25 暗山登山 一

 冷徹な空気に、暗黒が染み渡っていた。

 手に持っている提灯の明かりだけが世界を照らす。

 街道を外れるだけで深くて濃い闇が待ち受けていることを、山辺彩は久方ぶりに実感していた。

 前を歩く剣宮辰也の大きな背中を何となしに見つめる。包帯を巻いて手当てはしたが、素人目で見てもいつ傷口が開いてもおかしくない状態だ。

 しかも地下牢で長い時間怨霊を斬り続け、そこからさらに蛇姫と死闘を演じた疲労が抜けきっていないことは、側から見てもよく分かる。もはや立っているだけでもつらいだろう。

 しかし辰也はひたすら無言で歩いている。その足取りはさすがに重く、ゆっくりで、呼吸も荒い。背後から見ているだけで彩はつらかった。

 先頭を歩くのは野木松吉だ。時折きょろきょろと周囲を見ては、道無き道を進んでいる。そればかりか、辰也が今現在歩ける速度の限度を選んでいるのは明らかである。

 ここまでの道中で彩は何度かもっとゆっくりと歩いたらどうか、と提案したのだが、これ以上遅く歩けば蛇剣衆に捕まると、そうなれば命の保証はできないのだと言う。

 桜刀ハナにも同意を求めたものの、彩にとっては意外なことに彼女も否定した。それほど切羽詰まっているのだろうか。この場にいる中で最も感覚の鈍い彩には分からない。辰也も「今のままで良い」と言うものだから、多勢に無勢だ。

 そうして今は、地面を踏み締める音と吐息しか聞こえない。


 暫くして山に入ったのか、勾配がきつくなっている。辺りは森で、気をつけていなければ根っこに足を引っ掛けてしまいそうだ。

「待って」

 ハナが緊迫した声で一行を止めた。

 松吉が振り返る。

「近づいてきてる。多分、蛇剣衆」

「分かるのか? 俺には何も感じないが」

 そう言って松吉は、困った顔で辰也を見た。

「ハナの気配を感知する力は想像以上に強い。信じるに値する」

「……ありがとう。辰也。それでね、野木さん。追いついてきたのは一人。あと十分ほどでここに来るから、準備をして」

「……方向は?」

「後ろ」

「分かった」

 松吉の指示で陣形を整える。刀を構えた辰也を中央に据えて、蛇剣衆が来るらしい方向に松吉が、その真反対で彩が小刀を握りしめている。

 そうして、十分が経った。

 ざざっと音を立てて、男が強襲してきた。しかしそこには松吉が待ち構えている。

 驚きながらも、男は刀を上から振り下ろす。

 松吉は横に避けて、顔面に拳を打ち付けた。

 ばっと、鼻血を吹き出させながら男は後ろへよろめく。そこにすかさず上段蹴りが炸裂した。勢いよく地面に倒れて、首の骨が折れたらしく不自然な方向に曲がっている。男はそれ以上動かない。

「さあ、行くぞ」

 と、松吉は気負いなく言った。

 再び歩を進める中で、辰也が口を開く。

「錬気法によって身体能力を向上させ、さらに拳を当てる瞬間に気を集中させているのだな。それにより強い力を発揮している」

「そうだ」と答える松吉。「だがお主の錬気法も凄まじいな。蛇姫を破った居合……春一番と言ったか? 俺の目でも僅かにしか捉えられなかった」

「速力のみ追求した技だ。しかし問題があってな。あまりの速さ故に、見て斬れるものではない。己の剣速と、相手の位置を計算に入れて放たねば、敵を斬ることは叶わない」

「ふむ。つまり蛇姫が予想よりもずれていた場合、倒すことができなかった、と」

「そういうことになる。あの時蛇姫が放とうとしていた蛇剣術四の首は、受け切れるものではないと判断した。しかし逃げてばかりでは勝てぬ。そこで奴よりも速く斬る必要があったのだ」

「それで居合術春一番と。なるほど。危険を承知で撃ったのだな」

「いかにも。もっとも当てる自信はあったがな」

「さすが」

「だが俺はまだまだよ。今回は、蛇姫が大技に集中した結果動きが単調になったからこそ斬れたのだ。しかし例えば初代の剣宮竜刀は、相手がどれほど速く動いても斬ったと伝えられている。俺などでは到底及びもつかぬほどの次元だ。正直、頭が上がらない」

「竜を斬ったと言う話は伊達ではない、ということか。とはいえ、お主の錬気法も凄まじいことには変わりない。それに、黒蛇ジャジャの抜け殻を斬ったあの技。恐ろしい技だ。しかし、あれは……危険だぞ? そう容易く連発する様な技ではない」

