36 蛇法師蛇辻蛇道 前編
「攻撃だと? 一体どういう術理なのか分かるのか?」
剣宮辰也は戸惑いを隠せない。冷や汗を掻きながら周囲を見回すが、ごく普通の森にしか見えないのだ。だが今、何かに巻き込まれているのは確か。何しろどの方角へ歩いても、必ずやばつ印を付けた場所にまで戻ってしまうのである。
「分からない」桜刀ハナは率直に答える。「だけど何者かが私たちをこの場所に閉じ込めている。そういう作為を感じるの」
「閉じ込めている……か」辰也は考える素振りを見せた。「誰かが引き起こしているとして、その誰かが俺たちを見物していないか? その気配を探れないか?」
「やってみる」
とハナは言って、集中するために押し黙る。
あまりに得体の知れぬ事態だ。何が起きてもおかしくはない。
辰也はすぐに刀を抜けるように柄に手を添えた。そうして全方向へ警戒を向ける。
こうしてみると、なるほど辰也にも分かった。確かに変だ。違和感がある。
その違和感は生き物の気配だ。いないのだ、生き物が。小さな生き物ですら存在していない。
冷たい手で肌を撫でつけられているような、ぞっとする感覚が走った。
敵なのは間違いない。しかし蛇剣衆とは思えぬ手口。
「右に三歩」
とハナがそっと告げる。言われた通りに動く。
「前に二歩」
一本の木が辰也の目の前にそびえ立つ。
「斬って」
辰也は居合を放った。桜色の剣筋が木を横断する。
切断された木が変化した。切り口から多量の蛇へと変貌し、ついには木全体が蛇となってばらりと解けて崩れた。この木は多量の蛇が寄り集まって一本の木に化けていたのだ。
「これは……?」
思わず呆然とする辰也。それを叱咤するように緊迫したハナの声が飛んできた。
「後ろ!」
振り向き様に一閃。
しかし手応えはない。
目を向けると、
「ふっふっふ」
笑い声を立てて、一人の老人が立っていた。歪曲した腰のせいか身長は低い。この状況でなければ普通の老人だと思っていたことだろう。
だがこの老人の目を見た瞬間、おぞましい何かを感じ、体がぞくりと震えた。
「貴様、何者だ?」
辰也は強い敵意を老人にぶつける。けれど彼は、飄々と受け流す。
「私は蛇辻蛇道。いや、しかし、実に懐かしい気配がするのお」
「懐かしい? 俺と貴様は初対面のはず」
「ふっふ。これは失敬。お主がとてもよく似ておったのでな」
「似ている?」眉をしかめる。「俺の祖父のことか。貴様が、俺の祖父の腕を斬り落としたのか?」
「ふっふ。それは違う。お主の祖父の腕を斬り落としたのは私ではない。あれは我らが頭領の技。私が似ているといったのはな、剣宮竜刀のことじゃよ」
「剣宮竜刀だと? 戯言をほざくのも大概にしろ。千年以上も昔の人間だ」
「そうかそうか。もうそんなになるのか。いかんのお。歳を取ると歳月が経つのを早く感じていかん」
「な、何を言っている?」
「なあに。私はほんの少しだけ長く生きていると言う話だよ。それに伊達に歳を食っておらん。長く生きた分だけ色々なことを知っている。そう、例えば、桜花一刀流と剣宮流錬気法は、元は一つであったこととかのお。長い歴史の中で、剣技と錬気法を同時に操れる者がおらなんだせいで別れたがの。竜刀の才が秀ですぎていたが故の弊害よのお」
「な、なぜ?」
驚く辰也。なぜなら、蛇辻が言った通り、剣宮流錬気法は桜花一刀流から分離したものだからだ。しかもそれを知っているのは、今や島でもごく僅かな人間しかいない。なのになぜ、島の人間でもないこの老人が知っているのか。
「言うたであろう? 私は人よりも少しだけ長く生きていると。……それにしてもお主は本当に竜刀に似ておる。喋る刀を大事にしている所などそっくりじゃ」
「な……」
「……気づいていたの?」
絶句した辰也に代わり、ハナが尋ねた。
「ふっふ。お主ほど奇怪な気の混ざり具合はそうはおらぬ。それに竜刀もまた、常世桜のヒヒイロカネの刀を持っていたしの。常世桜も変わらんな。良かれと思って残酷なことをする」
