26 暗山登山 二

 束の間の休息を経て洞穴から出た辰也たちは、再び頂上を目指している。

 上に行くにつれて、段々と提灯の灯によって照らされる緑が少なくなっていき、代わりに岩が見えてくる様になった。時には岩壁をよじ登る必要が出てきた上に、空気が薄くなったおかげで体力の消耗が激しくなっている。

 そうした中でも蛇剣衆の襲撃は、散発的ではあるが、未だ起きている。おまけに視界を覆いかぶさってくる闇が、確実に精神を擦り減らしていった。

 会話は既に乏しく、黙々と足を進めていく。時折発せられるハナの声は、襲撃を知らせる緊張感あるもので、それもまた精神を擦り減らす一因になっている。

 怪我と疲労によって限界すれすれの辰也の足取りはふらついている。もはや気力でのみ登り続けている有様だ。

 旅に慣れ、体力と足腰には自信がある彩も、荒く呼吸を吐きながら足を動かし、いつまで続くのか分からぬ道程の前に思考を停止している。

 元々山を生業にしていた松吉でさえも、度々の襲撃にはさすがに堪えている様だった。時折後ろを振り返って二人の様子を見るものの、声をかけてやれる余裕が見当たらない。

 そんな三人が足を止めたのは、

「まずい」

 と深刻な声を出したハナだった。

 慣れた様子で態勢を整える。

 足元は崖だ。一歩踏み出せば滑落する危険な場所。また反対側には切り立った岩壁が行手を阻んでいる。前後にしか進める道はない。

「ハナ、どうした?」

 いつもよりも緊迫感のあるハナに気づいた辰也が尋ねる。

「速度が早すぎる。気も強い。今までよりも段違いの強敵だよ」

「祝福を受けているのか?」

「……そこまでの蛇気は感じない」

 だけど、と言い淀むハナのことを辰也はすぐに察する。野木の力量とこの足元の悪さを懸念しているのだ。

「ならば俺が」

「それは駄目だよ。今の辰也は立っているだけでもやっとでしょう……」

「心配するな」と野木が言う。「俺が戦う。今までは歯応えが無さすぎた。俺の実力を見せびらかす好機よ」

 率先して前に立ち、両拳をがつりと合わせ気合いを入れる。

「任せる」

 辰也は言った。

「応っ!」

 松吉の両眼は闇奥を見据えている。


「来た」

 ハナは緊張感が強く滲んだ声で言った。

 暗黒の中、提灯の光で明るく切り取られた場所に現れたのは、坊主頭の男である。

 痩身だが、引き締まった肉体は得体が知れず、鋭く細い目は底知れない。ハナの言う通りであれば、凄まじい速さで駆け上がって来たはずなのだが、呼吸一つ乱していない。何よりも敵を目の前にしながら悠然と歩き寄ってくる様は超然としている。

「蛇剣衆、篠塚忠雄」

 そう名乗った篠塚は、深く腰を落とし、左足と左手を前に出し、手を蛇の口みたいに折り曲げた。蛇を連想させる奇怪な構えだ。

「蛇剣術、蛇手」

 そうして、篠塚は己の技を告げた。武器は持っていない。素手である。

 応えるは無論松吉。

 中腰になり、左拳を胸の前に上げて、右拳を腰の高さに据え、左足を前にする。

「修験者、野木松吉。山王流体術」

 互いに見合う。

 一見何もしていない。しかし辰也には分かる。今両者は互いの戦力を測り、隙を探り合っているのだ。戦いは既に開始しているのである。

 じりじりと二人は近寄っていく。少しづつ、少しづつ、互いの領域を侵食しあっていた。

 相手がどう出るのか。どう返すのか。守ればどうなるのか。攻めればどう対処されるのか。殺気をぶつけ合い、試している。戦っている。

 そして、互いの左手が触れるか触れないかの距離に来た時だった。

 両者は動いた。ほぼ同時に。考えることは同じ先手必勝。

 二人が繰り出した左腕は、相手の頭部へ向かう。篠塚の蛇手は目を潰そうとし、松吉の強固な左拳は眉間を狙っている。

 攻撃が当たる寸前、共に頭を逸らして避けた。

 次の行動も同じ。即座に右手を突き出す。交差する二人の腕。拳と蛇手は再び互いの頭部へ。しかし頭はまたも逸れて、側頭部を擦り空を打った。

 両者は離れ、一瞬、間が空いたが、すぐさま大きく踏み込んで互いの間合いへ侵入する。

 激しく打ち合う。攻撃をかわしながら突き、突いた拳はいなされた。両者一歩も引かず、拳と蛇手の応酬は、さながら豪雨のよう。

 おお、と刮目し激闘を見守る辰也と彩。

 打ち合いの全てが互角だった。全てを紙一重でかわし、いなしながら、共に攻撃を振るっているのが辰也の目に映っている。一撃一撃に駆け引きがあり、一瞬たりとも気が抜けぬ。

 しかし彩の目には激しく攻撃し合っている様にしか見えない。だがそれでも分かることがある。相手は強敵であること。そして、その強敵に対し、松吉は負けていないということ。