「重々承知している。あれは、ジャジャに対抗するためのいわば切り札。もとよりあまり手の内を晒すつもりもない。使うべき時が来ない限り、使わんさ」

「本当は使わずに戦うのが一番なのだが……仕方がないか。俺もお主の立場であれば、使うことに躊躇しないであろうしな」

「ちょっと待って二人とも」

 ハナが二人の会話に割って入った。

 二人は顔を見合わせて、すぐに臨戦態勢を整える。

「来る。今度は早いよ。あと五分」

 そしてきっかり五分後に藪の中から長髪の女が飛び出てきた。

 ハナの指示通りの場所で待ち構えていた松吉が対峙するも、相手は寸前の所で立ち止まって後ろに引き下がる。彼女は手に持っている刀を中段に構えて松吉を睨みつけた。

「ふむ。待ち伏せに気づくと猪の如く襲い掛からずに立ち止まって相手を見定めるか」

 感心した様子で松吉は言う。

 女は無言。彩が持つ提灯の明かりが女の険しい表情を照らしている。

「来ぬか?」

 松吉は挑発する。女は動かない。相手が出てくるのを待っている。

「面白い」

 にやりと笑うと、松吉は愚直にも前へ出た。

 女も動く。剣先が僅かに揺れ動いたと思うや、鋭い突きが松吉の顔面目掛けて放たれた。

 速い。松吉にいなす暇はなく、瞬時に切っ先が目前に迫っている。だがさっと顔を逸らすと、刃はこめかみを掠りながら通り過ぎた。

「うげっ」

 と女の呻く声が上がった。見れば松吉の左拳が、女の腹にめり込んでいる。

「女に手を上げるのは趣味に反するが……俺も必死なのでな」

 瞬間、今度は右拳が女の側頭部を直撃した。鈍い音がして、女は吹き飛ばされ、木に叩きつけられた。頭部からは血がだらだらと流れ出し、瞳孔が開き切っている。

 松吉のこめかみから血が垂れてきた。そこに彩が近寄ってきて、持っていた手拭いで拭いてやる。

「ほお」松吉は感嘆とした声を上げる。「まさか俺までお主の世話になるとはな」

 照れているのか、彩はほんのりと頰を紅潮させて拗ねた顔を見せた。

「野木様は剣宮様を助けるのに必要ですから」

「……素直じゃないのお」

 それからさらに登っていく。

 提灯の明かりを頼りに坂を踏みしめ、木の根っこを避ける。

 彩は自分が、役に立たないばかりか、足を引っ張っているだけの存在に思えてきた。

 辰也を救出するのに尽力し、さらに蛇剣衆を退け、山を迷いなく進んでいく松吉。

 敵を斬る武器でありながら、敵を察知することにも長けたハナ。

 対して彩自身は、辰也のために自分でしかできないことで助けることができただろうか? したことといえば、怪我の治療をしたぐらいだ。むしろ戦えない彩は足枷でしかないのではないか。それなら、いない方が……。

 けれども、彩に言い出せるはずがなかった。辰也と一緒にいたかったし、それに何も分からぬ何も見えぬ暗い山の中を迷わずに人里に向かうことなどできようはずがない。

 彩は暗闇が怖いのだ。

 ジャジャが言うには、光こそが悪で、闇こそが救いなのだそうだ。

 だけど辰也は青空を、光を取り戻そうとしている。

 もっとも青空とはなんなのか、彩には分からない。ただ闇よりも暖かい響きがある。何よりも辰也が取り戻そうとしているのだ。本当に悪いものとは思えない。

 一体どちらが正しいのだろう。

 確かなのは、手にしている提灯の光が闇を切り開いていることだけだった。


「あ」と彩は気づく。「剣宮様、血が」

 巻いた包帯が赤く滲んでいる。傷口が開いてしまったのだ。

「ん?」

 辰也は己を包帯を見て、ようやく出血に気づいたらしい。

「少しお待ちを。今すぐ包帯を巻き直します」

「いや」辰也は首を横に振った。「構わない。今は先を急ぐのが先決だ」

「ですがそれではお体に差し支えます」

「この程度のこと、問題ない」

「しかし」

「大丈夫だ。ありがとう」

 そう笑顔を向ける辰也であったが、額に脂汗が浮いている。どう見ても強がりで、彩にも無理をしている様にしか見えない。

「は、ハナさん。ハナさんも何か言ってください」

 彩の切実な声に、ハナはなぜか数拍置いた。

「……ごめん。今は集中したいから、あまり話しかけないで」

「え?」

 きょとんとする彩に辰也が代わりに説明する。

「ハナは今、周囲にある膨大な気の中から、俺たちに敵意を持っている者のみを選りすぐり、感知し続けている。その反面、あまりに深く集中し続けなければならない。俺はもちろん、野木にもできぬ芸当だろう。だがそのおかげで、敵の接近を誰よりも速く察知し、迎撃の準備をする余裕さえ作れる。ハナがいなければ、不意を打たれ、被害が出ていたやもしれぬ」

 彩が松吉の顔を見ると、彼は頷いて見せた。

「その通りだ。ハナ殿がいなければああも容易く迎え撃つことはできなかった。ほぼ無傷でここまで来られたのは、ハナ殿のおかげだ。必要なのが何よりも深い集中であるのも肯ける話よ。そのために、誰よりも大切に想っている剣宮殿を心配する余裕さえないのだろう」