「……剣宮竜刀様が喋る刀を持っていたなんて、私は知らないのだけど?」
「おお、そうであった、そうであった」蛇辻は演技めいた口調で言ってみせた。「自分たちのような者を再び産み出さぬようにと、伝えてこなかったのだったな。だが再びお主のような喋る刀が産み出された。人の業というのはいつの世も変わらぬものよ」
「……蛇辻蛇道。貴様は一体何者か」
中段に構えた辰也は険のある顔で尋ねる。
「何者、か。ふっふ。知っておろう? 蛇剣衆じゃよ。今はな」
「今は?」
「人は時と共に変わりゆくもの。いつまでも同じでいられようか。さてお喋りにも少々飽いた。そろそろお主の実力、見せてもらおうぞ」
蛇辻は両手を打ち合わせ、奇怪なまでに複雑な印を結んだ。
蛇気が膨れ上る。
「流れ流れ震え震え
喰らい喰らえ
蛇の口よ」
不気味な韻の歌が口から迸った。
「蛇法術蛇地獄!」
刹那、ハナが叫んだ。
「飛んで!」
反射的に飛び上がる辰也。
その後を追うように、地面から文字通り無数の蛇が生えた。辰也を食らおうと噛み付くも、紙一重の差で空振りに終わった。ハナが教えてくれなければ、辰也は食われていたに違いあるまい。
「な!」
驚愕の一声と共に、刀を木に突き刺して落下するのを防ぐ。眼下には足の踏み場がないほど地面から蛇が生えており、獲物が落ちてくるのを今か今かと待ち構えている。
「ふっふ。良くぞ気づいたぞ」
「な、なんだ、この術は……」
蛇法術。それは辰也もハナも聞いたことのない術であった。
蛇辻はさらに印を結び、歌を歌う。
「結び寄れ
木々生生
蛇生生
蛇法術蛇木生生」
無数の蛇が辰也の足元に集まり、辰也の足に食らいつこうと一本の木の如く形作っていく。
「ちっ。剣宮流錬気法花びら」
同時、刀を抜いて木を蹴った。体重を錬気法で軽くすることで重力の影響を最小限にし、軽やかに飛び跳ねる。そうして斜め前の太い枝に着地して蛇の難を逃れた。
「おお。さすが。軽気功も扱えるのか。ならば私も」
そう言って蛇辻もまた、辰也と同じように軽やかに飛び跳ねて、対面の細い枝木に立った。どう見ても老人の重さすら耐えきれぬほど細い枝であったが、折れることもしなることさえない。
花びらとよく似た錬気法に違いない。しかしその練度は、辰也を遥かに上回っている。兄の敬也と同程度か、あるいはそれ以上の錬気法に、辰也は戦慄した。
「た、辰也……。この人、おかしいよ」
ハナもまた戦慄したのか声が震えている。
「確かにな。尋常ではない錬気法の使い手だ。しかも奇怪な術も使う」
「そうだけど……そうじゃないんだよ、辰也」
いつになく切羽詰まった声だ。
「何?」
「この人の蛇気は、ジャジャの気じゃないんだよ」
「どういうことだ?」
「だから、ジャジャと違う蛇の気なんだ。し、しかも……こ、これは……一つじゃない。たくさんだ。たくさんの種類の蛇気が一杯に詰まっている……」
蛇辻の口が細い弧を描いた。
「……正解だ。さすがは歴代でも指折りの巫女」
その口ぶりはまるで、ハナが人であるかのよう。
「ハナ……それは本当か」
「うん。間違いないよ……。でもこれじゃあ、この人は……一体」
「相手が何者であろうとも関係ない。邪魔立てするのなら斬るのみ」
辰也は老人を睨みつけた。
「ふっふ」と蛇辻は不敵に笑っている。「斬れるものなら、斬ってみるが良い」
「そうさせてもらう」
そう言って辰也は、再び錬気法花びらで飛び上がった。高度な錬気法で体が悲鳴を上げるが関係ない。恐れ慄くハナを安心させるためならば、この程度の負荷は負荷ではない。
「桜花一刀流枝垂れ桜」
頭上に掲げたハナを、ふわりと振り下ろす。
微動だにしない蛇辻。しかし目線は辰也を射抜く。
刃が頭部に接する一瞬前。蛇辻の口が開いた。
「蛇地獄」
木から蛇が生えて、辰也を襲う。
