31 隠密襲来 四

 松吉の脂肪が筋肉に変貌し膨れ上がっていく。

 篠塚忠雄と戦った時に起きた現象と同じである。剣宮流錬気法を修めた辰也であっても、どのような気の作用によってこの奇怪な現象が起きているのか皆目見当もつかない。

 腰をかがめ、錫杖の下部を握り下段に構えた松吉は、岩壁が終わる先を見据えている。

 やがて筋肉の膨張が最高潮に達した時、

「行くぞ」

 岩壁の先へと飛び出した。

 暗闇の中待ち受けるは蛇剣衆。見渡すばかりの敵、敵、敵。

 好戦的な笑みを浮かべた松吉は、錫杖で力任せに薙ぎ払う。

「山王流杖術! 暴風倒木!」

 それは暴力的な嵐だった。錫杖をぐるりぐるりと振り回し、巻き込まれた者を尽く打ち飛ばす。

 ある者は背骨を折られ、またある者は頭骨が粉砕し、あるいは血反吐を吐いた。

 そこかしこで悲鳴が上がり、痛みで呻く声が響く。

 出てきた所を襲うはずだった蛇剣衆たちは逆に不意打ちを喰らった形になり、全員面食らう。

 その隙を松吉は逃さない。錫杖を真ん中で持ち、その太い手で器用に取り回し、両端を用いて周囲にいる蛇剣衆たちに次々と打ち込んだ。

「今だ!」

 松吉は叫んだ。

 間髪入れずに彩を抱き込んだ辰也が駆けてきた。

「借りるぞ!」

「応っ」

 辰也は迷うことなく松吉の肩を踏み込み、飛び上がった。

「きゃあ!」

 悲鳴を上げる彩の手にはハナがしっかりと握られている。

 眼下に過ぎゆく蛇剣衆たちを飛び越えて着地すると、一目散に走り出した。

 呆気に取られた蛇剣衆たちを、松吉が容赦無く強襲する。

「さあさ俺を倒してみせよ!」

 吠えながら錫杖を振るう。松吉に殺到する蛇剣衆。

 剣戟の音が深閑な山の中で鳴り響いた。


 山を駆け下りていく辰也。その腕で彩を抱えたままだ。

「け、剣宮様!」

 焦った様子で彩は叫んだ。足を止めずに辰也は、

「どうした?」

「そ、そろそろ降ろしてください!」

 見ればその顔は赤面している。

 一旦立ち止まって後ろを振り返ると追手はいない。

「敵はいないから早く降ろして」

 とハナは何やら棘のある声で言う。

 辰也は彩を下ろした。地面を踏み締めた彼女は、ふぅーと安心したように息を吐き出す。それからハナを辰也に手渡し、辰也からは小刀を受け取った。

 ハナを手にした辰也は、じい、と刀身を見つめる。

「……ハナ。機嫌が悪いようだが……」

「私だってああ言う風に抱き上げて貰ったことないのに……」

 ハナはぼそりと呟いた。それを聞いていた彩は、きょとんと首を傾げる。

「抱き上げて……?」

「な、なんでもない!」

 慌てて否定する。心なしか恥ずかしそうだ。

 羨ましく思っているのだろうかと、彩は考える。しかし奇妙でもある。刀なのだから、人に抱き上げられることがあるはずがない。これではまるで……。

「ゆっくりしている時間はない」辰也が彩の思考を遮って言う。「進むぞ」

「はい」

 そう返事して彩は考え直す。そうだ。今は急がなければならない。いつまた追手が来るか分からないのだから。

 一行は歩き出した。

 道案内役の松吉がいないのは不安だが、兎角今は山を降り、黒蛇ジャジャの元へ向かうのみ。

 進むにつれて段々と岩肌の地面は薄れ、木々が増えて行く。

 そうして今や完全に山林の中にいる。


 突然、辰也は刀を眼前に上げた。

 確かな衝撃が加わり、同時に、きぃんっ、と甲高い音が響いた。

 桜色の小さな光で照らされて一瞬見せたその姿は、黒づくめの装束で全身を包んだ男であった。得物は黒い刃の刀で鍔がなく、全てが闇と同化している。

 そして瞬く間に彼は離脱し気づいた時には目の前から消えていた。

「な!」

 驚きの声を辰也が上げる。防御しなければ首が飛んでいた所であった。しかしそれにしても、何の気配も感じなかった。防げたのは虫の知らせのようなものを感じたからである。全くの偶然に過ぎない。

