32 桃源島事変 前編
鬼気迫るとは正にこう言う事を言うのだろう。
蛇空の暗黒に呑み込まれることなく、暖かな陽光に包まれている桃源島。
堂々とした威容の常世桜が見守る中、桜神社の舞台の上で笛や太鼓の音に乗って舞い踊る一人の少女の姿があった。
時に激しく、時に優しく舞う彼女から凄まじい気迫が放たれ、見ている巫女たちを釘付けにさせずにはいられない。
桜を模したかんざしで黒い頭髪を結い上げている彼女は、汗を垂れ流しながらもつぶらな瞳がらんと輝き、桜色に染まった巫女装束の長い袖が舞いに合わせて縦横無尽に踊っている。
周囲に控える巫女たちは、みなその姿に息を呑む。確かに技術はまだ未熟かもしれない。だが一心不乱に舞う彼女からは、補って余るほどの迫力がある。
舞いを教える元巫女の老婆にいつも心で舞うようにと口酸っぱく教えられて、巫女たちはそれを毎度うっとおしく感じながら聞いていたのだが、目の前の光景を見ればそれが真理であると理解せざるえない。
なるほど、舞いは心だ。少なくとも今目の前で踊る彼女は、技術ではなく、心で踊っているのは誰にとっても疑いようのない事である。そうして今の彼女の前では、どれほどの技量の持ち主であっても心で踊れなければ敵うまい。
見つめていた一人の巫女が、とうとう我慢しきれずに涙を溢した。あまりに美しく感動した。それもあるだろう。だがそれ以前に、彼女は、いや、今この場にいる全員は、少女がなぜここまで心を込められるのか、その事情を知っていたからである。彼女の舞に込めた切なる想いが痛切に伝わって、いたたまれなくなって、思わず泣いてしまったのだ。
他の巫女たちも涙ぐむ者がおり、拳を握り締めて必至に我慢し続ける者もいる。
舞いを舞う少女の名前は神楽崎花絵。刀となった花奈の妹だ。
彼女の鬼気迫る舞に皆が身動きできぬ中、一人の女性が立ち上がった。彼女は緩やかに舞いながら花絵に近寄り、
「花絵さん」
と声をかける。呼ばれた花絵は目線だけで返事をしながら、何食わぬ顔で舞い続けている。
「もう十分過ぎるほど舞ったでしょう? そろそろ私にも辰也のために舞わせてもらえないかしら」
女性の口調こそ穏やかだが、その声は有無を言わさない力強さがあった。それもそのはずで、彼女は剣宮景子。辰也の母親なのである。
「おばさま……」
さすがに花絵も言う事を聞かざる得ない。緩やかに舞いながら退場していく。
景子は逆に、動きこそゆったりしているものの、身振りは大きくなった。一つ一つの動作はもとより爪先にすら情感がたっぷりと込められて、見る人をたちまち魅了させる。
元々巫女であった景子は、花絵の様な未熟なれど若く瑞々しく力強い舞こそ踊れぬが、熟達した技術に裏付けられた舞いは人々を感嘆させた。そうして何よりも、込められた心は花絵にも負けないほどなのだから、もはや言うべきことは何もないだろう。
花絵は荒く息を吐きながら、景子が舞う姿を見つめていた。素直にすごいと思う。長い間舞いを舞っていなかったのに、技量の衰えを感じさせない。そればかりか、舞えば舞うほど以前の勘を取り戻していくのか、見るたびに凄みが増していくのは圧巻の一言に尽きる。
姉である花奈の舞いも花奈にとっては到達できる気がしないものであったが、それを遥かに超えている。しかし、同時に思ってしまう。もしも姉が人のまま舞い続ければ、景子のような凄まじい舞い手になれたのではないか、と。
「花絵」
聞き慣れた優しい声で呼びかけられて、花絵は振り向いた。案の定そこには母の緒花が微笑んでいる。彼女は持っていた手拭いで花絵の汗を丁寧に拭ってやった。花絵はくすぐったそうに受け入れる。
「無理をしては駄目よ」
と、汗を拭き終えた緒花は言った。
図星を突かれて花絵は困った顔をする。
「桃源島をあの方のために守りたいのは分かります。母も同じ気持ちですから。ですが、ここで無理をして倒れてはなりません。それはあの方も喜ばないでしょう」
「ですがお母様。私は……」
「何かをしていないと気が気でないのですね。しかし今日はもう休みなさい。この島を守りたいのは何も貴女だけではありません。ここにいる皆は全て、同じ気持ちなのです。後は私や彼女たちに任せて、帰りなさい」
花絵は返す言葉が思い浮かばなかった。「はい、お母様」と意気消沈した声で返事をして、へとへとになった足で外に向かう。