「うぬ」
「辰也!」
強引にハナの軌道を変える。蛇が刃に噛み付いた。そのまま体ごと押され、蛇辻から遠ざけられた。
蛇が刃を放した。真っ逆さまに落下する。
地上では未だに無数の蛇が口を開いて今か今かと待ち構えていた。
辰也は重心を動かして反転。地面と激突する直前、独楽のように回って蛇を薙ぎ払う。
すかさず衝撃を足で吸収して着地し、刀を振るって血を飛ばした。
だが安心している暇はない。周囲の蛇が辰也を食い物にしようと集まってくる。
「く」
ハナで次々と払うも終わりが見えない。
さらに蛇辻は新たな印を結ぶ。
「猛れ猛れ
狂え燃えろ
轟々の火よ
蛇法術炎蛇」
瞬間、辰也に群がる蛇たちが一斉に炎を纏った。
「な!」
面食らいながらも手を止めずに斬り捨てていく。しかし蛇は再び地面から生まれ、そして炎を纏う。尋常ではない熱に囲まれ、辰也の全身から汗が吹き出す。喉が乾いていく。
「これぞ、炎蛇地獄。人は暑さで死ぬ」
にやり、と蛇辻は笑った。
蓄積された疲労、炎によって上昇した周囲の温度、襲いかかる蛇を斬り続ける運動、何よりも水分を取る余裕を与えない状況。全てが辰也を追い込んでいく。
「く」
辰也は体の負担を厭わずに再び花びらを発動。飛び上がる。
「炎蛇地獄」
しかし周りに生えている木々から炎を纏った蛇が大量に生えて落ちてくる。牙を剥く先は当然辰也だ。空中で刀を振るうので精一杯で、どこかの木に捕まる余裕はない。そのまま炎蛇が待つ地上への落下を余儀なくされた。
けれど危機はそれだけではなかった。
「木々生生
炎蛇生生
炎蛇木生生」
炎蛇が寄り集まり、燃え上がる蛇の木となって辰也に向かって伸びてくる。
落ち続ける中逃げることは不可能。辰也はハナを振りかぶった。
炎蛇が殺到する。辰也は奥歯を噛み締めた。
雄叫びを上げた。
そのままハナを間隙を与える間も無く連続で振るう。生き残るにはただひたすら斬って斬って斬ることのみ。
炎が肌を炙る。牙が肌を掠める。それでも辰也は攻撃を緩めない。
着地する辰也。膝を突き、視線が地面に向かっている。幾つかの負傷はあった。呼吸を隠せないほど疲弊し、脱水症状が出ている。
炎蛇は辰也を休める暇を与えない。全方位から近寄ってくる。
立ち上がった辰也は、力なく刀をぶら下げている。足元はふらつき、いつ倒れてもおかしくない。
炎蛇が襲いかかった。今ここで命を食らおうと牙を剝く。
横に薙いだ。炎蛇が寸断される。しかしそれで終わらない。辰也はなおも斬撃を放った。幾度も幾度も炎蛇を斬る。
「辰也……」
ハナが心配そうに呟いた。
炎を纏った蛇は無限に思えるほど湧き出てくる。
奇々怪々な術者、蛇辻は未だ力の全容を見せていない。そればかりか力のほんの一欠片ほどしか出していないようにハナは感じられた。
今までも絶体絶命の危機は何度もあった。
けれど今回は底のない沼の中で足掻き続けているような、そんな絶望的な力の差を感じ取っている。この炎蛇地獄を抜け出しても、次の手札がくるだろう。それを躱したとしても、さらにその次の手札が。その次の次の手札も。果たしてどれほどの手札を隠し持っているのか、ハナには見当もつかない。それほど蛇辻はあまりに異様で歪で奇怪であった。
ここで本当に終わるかも知れないとハナは思った。ここから挽回する手立てをハナは思いつけない。けれど覚悟はすでに終わらせている。島を出た時には。刀になると決めた時には。辰也が使命を帯びた幼いあの頃にはすでに。
そのはずだ。そのはずなのに。
絶望的な気持ちがハナを支配する。
そうだ、これではあんまりなのだ。
まだジャジャの元に辿り着けていないのに。
まだ青空を取り戻せていないのに。
「大丈夫だ、ハナ」
しかし辰也の目は諦めていなかった。
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