「辰也……ごめん。何も感じ取れない。気配が全くないの」

 ハナの声が小さく耳に届く。その事実に驚愕と戦慄を隠せない。

 そもそも、ないのは気配だけではなかった。音すら全く聞こえなかった。相手は黒い装束を着ているおかげで闇の中に溶け込み、視認することも難しい。

 辰也はハナを振るった。またも刀に衝撃が走った。

 どうやら相手は一撃を入れる度に離れている。徹底的に姿を見せないようにしているのだ。

 辰也は咄嗟に彩に向けてハナを繰り出すと、そこにも衝撃が起きた。

「蛇剣衆か! どこにいる!?」

 辰也は吠えた。しかし案の定返事がない。

 ただ無言で攻撃が来る。

 今度も防ぐが逸れた刃が頬を裂いた。

 幾度も強敵を破ってきたが今回はまた違う意味で強敵だ。勘だけで防ぎ続けるのも限度がある。このまま続けてもいつ致命傷を負わされてもおかしくない。むしろ今まで防げたのは奇跡のようなもの。

 反撃をしなければならない。だが糸口すら掴めない。

 辰也の頰を汗が伝った。


 襲撃者の正体は隠密筆頭の景山伸介。

 彼は木陰に隠れて辰也を観察し、音も気配もない襲撃を繰り返す。

 しかし防御される。

 最初こそ偶然かと思ったが、何度も何度も防がれてはそうも言い切れない。

 どうやら攻撃のみを察知しているようで、こちらの位置まで掴めていないようだ。事実防ぐだけで反撃をしてこない。

 それでも十二分に驚異的である。蛇剣衆のあの二人以外にこのような芸当が出来る者は初めてだ。強い敵であることは理解していたが、よもやここまでとは。

 二段三段と策を構えて修験者と切り離し、自分に有利なこの山林を戦いの場に選んだのは正解だった。でなければもっと攻めあぐねていただろう。

 果たしてこちらの剣が届くのが先か。あるいは相手が慣れてこちらが斬られるか。


 敵の剣撃を受けながら辰也は考える。

 なぜ見えぬ攻撃を防ぎ続けることが出来ているのか。

 空の境地が発動しているわけではないだろう。だがこの謎を解けば、あるいは空の境地へと近づくのかもしれない。

 人が備わっている感覚は一般的には五つに分類される。その一つ一つを考察すれば答えに近づくのではないかと辰也は考えた。

 視覚は現状役に立っていない。味覚はさすがに論外だ。聴覚においてはほとんど聞き取れていないから可能性としては薄いだろう。嗅覚で感じ取れるほど臭うわけではない。ならば触覚か。

 人が、動物が、物が動く度に絶対に触れなければならないものが一つある。それは空気だ。空気が動く時、気流が生まれ、それを肌で感じていたのだとすれば。

 辰也は荒唐無稽だと断ずることができなかった。むしろ妙に真実味を帯びて、考えれば考えるほどそれが事実であるようにしか思えない。

 辰也は肌に意識を集中させた。

 空気の流れを感じ取る。何かが動く度、空気の流れが変化する。

 彩が体を震わせる時、空気も一緒に震えて伝わった。生き物が呼吸すると、その気配さえも空気を伝って存在を感じ取れる。

 世界が一挙に広がった。その情報量の多さに目眩を感じるほどだ。そうしてその肌の感覚に、音が加わり、匂いが紐付き、明確な形となって現れた。全ての五感が、周囲一帯を知覚している。

 そうして、微動だにしなかった何かが音もなく急激に動いたのが分かった。それは長い何かを手にして振るってくる。

 辰也は刀で受け止めた。甲高い音が鳴り響き、衝撃で手が痺れ、それが刀なのだと理解した。

 田所勘兵衛との戦いの最中に全てを知覚したあの感覚が今再び蘇った。

 いや、あの時よりもより精細に、明確に、自覚的に知覚している。

 これが、これこそが、空の境地だと辰也は確信を得た。

 辰也は緩やかに歩き出した。一歩一歩が襲いかかる刺客に向かっている。

 刺客が動いた。姿は見えない。けれど分かる。空気が動いているのだから。

 そうして難なく防いだ。

 もしも暗闇の中でなければ、辰也はこの境地に至れなかったろう。正常な視覚を持つ人として生まれた以上、最も分かりやすい目による情報に頼り過ぎてしまうのは致し方のないことである。