「……心配していないわけじゃないのよ」とハナが口を挟んだ。「ただ今は、少しでも早く移動した方が良いから。辰也には負担をかけちゃうけど……ごめんなさい」

「君は正しい。だから謝るな」

 彩はただただ痛感する。自分が何も役に立っていないことを。

「私……ただの足手まといですね……」

 思わずぼそりと呟いた彩の目線は、黒い地面を差していた。

「何を言っているのだ?」対して辰也は不思議そうに言うのである。「君は俺の道案内だろう? そうして俺はその見返りに君の護衛を務めている。持ちつ持たれつの関係だ。君が気に病む必要はないばかりか、むしろ俺が君を巻き込んでしまったのだ。俺が無理をするのは当たり前だ」

 彩は、あ、と音もなく口を開き、茫然と見上げた。

「俺も君は剣宮のことを利用していると聞いていたがな」

 今度は松吉。もっともこちらは意地悪そうに言っているが。共通しているのは、気にするな、ということであった。

 さすがにこれ以上彩は何も言えなかった。


 暗い山を登り続ける。

 あれから何人もの蛇剣衆に襲われたが、全て倒している。どれもこれも単独での襲撃であったのが幸いだった。

「あやつらはやはり協力するということを知らん様だな。おかげで助かるが」

 とは野木の言葉だ。

 それにしても一体どれほど登っているのだろうか。すでに結構な時が経ち、随分と登ってきているのだが、頂上にどれほど近づいてきているのか分からない。

「まだ着かないのですか?」

 そう言った彩もさすがに疲れが見え始め、息が乱れている。

「うむ。おそらくは半分ほどと言ったところか」

 答えたのは野木である。

「は、半分……ですか」

「ああ。だがここからさらに険しくなる故、倍以上の時間がかかると見て良い」

「倍以上……」

「疲れたか?」

「少し」

「ふむ。ところでハナ殿、今は良いか」

「……大丈夫。どうしたの?」

「蛇剣衆の様子はどうだ? 近くにいるか?」

「ううん。大丈夫。今はいないよ」

「ならば半刻ほどここいらで休もうか」

「うん。それぐらいなら」

「ならばこの先に小さな洞穴がある。そこに向かおう」

 野木の言う通り、進んだ先には洞穴があった。

 中に入り、適当な所で腰を落ち着かせると、みな安心して一様に深く息を吐いた。

 彩は辰也の顔を伺うと、青ざめている。

 少し休んで、彩は立ち上がった。

「剣宮様。今の内に包帯を取り替えましょう」

「……すまん。頼めるか」

「はい」

 彩は早速作業を始めた。

 洞穴の入り口付近で座っていた野木は、そんな様子を一瞥すると、

「このままでは提灯の明かりでこの場所を知られてしまうな。入り口を誤魔化してくる」

 と言って立ち上がり、外に出た。

 周囲に生えている木の枝や葉を手刀で切り取り、慣れた様子で洞穴の入り口に被していく。

「これぐらいで良いだろう」

 独りごちて、洞穴に戻ると、辰也の包帯はちょうど取り替えられた後だった。

「みんなお疲れ様。少し眠って。見張りは私がするから大丈夫」

 ハナは提案する。

「良いのか?」

 と野木。

「うん。辰也が寝ている間はいつも私がしていたから慣れているよ」

「そうではなく。お主も疲れているのではないか?」

「私は刀だよ。疲れたりしないから大丈夫」

「それもそうだな。お主と話しているとつい刀であることを忘れてしまう」

「……うん。いいから早く眠って。本当に少ししから休めないんだから。今の内にできるだけ休まないと」

「そうだな。済まないがお願いする」

「ありがとうございます。ハナさん」

「気にしないで」

「では俺も寝るよ、ハナ」

「おやすみなさい、辰也。それと二人も」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 三人はすぐに寝入ったらしく、穏やかな寝息が聞こえてきた。

 ハナは意識を外に向けて、方時も集中を切らさずに敵を感知し続けたのである。




 木の側で、長い黒髪を千々に乱し、横倒れになって事切れた女を見下ろしている男がいる。痩せ型で飄々とした風態の彼は、坊主頭を惜しみもなく晒して鋭い目をますます細めた。

 女の側頭部が陥没している。凄まじい衝撃が加えられた証だ。

 にやりと男は笑った。

 先ほどにも首が折れた男を見た。これを為した者は、相当な力の持ち主であるのは間違いない。それも刀によるものではない。素手である。辰也ではない。

 剣宮辰也は剣術の達人で、それはそれで唆られる。蛇姫や大庭を破ったその実力も興味がある。

 しかし、やはり得物を持たぬ相手の方が、この男にとっては心躍る。

 まだ見ぬ好敵手を想像しながら、男は暗闇に沈む山を駆け上った。

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