出ていくのを見送った緒花は、景子の舞へ視線を向けた。凄まじい舞であったが、やはり体力面では若い者に劣っている。見るからに疲れが出ていた。
「さて、流石の舞ですが、やはりよる年並には敵いませんね。そろそろ代わって上げなければ」
そう言って緒花は、景子と交代すべく舞台に上がった。
その眼差しに込められた心は、花絵や景子に匹敵している。
桜神社から外に出た花絵は、空を見上げた。
おどろおどろしい蛇空に囲まれた丸い青空を見ていると、つい大好きな花奈や辰也のことを思い出して胸に込み上げるものがある。
辰也が島を出てからも黒蛇の浸食は止まらない。それどころか最近は、より一層強く浸食するようになっていた。おかげで青空は当時は考えられないほど小さくなっている。
そこで巫女たちが代わる代わる舞を舞い、常世桜の手助けをする儀式を行うことになったのだ。花絵などの現役の巫女たちに加え、緒花や景子のようにすでに引退した女性たちも参加しているこの儀式は、昼夜問わず行われ続けている。
確かに効果はあった。しかし浸食が完全に止まるわけではなかった。遅らせているだけに過ぎず、黒蛇に犯されるのは時間の問題だ。
にも関わらず巫女たちがこの過酷な儀式を行うのは、必ずや辰也が黒蛇ジャジャを討ち果たし帰ってくると信じているからである。
その中でも、特に花絵が舞に賭ける想いは強く重い。
黒蛇に犯され無残を晒した桃源島を、帰ってきた辰也に見せるわけにはいかないのだ。
だからこそ、辰也が黒蛇を晴らすその時まで、この島を守り通す必要がある。
花絵は後ろ髪に惹かれるように、振り返って常世桜を見た。
雄々しくそびえ立つ巨木は、今日もいつもと変わらぬ美しい桜の花を咲かせている。
もっとあの下の舞台で舞いたかった。それが死地に赴いた辰也と刀に変貌した姉に対してできる唯一のことだから。
けれど今日はもう帰れと言われてしまった。
花絵は途方に暮れて、とぼとぼと歩く。突然できてしまった暇だけれど、特段にやりたいことなんて何もなかった。何もしたくなかった。
いつの間にか小高い丘の上にいた。常世桜が一望できる辰也と花奈のお気に入りの場所で、もちろん花絵も大好きだった。
まばらに人がいる。みんな常世桜を眺めているけれど、不安な表情を浮かべている。
あの時は大変だったとしみじみ思う。
辰也と花奈を二人きりにさせるため、島の色んなところを回り、この丘に行かないように頼んだのだ。幸いなことにみんな協力的で、中には進んで他の人たちにも伝えてくれた人もいた。おかげで二人はこの見晴らしを独占できたはずだ。
ぽろり、と涙が一筋流れた。
辰也は今もきっと花奈を手にして戦っている。それもいつ死んでもおかしくない戦いだ。
島を守るため舞を舞っている間は良かった。自分が何かの力になれている実感があったから。
だけど何もしないでいると、酷い罪悪感に囚われる。彼らは生死を賭けて戦っているのに、ここでのうのうとのんびり過ごすしかない自分に嫌気が差す。何もできない自分が恨めしい。
刀となって辰也と共に戦える姉のことが、羨ましいとさえ思う。
そうして、そう考える自分が嫌になる。
花絵は幼子みたいに声を上げて泣き喚きたくなった。
けれど唇を噛んで、思い切り拳を握って、我慢する。
だって、約束したから。心身ともに傷ついて帰ってきた辰也お兄ちゃんを支えてあげると、かけがいのない姉と約束したから。
みっともなく泣きじゃくるような女の子に、辰也のことを支えられるとは思わないから。
その夜。
常世桜の結界に小さな綻びができた。
一匹の小さな黒蛇が綻びに近寄って頭を当てる。ぐりぐりと捻りを加えながら体を押し込んでいく。
そうして、一晩かけてその黒蛇は島内に侵入したのであった。
がばり、と花絵は勢いよく上体を起こした。
たっぷりとした寝汗をかいて、ぜいぜいと息を荒げる。
「……何、今の?」
独りごちた。
嫌な夢を見た。一匹の小さな黒蛇が島に入ってくるというものだった。
心当たりはある。常世桜のお告げだ。常世桜は夢を通して選ばれた島民に語りかけてくることがあった。
けれど大抵の場合は神主の桜木正造の元にお告げが来る。花絵の元にお告げが来たことは一度もなかった。だからこれはただの悪い夢で、常世桜のお告げとは関係ないだろうと花絵は思いたかった。