 しかし世界は音に満ち溢れ、匂いに満ち足りて、空気が常に動いている。それらを自覚的に鋭敏に知覚することができれば、視覚などなくとも知覚できるのではないか。

 何しろ光が届かない深海や洞窟の奥底にいる生物は、目以外の感覚器官を発達させて知覚しているのだ。無論、辰也たちはこの事を知らないが、しかし、今や暗闇に沈んでいるこの世界に限って言えば条件が整っていると言えよう。

 となれば、ますますもって、世界が闇に閉ざされていない時代を生きたにも関わらず、空の境地を編み出した桜花一刀流開祖の剣宮竜刀は、異質な才能の持ち主であることを証明しているわけであるが。

 それでも、剣宮辰也もまた稀有な才能の持ち主であることには変わりない。

 四方八方から来る剣撃を全て受け止め続ける。


 景山はさすがに焦りを感じずにはいられない。

 攻撃は簡単に防がれてしまうようになったからだ。その上、こちらの位置をどのように把握しているのか分からないが、こちらに近寄ってくる。偶然ではない証拠に、攻撃をして場所を変えても変わらずに追ってくるのだ。

 反撃が未だないのは幸いだが、こうなれば時間の問題であろう。

 それでも景山は攻撃の手を緩めない。

 ゆるりと近寄り一撃を加えて即座に飛ぶように離れ、今度は木の幹を蹴って上から襲う。

 どれもこれも防がれる。だが景山は己の位置がばれているのならと、襲撃する拍子を激化させて休む暇を与えない。


 辰也の顔面に汗が滲んだ。

 顔色は青ざめ、呼吸が荒くなっている。

 一太刀受ける度に蓄積されていた疲労が表に出ていく。

 土倉の家で休んだと言えど万全の状態になっていない。加えて空の境地はすべての感覚を総動員させるために多大な集中力を要する。故に、心身への影響が強いのだ。

 このままいけば疲労が限界に達して刃の餌食になる事は明白である。

 かと言って空の境地を止めれば攻撃を防げない。

 反撃をする必要がある。だが相手も一撃離脱を徹底しており隙がない。

 今は耐えるのみ。


 彩は辰也の様子がおかしくなっていることに気づいた。今まで足を進めていたのに止まったからだ。

 嫌な予感で胸が騒ぐ。

 彩は暗闇の中桜色の光に向かって歩んだ。辰也には止まるように言われていたが知ったことではない。

 剣戟の音が響いている。今も現在進行形で辰也は攻撃を受けている。

 体が震えて止まらない。恐怖で喘いでいる。けれど歩みは止めない。意地でも進む。

 辰也の元に戦えない自分が行っても何も出来ない事は勿論分かっている。

 それでも、彩は足を止めない。


 景山は襲撃を繰り返しながら、女が近寄っていることに気づいた。

 足手まといの女だ。辰也と修験者はその自由になりきれぬ心で見捨てぬことが出来ない。守ることに囚われている。だからこそ修験者と辰也を切り離すことに利用することが出来た。もしも彼らが女を守ろうとしなければ、三人で固まって戦い進み、今のこの状況は実現しなかったろう。

 だが今やそれも用済み。もはや眼中にない。女の行動の意味は分からぬがどうせ大したことはないだろう。せいぜいが足を引っ張るのが落ちだ。それで巻き込まれて死のうともそれがその女の運命でしかない。