 渓谷の奥底にある蛇剣衆たちが住う村。その頭領の家に、全身を黒い和装で整えた男が密やかに訪れた。

 音もなく扉の前に立つ。すると頭領である堂島豊の声がかかった。

「お前か」

「はっ」

 返事をするも、いつもながら男には不可解だった。今回も気配を完全に遮断し、音も一切出さなかったはずだ。なのに堂島には毎回気付かれてしまう。相も変わらずに底知れぬ。

「その後はどうした?」

「蛇姫が破れました」

「ほお?」

 仲間が死んだと言うのに、その声音には喜びがあった。

「今は怪我を負い、修験者と同行者の女一人を連れて山に入りました。蛇姫が飼っていた蛇剣衆が追って山に入り、追撃をかけています」

「修験者か。未だ生き残りがおったのか。存外にあやつらはしぶといな」

「誠に。ただ彼らにとって山は庭の様なもの。隠れ潜んでいたものと思われます」

「なるほど。して、お前はどうするつもりだ?」

「どう、とは?」

「そろそろあやつを討ちたくなっているのではないか?」

「確かに山の中にいる今こそが、俺にとっては絶好の機会かもしれません。しかし俺には情報収集と言う大事な任があります故」

「許す」

「は?」

「ジャジャ様が望むのは、己の欲望に忠実であること。それこそが自由である。ならばこそ、お前が奴を討ちたいのであれば、討てば良い。その全てを俺は許そう」

「……考えておきます」

 そうして男は音もなく立ち去った。


 屋敷の外に出た彼は、闇に溶け込む様に歩いている。その顔は思案に暮れていた。

「おい」

 そこに後ろから声を掛けてきた者がいる。

 彼は驚いていた。今の自分は完全に気配を消し、暗闇に紛れている。いくら思考に集中していたからといって、おいそれと気付かれるようなへまはしない。なのに、看破された。それをできる者など限られているというのに。

 表情を消していざ振り返って見てみると、ある意味で合点が行った。

 声を掛けてきたのは、蛇辻蛇道であったからである。

 彼は底が知れぬというよりもむしろ、得体が知れぬ。

 堂島はまだ理解ができる。それは気が遠くなるほどの研鑽の果てに得た極致であり、力の底を見通せないほど深い技術だ。

 だが蛇辻は違う。どれほどの歳月を重ねたのかまるで想像も出来ぬこの老人は、研鑽の果てに得た力とは言い難い。その力はおよそ人間が辿り着ける場所にいないのだ。確かに祝福を受けた蛇剣衆は人を超えた力を得る。しかしこの老人は、そのような次元すら遥かに超えている様に男は思う。

 そう、まるで、

「人ではない、か?」

 ふぉっふぉ、と人を食った笑い声を蛇辻は立てた。

 人の思考を読んだかの様な言動に男はぞっとした。次いで、老人の目を見る。まるで全てを知っている様な、全てを理解している様な、そんな目をしている。

「迷っておるな」

 と、蛇辻は断言する。

「何を」

 思わず聞き返した声は震えていた。

「剣宮辰也を己が手で殺すかどうか」

 男は何も答えない。しかしその反応を面白がっているのか、蛇辻は口角を上げた。

「情報収集は確かにお主ほどの適任者はいない。だが、一人の剣士として奴に挑みたいと思うのも当然であろう。何しろあれ程の腕前。己の技を試したいと考えるのが自然よ」

「……今、恐らくは篠塚が相手をしている。祝福を受けていないが、奴は強い。万全の剣宮辰也ならばともかく、満身創痍の状態である今ならば必ずや討ち果たすだろう。今更俺が行くまでもなかろう」

「本当にそう思うのか?」

 男はすぐに返答ができなかった。しかしすぐに気を取り直し、「ああ」と肯く。

「ふ」と笑む蛇辻。「そういうことにしておくかの。だが結果を知るためにまた向かわねばならぬのだろう?」

「……確かに、そうだな」

「では行ってくるがよい。景山伸介」

「なっ」

 名を呼ばれた男は驚きを隠せない。なぜなら蛇剣衆の隠密筆頭として、その名を知っているのは頭領の堂島だけのはずだからだ。堂島が何かの拍子に教えたのかも知れないが、それならば断りを入れてくるはずである。とすれば、蛇辻はあらかじめ知っていたことになる。

「ふぉっふぉ」

 蛇辻は愉快そうに笑いながら音もなく姿を消した。隠密である景山でも、どこに消えたか分からぬ恐るべき手腕。

 思わず戦慄し、本人も気付いていない冷や汗が頰を伝った。




「うぐ」

 呻き声がこだました。

 思わず下がったのは松吉だった。肩口に三つの小さな穴が開き、そこから血が流れている。

 篠塚の右手の指先が赤く濡れていた。

 松吉の猛打を潜り抜けて、その指先で突いたのだ。

 篠塚は不敵な笑みを浮かべて、指先に付着した血液を一舐めする。

「なるほど」と松吉は痛みを我慢し、無理やり口端を広げた。「これが、蛇手か」

 篠塚は答えない。代わりにゆっくりと距離を縮める。

 松吉を睨む目は、獲物を虎視淡々と狙う蛇のよう。

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