27 暗山登山 三
松吉は深く息を吸い、吐いた。
冷たい山風が頬を打ち、岩肌の地面は硬い。おまけに数歩踏み出せば、真っ暗闇の中落下して命を落とすだろう。
左肩に穿たれた三つの穴がじくじくと痛んでいる。
後ろにいる辰也と彩が持つ提灯によって照らされた目前の相手、篠塚は、無表情にこちらを睨んでいる。観察されているのだと松吉が気付いたのは、蛇手による攻撃を受けたおかげであった。もっともそのおかげで手傷を負ったが、あまり頓着していない。
篠塚は色蛇街から続く襲撃の中で最も強者だ。負けるかも知れない。そうなれば、後ろに控える辰也が戦うことになるが、今の状態では勝ち目は薄いだろう。そも辰也が勝てたとしても、次の襲撃に耐えられるかどうか。
つまり、この世界の命運はこの一戦にかかっていると言っても過言ではないのだ。
久しく感じていなかった戦闘の緊張感。だが不思議と恐怖はない。
松吉は一歩踏み込んで、右拳で中段突きを放った。
一瞬遅れて前に突き出した篠塚の左腕が、松吉の右腕内側を擦る様に動く。
松吉は刮目した。自身の拳が逸れたのだ。狙いは外れ、篠塚の脇腹から一寸先の空を殴っていた。
代わりに松吉の腹に痛みが走る。見れば篠塚の蛇手が松吉の腹に刺さっている。
松吉と篠塚は同時に引き下がった。
傷は浅い。
だが思わず松吉は舌を巻いた。松吉の鍛え抜かれた筋肉と、色蛇街に滞在している間に着いた脂肪に穴を開けた指は全く持って驚異的としか言う他にない。想像を絶する手法で指を鍛え抜き、さらに怠らずに習熟した錬気法で気を集中させることによって、恐るべき鋭さを有するに至っているのだ。
敵ながら、畏敬の念を覚えずにいられない。
しかし険しい修行ならば、己も引けを取っていないという自負が松吉にはある。色蛇街に来た後も、修練の質はさすがに落ちるが、欠かさずに行ってきたのだ。
松吉は再度自分から踏み込んだ。元より守りに徹するのは性に合わぬ。攻めて攻めて勝ちを拾う。
まずは牽制の左拳。続いて右、左と連続で放つ。
逆に篠塚はかわし、いなし、防御に徹する。
松吉の拳が剛であるなら、篠塚の蛇手はいわば柔。
これは剛よく柔を断つか、柔よく剛を制するかの戦いである。
「辰也、崖の上にいるよ」
「ああ」
ハナの小声での忠告に辰也は肯く。視線は前を向いたままだ。
暗闇に潜み見えないが、確かにいる。崖の上から辰也を狙っているらしい。
松吉は強敵である篠塚との戦いに集中しているため、辰也自身が迎撃しなくてはならないだろう。
しかし機を伺っているのか、襲いかかってこない。あるいは辰也が気付いていることを察しているのかも知れない。
「強いか?」
「篠塚よりは弱いと思う」
「ふむ。とりあえず今は、こちらが何も気付いていない風を装っておく。相手が奇襲をかけたと思い込んでいるのなら、絶好の機会となる」
「うん。このこと、山辺さんには?」
「言わぬ方がいいだろう。態度に出る」
「そうだね。直接辰也を狙わずに山辺さんを襲う可能性は?」
「……ない、とは言い切れんな」
辰也はそれとなく彩に近寄った。
彩は冷や汗をかいて松吉の戦いを見守っている。すでに手傷を二箇所負っているのだ。心配そうにしていた。
「勝てるでしょうか」
辰也が近づいてきたことに気づいて、彩は小さく尋ねる。
「勝負に絶対はない。しかし、あやつならば勝てる」
「ですが……」
「確かに二度攻撃を受けた。今は一方的に松吉が攻撃を仕掛けているが、全て紙一重でかわされている。攻撃が見切られていると見ていいだろう」
「やはり」
「だが松吉の強さは、その圧倒的な膂力にある。今までの敵も、全て一撃か二撃で倒している。たった一撃を当てることさえできれば、戦況は一気に変わるはずだ。敵もそれが分かっているからこそ、今は防御に徹し隙を伺っている。今は焦らずに見守ってやろう」
「はい」
彩は肯首したが、さすがに不安の色が消えていない。しかし今はそれで良いと辰也は思う。他にも敵が迫っていることを悟られるわけにはいかないのだから。
「ぬりゃあ!」
拳による猛打は尽くかわされ、いなされているものの、松吉は焦っていない。そればかりか冷静に篠塚を観察している。篠塚の意識は、今や拳にばかり集中していた。
