20 眠らぬ街 三
「怨霊……」
ハナは震える声で呟いた。
岩石でできた牢屋の中、辰也が対峙している黒き影。その正体は、長きに渡り苦しみながら死に絶えた人々の怨念が幽気となって形作ったものであった。すなわち、怨霊である。
地面の奥底から湧き上がっていくような低く暗い声が、どこからともなく響き渡った。声は意味を為していない。怒り、苦しみ、悲しみ、恨み、妬み、絶望、それらを訴える様々な声が重なり合って、呻き声のように聞こえてくる。
ひたりひたりと冷たい手で撫でられているような寒気が、辰也の全身を走った。ただここにいるだけで居心地が悪い。
怨霊はゆらゆらと漂いながら、ゆっくりと近寄ってきた。
「近づかせたら駄目」ハナの警告が飛ぶ。「取り憑かれてしまう」
「ならばその前に……斬る」
辰也は一文字に刀を振るった。桜色の筋が入ったと思うや、怨霊は霧散する。
怨霊は陰気の一種である幽気の集まりだ。通常の武器では通じない。しかし陽気である神気を宿す桜刀ハナであれば、斬ることは容易。
問題は、
「やっぱり駄目だ。私で斬ることはできるけど、復活を止めることはできないよ」
斬ったはずの怨霊が、復活してしまったことだ。
「どうすればいい?」
「彼らをきちんと埋葬すれば、成仏させることができるけど」
「……ここでは無理だな」
辰也はさらに斬り伏せるも、怨霊は復活した。しかも今度は一体だけではなく、五体はいる。
「……そういうこと」
「放っておくことは……?」
「そんなことをしたら、辰也が取り憑かれちゃうよ……。私が人だった時なら体から追い出すことはできたと思うけど、今は刀だから……」
「斬り続ける他にないか」
「うん……。あまり力になれなくてごめん」
「いや、よい。斬れるだけで十分だ」
辰也はそう言いながら怨霊を斬った。
だがどれだけ斬っても収まる気配はない。
もはやハナを振り続ける他に生を得る方法はない。
およそ半日が過ぎた。辰也は怨霊を今まで斬り続けている。弱い相手だ。それでも休む暇もなく刀を振るい続けるのは尋常ではない。おまけに常時呻き声が聞こえ、精神を徐々に削っていく。
辰也は荒く息を吐き、全身が汗でびっしょりと濡れていた。
「あの人が来るよ」
とハナは言った。その言葉の通り、かつんかつんと足音が聞こえ、提灯の明かりが見えた。
するとどういうわけか、怨霊の姿が見えなくなった。
「あら、生きていたのね」
開口一番に蛇姫は言う。
辰也は返事の代わりに無言で睨んだ。
「最も、これぐらいで死ぬような男を誘ったわけではないけどね」
妖艶な微笑を浮かべ受け流す蛇姫。
「貴様が来た途端怨霊が大人しくなった。どういうわけだ?」
「ふふ。簡単な話よ。私の蛇気の方が彼らの幽気よりも格上というだけ。力で無理やり押さえつけているだけね。でもお優しい神気には、それができない」
「……それで何の用だ?」
「感想を聞きに来たの。ここは何十年もの間、数え切れないほどの人間がこの牢屋に落とされて、苦しみ絶望しながら死んでいった場所。その沢山の怨念がここには染み付いているわ。素敵な場所だと思わない? ここはこの町で最も美しい地獄なのよ」
蛇姫は頰を赤く染め上げ、うっとりとした表情を浮かべた。
「……趣味が悪いとしか言いようがない」
辰也ははっきりとした嫌悪を込めて言い放つ。
「うふふ。褒め言葉として受け取ってあげるわ。それで、どうする? 私の物になれば四六時中怨霊の相手をしなくてすむわ。そればかりか私ともっといいこともできる。いいえ、私とだけじゃない。この街に住む女なら、誰とでもね」
「ふざけるな」
「あら、怒らせちゃったわね。お詫びに良いことを教えてあげる。その格子、斬れなかったでしょう?」
蛇姫は辰也の表情を見て満足そうに微笑んだ。
「実はその格子はね、ジャジャ様の抜け殻を使って作られたの。分かるかしら? その殻を斬れないのにジャジャ様に勝つだなんて世迷言よ。さて、私の物になる気になったかしら?」
「消え失せろ」
「あら、仕方ありませんね。でもあなたが首を縦に振らない限り、ここから出ることは叶わないわ。その意味、よく考えることね」
そうして蛇姫は帰っていった。
怨嗟の声が重く響き、牢屋の中を埋めるほどの沢山の怨霊が湧き出る。
辰也はハナを振るった。
その頃、彩は色蛇街の中を歩いていた。
波止場亭で宿を取り直した後、彼女は部屋の中で待っていた。だが辰也は戻ってこない。
以前の彩であれば、すでに街から出ている。利用価値がなくなった者に気をかける必要は全くないのだ。そればかりか、辰也に執着すればするほど、ジャジャと敵対していると思われてしまう。そうなれば、彩も蛇剣衆に狙われるのは明白だ。
けれど、それでも、辰也と共にいたいという不可思議な気持ちが強くなるばかりだった。危険な何かが起きたに違いないと思うと、もはや、いてもたってもいられない。気がつけば、彩は、宿から外に出ていた。
