまいますよ」美也子は柔和な笑みを浮かべた。「どうぞ、お飲みください」
「……ぬう」
辰也はついに諦めた。口を開くと、ゆっくりと碗が近寄ってきて口の中に水が注がれた。
こくり、こくり。少量ずつ入ってくるのを辰也が飲み込んでいく。
「うう……」
恨めしそうな声をハナが発した。
その声に気づいているはずの美也子の手つきは優しく、無理のないように加減をしている。
「う、羨ましい」
ハナは思わず呟いた。しかし手がない自分が代われるわけもなく、じっと見ている他にない。
そうして腕の中身を辰也は飲み干した。
「……うまい」
辰也はしみじみと言った。
桃源島を出てから、飲んで来た水は濁っていて、お世辞にも美味しいと言えない代物だった。それは黒蛇ジャジャの影響なのは明らかだが、今飲んだ水は桃源島の水ほどではなくとも、十分以上に美味しい水である。
「よかった」と美也子ははにかんで、続ける。「今日は一日お休みください。お腹は空いておりますよね。今からお食事をご用意して参りますので、少々お待ちください」
戸が閉まるのを見送ってから、辰也は震え続ける手を見つめた。握ったり、開いたりを繰り返し、調子を見ている。
「どうしたの?」
「力が入らぬ……」
これではハナを握れない。
「無理もないよ。ここに来て安心して、疲労が一気に出たんだと思う」
「しかし俺たちは……」
一刻も早く、ジャジャを討たねばならぬ。
「その様子で戦えるの?」
「う……」
図星であった。今の状態では、何も斬れない。
「でも良かった」とハナは安堵した様子だ。「あのまま旅を続けていたら、辰也はきっと……」
死んでいた。それも、ジャジャを斬る前に。
その事は辰也も内心分かっていたのだが、焦りが休むことを許さなかった。だが例え休んでいても、土倉平太郎の家の時のように、蛇剣衆に襲われていたのは間違いない。
「そういえば、ここは大丈夫なのか」
辰也はようやく、長居していた場合、ここも襲われるかもしれないと危惧した。
「それは大丈夫だと思う。辰也も薄々勘付いていると思うけど、ここは神気に満ちているの。神様が今もここにいる証拠よ」
「やはり……。だが、どうしてここは平気なのだ?」
「私も詳しいことはまだ分からない。けど、外から見たこの神社は、太陽の光を浴びていたよ」
「太陽の光を……!?」
「うん」
「黒蛇は? 黒蛇はどうした? ここの結界はそれほどまでに強力なのか?」
「それが、どうもおかしいの。見たところ、結界は張っていないみたいで」
「何?」
「どうも黒蛇はここを避けているみたいなの」
「な……一体どういうことだ……?」
「分からない。でも、ここにいるべき理由はできたでしょ?」
「……確かに」
翌日になった。
辰也はハナを腰に提げ、美也子の案内で木張りの通路を歩く。
「こちらです」
美也子は言う。彼女が手先で示した先には大きな戸があった。華美な装飾が施され、重要な者がいることを示唆している。
「剣宮様をお連れしました」
「入れ」
荘厳な声が響いて、戸を美也子が開けた。
二人で中に入る。
辰也は、思わずはっと息を飲んだ。
「こちらが、白蛇様です」
無論、予想はしていた。白蛇神社という名前に、白い蛇の彫刻がこれまでの道筋の中で至るところに配置されていたためだ。それでも、辰也は驚きを隠せない。
巨大な白い蛇がとぐろを巻いて、舞台にいた。朱に塗られた屋根は白蛇を風雨から守るため。それは分かるがあまりに大きい。十尺は優に超えている。
白い蛇は赤い舌をちろりと伸ばし、辰也を観察しているようだった。
神気はますます濃く充満しており、この場に立っているだけで圧倒される。
紛れもなく神様だ。
辰也はとっさに片膝をついた。考えてのことではなかった。ただ体が自然と動いた。
「……お主が剣宮辰也か」
重々しい声が白蛇から発された。
「はっ」
「それから喋る刀。名は?」
「……桜刀ハナ、と申します」
「それは刀としての名前であろう。人としての名を言うてみよ」
辰也は再度驚いた。ハナも驚いている気配があった。
「神楽崎花奈、と言います」
「……不憫な子よ。いくらジャジャを討つためとはいえ、人の理を捨て、刀になろうとは。常世桜も
酷なことをする」
「……常世桜様は悪くありません。これは私自身が選んだことでございます」
「ふん。それでも、だ。しかし、もしも妾が同じ立場であれば、同じようにするであろうな。だからこそ、怒りが治らん。我々陽の神が、ジャジャに手出しできぬとはな。まったく、情けない」
辰也の隣にいる美也子が目を白黒させている。彼女は、ハナが元は刀であったことを知らなかったのだ。
「さて……お主たちをここに呼んだのは他でもない。当然抱いているであろう疑問に答えてやるためだ」
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