 今はそれよりも剣宮辰也。動きが徐々に鈍くなっている。

 ここに来て数々の死闘を繰り広げてきたが故の疲労が表出しているのだ。

 もしも万全の状態であったならば、すでに景山の命はなかろう。

 なれば今こそ勝機を掴む時。

 景山はより苛烈に攻撃を加える。

 こちらの体力の損耗も激しいがそれよりも剣宮の体力が尽きるのが先だ。

 上から、左右から、斜めから、時には背後からも一撃を加えていく。どれも防がれるがその度に剣宮は苦悶の表情を浮かべ、後退りする。

 相手は反撃を行える余裕はすでにない。

 景山は己が出せる最大の速度で前方から強襲する。

 無論相手は刀を掲げて防御の姿勢を取った。

 間合いに入った瞬間、景山は地面を蹴って飛び上がった。剣宮からは一瞬にして視界から消えたように見えただろう。

 景山は身を捻りながら剣宮の背後に音もなく降り立つ。黒き刃はすでに振りかぶっており、あとは斬るのみ。

 渾身の力を込めて振り下ろす。

 振り返る剣宮。しかし極度の疲労がたたり間に合わない。

 討ち取れる。

 そう確信した直後、影が剣宮の前に出た。

 驚く景山。振り下ろした刀は止められない。

 確かな手応えと共に鮮血が飛び散った。

 しかし、斬ったのは女であった。刃は深く入りすぎたせいで体の半ばで止まっている。

 慌てて引き抜こうとするも女は自らの手で刃を掴んだ。口元から赤い血を一筋垂らし嬉しそうに笑んでいる。

 景山はぞっとした。

 前蹴りで突き放し強引に刀を抜き取り顔を上げた瞬間。

 剣宮が叫びながら刀を袈裟懸けに振るっていた。


 どさり、と地に崩れ落ちる音が二つ。

 辰也は男の方を油断なく見遣ったが、黒蛇が出てくる様子はない。

「……大丈夫。祝福は受けていないよ」

 ハナの声を聞くよりも早く、膝をついて辰也は彩の胸元を開いた。

 肩口から入った傷はそのまま腹にまで達している。胸を巻いている晒しは真っ赤に染まり、目からは焦点が失っている。

「彩!」

 必死の形相で呼びかける。

「ぐぶ……」苦しそうに血を吐く彩。「け……剣宮……さま……」

「喋るな! 今手当てをする!」

 けれど彩は弱々しく口を開く。

「無事……でしょう……か? て、敵は?」

「倒した! 君のおかげで俺は大した怪我はない! どうしてこんなことを! 君は俺を利用しているのではなかったか!」

「ふ……ふ。初めは……そうでした……。ですが……いつのまにか……あなたの力に、なりたいと……思うように……なっていたの……です」

「彩……君は……」

「あ……ああ……でも……よか……った。はじめて……お役に……立てました……」

「そんなことはない! 君がいてくれたお蔭で随分と救われてきた!」

「それは……嬉しい……です……」

 げふ、と彩は再び血を吐いた。

「彩!」

「……剣宮……さま……私……剣宮さまの……ことが……」

「もういい! 喋るな!」

 彩はそろそろと腕を伸ばし、血塗れの手で辰也の頰に力なく触れた。

 体温が急速に失っていくのを辰也は感じ取る。

「好き……でした……」

 辰也に触れていた手から力が抜け落ちた。

 それを辰也はひしと掴む。

「それ……から……おねがいが……あり、ます」

「なんだ? 俺にできることならなんでも!」

「……この……世界に……あお……ぞら……を……」

「約束する! だから君は生きろ!」

 その言葉を聞いた彩は、僅かに口角を上げた。

 そうして、動かなくなった。

「彩……彩」

 辰也の両目から涙が滴り落ちて、物言わぬ彩の顔を濡らしていく。

「彩!」

 山辺彩はここに、永遠の眠りについた。




 全身が返り血で赤く染まっている松吉は、山の中腹辺りにある岩壁の前にいる。目の前の壁には大振りの葉や草が覆っているが、それを開けると洞窟の入り口が現れた。松吉は警戒を解くことなく中に入り、曲がりくねった道を暫し進むと開けた場所に出た。

 蝋燭の光で照らされており、そこには一人の大柄な男がいる。

「おう、生きていたか、松吉よ」

 と、大柄の男は笑いかけた。彼は平太郎であった。

「それはこちらの台詞ですよ、師匠」

 そう言いながらも、内心ではほうと安堵する。

 ここは松吉が街へ降りる前、二人で定めたもしもの時のための避難場所であった。言葉を交わしここを集合場所に選んだ訳ではなかったが、暗黙の了解でこの洞窟に二人して向かったのである。

「剣宮殿は無事に逃れたか?」

「はい」平太郎の質問に松吉は肯首する。「彼らなら無事に逃げることが出来ましょう」

「うむ」

「して、我らはどうしましょうか、師匠。二人の後を追い、共に戦いますか?」

「それも良い。だが我らは他にやるべきことがある」

「と言うと?」

「我らの他にも隠れ潜んでいる修験者がいるのは知っているな」

「はい」

「彼らを集め、皆で戦おうぞ。それこそが、剣宮殿の助けにもなろう」

「なるほど。では、そのように」

 そうして、二人は一晩休んだ後に、二手に別れ山を駆けた。

 全ては黒蛇ジャジャを討つために。

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