乱打の最中、ここぞとばかりに、松吉は相手の左足目掛けて下段蹴りを放った。
篠塚はかわすことができずに足で受けると、鈍い音が響く。急所を外したがその衝撃はあまりに強く、思わず呻いた。
松吉は同じ場所をさらに蹴る。何度も何度も執拗に。
これはたまらぬと、篠塚は後ろに下がった。
追う松吉。更なる猛打を打つ。今度は拳だけではない。蹴りも織り交ぜる。
「いけっ」
彩の応援する声が松吉の耳に届く。
応とも、と心の中で返事をし、猛追する。さながら嵐の様だ。
受け続ける篠崎。まともに食らえば一気に持っていかれると耐えている。
松吉は止まらない。この好機を逃す気はない。
打つ。打つ。蹴る。打つ。篠塚の鼻から血が流れ、肌が赤く腫れていく。
だがその細い眼光は諦めていない。
篠塚は、ぬ、と腕を伸ばした。蛇の如く松吉の右腕を絡み取り引っ張った。
抵抗する間も無くぐっと大きな体が持っていかれ、さらに足を掛けれられて、そのまま引き倒される。
どう、と硬い岩肌の上に仰向けに叩きつけられた。
強い痛みで顔を歪ませた松吉を篠塚が流れる様な動作で寝返らせると、腕に足も絡ませ、腕ひしぎ十字を極める。
苦悶の表情を浮かべながらあがくが抜け出せぬ。ぎりぎりとした激痛が肉体を苛み、関節があり得ぬ方向へと曲がっていく。
このままいけば折れる。松吉はぞっとした。
「ぐおおおお!」
雄叫びを上げると共に、右腕へ気を集中させる。腕がより大きく太くなった。そのまま強引に篠塚ごと上に持ち上げて宙に浮かせる。
「なっ!」
これにはさしも篠塚も面食らう。あと僅かに力を入れることができれば、右腕を使えなくしてしまえたのに、まさかこんな強引な力技で防ぐとは。
しかしこの男、次にどうするつもりなのか。と一瞬疑問になってはっとした。
「じあっ!」
松吉は裂帛の声を出し、篠塚が絡んでいる右腕をそのまま岩肌へ叩きつけようとしていたのだ。
今度は篠塚がぞっとする番である。まともに受け身を取れなければ己が危ない。そもそも松吉の右腕にとっても危険であるのに気にしている様子すらない。全くなんと言う男であるか。
篠塚は急ぎ手足を解いて離脱した。後ろに飛びながら中空で一回転し鮮やかに着地する。もうあと半歩ほどずれていれば、そのまま崖下に落ちていたであろう。
松吉はのっそりと立ち上がって、再び構える。
篠塚も構え直した。
ほっと安堵する彩に対し、瞠目する辰也。
紛れもない危機だった。
それをああいった方法で対処するとは辰也にとっても予想だにしなかった。
無論、松吉に技巧がないわけではない。先程の下段蹴りもそうだ。
相手が強敵であると見て取ると、戦いが始まってからずっと拳による猛打のみを行ってきたのだ。そうすることによって上体へ意識を集中させ、足元への注意を疎かにさせた。そうして、尋常であるならば避けれたはずの下段蹴り防御させたのだ。
辰也がそう分析しているのは、松吉が敗れた場合、次に戦うのは自分であるからだ。
もちろん、松吉のことを信じていないわけではない。実際、彼の力は驚異的である。
だが辰也の双肩にかかっているのは、この世界と桃源島の命運だ。死ぬわけにはいかない。
故に、今も崖の上で辰也を狙っている敵のことに対しても、少しも油断していなかった。
松吉は呼吸を整えた。腕と背中の痛みは幾分か取れている。
その間も篠塚は近寄ってこない。いやむしろ、警戒が強くなっていた。
松吉の力を恐れているのだ。
とはいえ、このまま膠着状態を維持しようとは思わない。そもそもあまり時間をかけてもいられない。いつ何時他の蛇剣衆が襲いかかって来ないとも限らないし、何よりも辰也はすでに限界である。いつ倒れてもおかしくないのだ。だから少しでも早く師匠の元へ行かなくてはならなかった。
松吉は近づいていく。篠塚は待っている。
一撃だ、と松吉は思った。あと一撃で、勝負を決める。
篠塚の間合いに入る。だが松吉は手を出さない。全身に気を巡らせ、力を蓄えていた。
それを読んだのか、どうか。
篠塚が左の蛇手を繰り出した。
松吉は両腕を寄せて、身を屈み、防御する。
まるで卵である。命が殻を割って出てくるのを待つ卵の形。
蛇手は左肩を突いた。穴が開き血が流れるも、松吉は声一つ上げず表情一つ変えない。