しかし、やけにあの夢は現実味を帯びていて、どうにも捨て置くことができない。
それに何やら黒い気配が一つ、微かにだが感じ取れた。昨日までは感じなかった特異な気配だ。
花絵は小袖に着替えると、庭に出た。
威勢の良い掛け声が聞こえてくる。声に向かって足を進めると、祖父の神楽崎錬太郎が筋骨隆々な上半身を晒け出して真剣で素振りをしている姿がある。
全盛期より老いたとはいえ、未だ島内屈指の実力者である彼は、こうして毎朝刀を振るうのが日課であった。
「お祖父様」
「花絵か」
錬太郎は荒く息を吐きながら花絵を見ると、いつもと違う彼女の様子に心配そうな顔つきとなった。
「どうかしたのか?」
「いえ……実は」
花絵は今朝見た夢を説明すると、錬太郎は真剣な面持ちでふむと肯く。
「それは真か?」
「はい」
「それは正に常世桜様のお告げに違いない。しかしそれが事実だとすれば……」
大変なことが起きている。そう錬太郎が思案した矢先、玄関から声が聞こえた。神主の使いなのだと声は言う。
錬太郎と花絵は顔を見合わせる。
「お祖父様、これは」
「ああ」
二人は急ぎ玄関に向かった。
使いは挨拶もそこそこに言う。
「錬太郎様、神主様がお告げを得ました。急ぎ桜神社へ」
「やはり、か」
「やはり?」
「この花絵もお告げを受けた」
「本当ですか」
と、使いは驚きと共に花絵を見る。
「はい」
花絵は大きく頷いた。
桜神社の離れ家に二人は入った。
桜木正造が使っている家である。
案内された部屋に入室すると、すでに村長と辰也の祖父である克也、それから桜花一刀流師範の藤堂雅和が胡坐をかいていたが、正造はまだ部屋に来ていない。
錬太郎は口を開いた。
「おう、克也。お主も来ていたか」
「ああ」
目配せすら交わすことなく克也は言った。
花絵は錬太郎の後ろに隠れる。彼女は克也が苦手であった。隻腕で、いつも厳しい顔つきで、単純に怖かった。
「少しは笑え。花絵が怖がっておる。顔も怖い」
錬太郎は皮肉げに言うと、克也は鼻を鳴らした。
「ふん。これが俺の生来の顔よ。どうしようも出来ぬわ。それに面白きことなく笑えることがどうして出来ようか」
「全くお主は」
呆れたように錬太郎は言う。
傍にいる村長は、これがいつものことだと平静のままである。
そうして錬太郎と花絵は予め用意されていた座布団の上に座った。
使いが用意してくれた茶を、ずず、と啜る。
するとようやく、正造が襖を開けて入ってきた。
やつれている。連日に及ぶ儀式で、心身共に疲弊しているのが見て取るように分かった。いや、原因は儀式だけではないのだろう。花奈を刀にし、辰也を死地に向かわせたことに対する自責の念が、彼を責め果てていることは疑いようがない。
「今日はよう来てくれました。それに花絵殿も。あなたの舞いには随分と助かっています」
正造は場の四人を見回して言った。
「いえ。これも島のため。私如き舞で島が守れるのならば、いくらでも舞いましょう」
と、花絵は返す。
「疲れているでしょう。今日は舞わず休んでいなさい」
「いえ、舞わせてください」
強情な花絵に、正造は微笑んだ。
「あなたばかり舞わせては、他の者に花を持たせられません。どうかご自愛なさいませ」
「……分かりました」
渋々といった様子で、花絵は首を縦に振った。
「お主も少しは休んだらどうだ」
と村長が口を開く。
「休んでいますとも」
とは言うが、この中の誰もが信じていない。そも今の神主は、他の誰が注意しようとも聞く耳を持たないことは全員重々承知である。それほどまでに彼は、己に対して罰を欲していた。もしも彼が神主でなければ、早々に自害していたやも知れぬ程に。故に、誰もこれ以上言えることがなかった。
正造は床に正座をし、おもむろに言う。
「さて、本日はお集まりされた皆々様に伝えなければならないことがございます。ことは急を要します上」
「使いから聞いたが、お告げがあったそうだな」
と克也は言った。花絵と錬太郎は黙している。
「はい」と正造は肯く。「夢の中で黒蛇が島内に侵入しました。この夢をそこの花絵も見たそうです」
言葉を受けて、錬太郎以外の全員が花絵に注目する。強面たちに睨まれて思わずたじろぐ花絵であったが、全ては島のため、辰也と姉のためだ。意を決して言葉を紡ぐ。
「……その通りでございます。大きさがこれぐらいで、禍々しい黒蛇でありました。間違いありません」
と、両手を使って一尺ほどの大きさを指し示すと、正造も同意する。
たちまち村長と克也は考え込む様子を見せた。
「事実であれば、重大な危機である」村長は重苦しく声を発する。「恐らくジャジャは、内部より常世桜様を攻撃し結界を弱めさせるのが目的に違いあるまい。だが見つけるのは容易ではないだろう」
「その事であれば私にお任せください」
「何?」
皆が再び花絵に注目する。
「……実は、微かにですが、黒い気配を感じるのです。恐らくこれが」
「黒蛇ですか」ため息を吐くように正造は呟いて、「しかしあなたには、休むように言ったばかりでしょうに」
「だが、さすがはあの娘の妹と言ったところか。俺ではその黒い気配とやらを感じ取ることが出来ぬ」
克也がそう口を挟んだ。花奈が気配を察する能力に長けているのは周知の事実であった。けれどその力を妹も有しているとは思わなかったのか、驚きを隠せていない。
「しかし……」
となおも花絵を休ませようとする正造を村長が遮った。
「事は急を要する。だが我々では気配を感じることが出来ぬ。錬太郎よ、そなたも無理なのであろう?」
「誠に」
「藤堂は?」
「右に同じ」
「ならば、花絵殿には悪いが、働いて貰うほかあるまい」
「喜んで」
と花絵は言った。
「しかしどう致しますか。皆に周知しますか?」
藤堂はそう質問した。
「いや」と村長は首を横に振った。「そうなれば混乱が起きよう。それこそ黒蛇の思う壺である。今はここにいる面々に動いてもらう他あるまい」
「それならば俺よりも相応しい者がいる。その者に役を譲ろうと思う」
と、克也は発言した。
「その者とは?」
村長が聞く。
「孫の敬也よ。……俺では怖がられるのでな」
そう呟いた克也は、何処となく寂しそうであった。
申し訳なさそうに縮こまる花絵。
「異議はない」
真っ先に同意した錬太郎は苦笑している。他の面々も頷いた。敬也の能力はこの場にいる全員が認める所である。
「他にないか?」
一同が無言で了承するのを確認した村長は言う。
「決まりだな。では一時解散とする。準備が整い次第、俺の家に集まり黒蛇退治を行おう」
島に侵入した黒蛇は、陽気である太陽の光を避けるため藪の中に潜んでいた。
このまま夜を待った後に行動するのは一つの手だ。しかし黒蛇は常世桜に気づかれている事を予測していた。夜が来る頃には見つかっているに違いない。
そこで黒蛇は機会が来るのを待ち続けた。その間にも人が通り過ぎてゆく。
男は駄目だ。抵抗されれば倒される恐れがある。子供は駄目だ。弱すぎる。
女性が通りがかった。
黒蛇は飛びかかって足に絡み付いた。
太陽の光で全身が焼けて酷い痛みが発するが気にしなかった。
女性は悲鳴を上げる。だが周囲に人はいない。当然だ。黒蛇はそこも見越していた。
ずるずると這い上がっていく。
女性は嫌悪感で鳥肌を立たせながら、必死に手を伸ばした。
そうして女性は黒蛇を掴んだ。しかし黒蛇は身をくねらせて、彼女の手に噛み付く。思わず悲鳴を上げて手を離すと、血がたらりと垂れた。抜け出た黒蛇はさらに上へ登っていく。
黒蛇にとっては時間との戦いだった。手を拱いては助けが来るかも知れない。あるいは陽光で蛇気が焼き尽くされて死ぬやも知れぬ。黒蛇も必死である。
やがて腰に到達し、胸の間を潜り抜けて、女性の口の中へ強引に押し入った。
もがき、苦しむ女性の抵抗は思いの他強い。けれど黒蛇は、その全身の全てを体内に入れることに成功した。
女性は崩れ倒れると、全身を激しく痙攣させる。日頃から陽気を浴びている桃源島の住民だけあって、支配するのは容易ではない。それでも時間をかけて、黒蛇は女性の体を掌握した。
もしもこれが巫女であったなら、その身に宿した神気の力で黒蛇は死んでいたに違いない。
黒蛇は賭けに勝ったのである。
そうして、女性は力なく立ち上がった。茫漠した瞳はどこを見ているかすら分からず、足取りはふらついていた。
しかしその歩みは確実に、島の中心地に向かっていたのであった。
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