篠塚は不気味に感じた。松吉の全身が異様なまでに膨れ上がり、脂肪が筋肉へと変貌していく。気が膨張していき、凄まじい力を内包しつつあった。
これまでに見たことも聞いたこともない異質な変化に、篠塚だけでなく、辰也や彩も不気味に感じる。
篠塚は蛇手で連打する。
だが松吉は攻撃を避ける素振りすらみせず、ただただ受け続けている。
そうしてのっそりと松吉が動き出した。頭部は左腕で庇いながら、腰をじっくりと落とし、上半身を半回転させて、右腕に力を込めている。
それを見た篠塚はますます焦った。手数はあからさまに増え、一つ打つ度に肉に穴が開き、えぐれ、削れていく。服が破れ、肉体が血で赤く染まる。
しかし松吉は止まらない。
篠塚が雨霰と蛇手で突いても平然としている。松吉の肉体はあまりに硬く、あまりに分厚いために、蛇手がいかに強力であっても決め手とならなかった。
やがて松吉の肉体が、気が、最高潮に達した。
「山王流体術、破岩撃」
ぼそりと呟く。
卵を破り生物が出てくるが如く、右拳が打ち出された。
篠塚は蛇手で捌こうと腕を伸ばす。
しかし、圧倒的な力の塊と化した松吉の拳はびくともしない。
為す術もなく拳は篠塚の胸と衝突した。瞬間拳に捻りが加えられ、篠塚の着流しがぎゅるりと渦を巻く。酷く鈍い音が轟き、あばら骨が粉砕された。げぼり、と赤黒い血を篠塚は吐き出した。
その刹那、音もなく、辰也の頭上の岩壁に張り付いていた男が落下する。脇差で狙うは辰也の首。
辰也は視線を男に向けない。納刀していたハナを引き抜き、弧を描く様に斬った。
「あ!」
と驚いたのは彩だ。
辰也が振った刃は見事に男の脳天を引き裂いている。血がぱっと飛び散った。
そうして、破岩撃の衝撃で後ろへよろめいた篠塚と、辰也を襲った男が、ほぼ同時に崖下へと落ちていったのである。
彩が提灯で照らしてみると、先を見通せないほどの暗闇だった。
「おそらく生きてはいまい」
と辰也は言った。
黒い蛇が、うぞろ、うぞろとすぐ上の空を埋め尽くして流れている。
生理的嫌悪感を催すほど不気味で気色が悪く、たただ不吉でめまいがするほどだ。
時折覗く顔は禍々しく、鋭い目と牙が凶暴な本性を想起させる。ぬめりとした鱗がひしめきあっている様子は、不快という言葉では物足りない。
なぜこの様な見るからに邪悪な黒蛇が、世界で崇められているのか辰也には理解し難い。分かろうとも思わない。
そうした黒蛇の空がすぐ近くに迫る山の頂上で、一軒の掘っ建て小屋が建てられていた。
小屋の壁にかけられた松明の火の光が辺りを照らし、岩の地面には草一本、苔の一欠片でさえも生えていない。しかし真新しい薪が山と積まれ、使い込まれた斧が無造作に投げ捨てられており、人が住んでいることを匂わせていた。
「ようやく着いたな。ここが我が師匠の家だ」
所々穴が開き、裂けている装束を着た松吉は言った。身体中に包帯を巻かれ、見ているだけで痛々しい。
「ここがか」
と言った辰也も、同じ様に所々裂けた着流しを身に着け、包帯だらけである。
「……何というか、凄いところですね」
彩は服も体もほとんど無傷だが、疲れた顔をしている。
最も辰也と松吉も顔にこそ出ていないが、疲労が重くのしかかり普通の人間ならとうの昔に気絶している辺り、常人を逸している。
松吉はゆっくりと扉に近寄って、「開けるぞ」とわざわざ宣言した。
立て付けが悪いのか、ぎぎい、と嫌な音を立てて扉が開く。
瞬間、ひゅんっ、と風を切る音が聞こえ、松吉が眼前で何かを掴んだ。
「罠だ」
そう言って振り返り、掴んだ物を見せた。
それは一本の矢であった。何と松吉は、その凄まじい反射神経で飛来してきた矢を掴み取ったのだ。
「全く師匠は……相変わらずだな」
後頭部を掻きながら、「死ぬところだった」とぼやく。
その時だ。唐突に辰也たちの背後に大きな人影が現れて、凄まじい殺気が発せられた。
いち早く振り返ったのは辰也だ。素早くハナを抜いて、切っ先を相手に向ける。
後ろにいたのは辰也よりも遥かに大きい筋骨隆々の大男であった。
「蛇剣衆か?」
尋ねた辰也はいかにも剣呑。
「違う違う!」慌てて松吉が止めに入った。「この方は俺の師匠だ!」
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