彩は自分のことを馬鹿だと思った。いよいよ頭がおかしくなってしまったのかもしれない。それでもどうしようもない感情が、体を突き動かしていた。
そうして自虐しながら、彩は目的地に辿り着いた。
煌びやかな色蛇街だが、中には貧困者が住う区画がある。その中でも一際異彩を放つあばら小屋があった。穴が開き、ひびが入った壁には、数々の罵詈雑言が落書きされている。無論、小屋の住民が書いたものではなく、彼のことを嫌う者たちが書いたものだ。
彩は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
思い返したのはある一つの有名な噂だった。
曰く「黒蛇ジャジャ様に恐れ多くも反逆を企てている者が色蛇街にいる」
初めて聞いたのは二年前のことだ。彩は馬鹿らしいと思った。そんな人がいるわけがない。所詮は噂。嘘に決まっている。だがどうやら噂は本当で、その人物は実在しているという。
まさか、と思っていた。今までは。けれど彩は黒蛇ジャジャを倒そうとしている辰也と出逢ってしまった。途端に噂は信憑性を増してしまった。
試しに小銭を渡して宿の女将に聞いてみると、にんまりと笑ってこの場所を教えられたのである。
ここで尻込みしていてはいけないと、彩は一歩踏み込んだ。
外れかかった戸を軽く叩く。
「留守だ」
中から男の声が返ってきたが、いるのに留守だとわざわざ言うところに、性根が出ていると彩は感じられた。とはいえ、ここですごすごと引き下がっては元も子もない。
彩は戸を開けて中に入った。
一本のちびた蝋燭だけで照らされた薄暗い室内は、壁という壁が本棚で囲われており、しかも殆どが本で埋まっていた。
部屋の住民は、そんな部屋の片隅で、つまらなさそうに頁をめくっている小太りの男であった。
彼は本を読みながら、じとりとした目つきで彩を一瞥すると、これまたつまらなさそうにため息をつく。
「何の用だ」
目線を本に向けたまま、男は尋ねた。
「お聞きしたいことがあります。ジャジャ様に反逆を企てていると聞き、参りました」
「ふん。それを聞いてどうする。俺を誅伐でもしに来たか」
「いいえ、違います。あなたのお力をお借りしたいのです」
「俺の力?」
「はい。実はさる男性が恐らくは蛇姫様によって囚われました。それを助けたいのです」
「ほう。蛇姫にか。あれは蛇剣衆であるという噂を聞いたことがある。それを知ってか?」
「はい。だからこそ、あなたのお力をお借りしたいのです。それに、あなたにとっても興味があるお話だと思います。実は、私が助けたい男性は、ジャジャ様を倒すことを目的に旅をしているのです」
「ジャジャを、倒したい?」
男はようやく本から目を離し、彩に視線を向けた。その目は驚きに満ちており、興味深そうに彩を観察している。それからやがて、くくく、と笑った。
「それは確かに興味深い。だが助けたいとはな」
「彼は私にとって利用価値の高い男です。失うのは、惜しい」
「己の命を天秤にかけてもか」
彩は何と答えればいいのか分からず、目線を逸らして無言で返す。
「まあ、よい。それで何か見返りはあるのか?」
「もちろんです。報酬は、私の身体です」
「お前のか」
「はい。足りませんか?」
「女を抱くのはこの街に住む限りでは至極簡単なこと。金を払えば良いのだからな。それにやりたければ強引にやってしまえば良い」
「強引に行うのは危険を伴います。財産を失うとか、命を落とすなどが考えられます。私ならばあなたに対してそのような危険はございません。何ならどのような行為でも受け入れます」
「……ならば、死ね」
彩は一瞬絶句した。だが迷うことなく胸元に手を入れて、中から小刀を取り出した。鞘から抜くと、迷うことなく首筋に刃を当てて男を見据える。
「約束です。男の名前は剣宮辰也。私が死ねば助けてください」
男は仰天した。
「ま、待て待て待て! ほんの試しだ! ここで死んではたまらん。大体お前、その剣宮とかいう男を利用しているのだろう? お前が死んでは利用することすらできぬではないか」
彩はきょとんとした。
「確かに……そうですね。どうしてなのでしょう」
首を傾げ思案する。本当によく分からないようだった。
「だが、分かった。お前たちに興味が湧いた。引き受けよう」
「ありがとうございます。私の名は山辺彩と申します」
「俺は野木松吉」
「以後よろしくお願いします」
「ああ」
「桜花一刀流、枝垂れ桜」
怨霊を次々斬り払っていく中で生まれた一瞬の隙。辰也は逃すことなく飛び上がって格子に一撃を与えた。しかし、やはり斬ることができない。
「ちっ」
思わず舌打ちをする。と、共に背後から復活した怨霊が襲いかかるのを、振り返って薙いだ。その後も斬り続ける。
「やはり、この程度の技では無理か」
怨霊の動きは遅い。そのため戦いながらもハナと話をする余裕があった。
「居合術の奥義も駄目だったし……一体どうするの?」
「まだ、あの技が残っている」
「ま、まさかあれを!?」
「ああ」
「で、でも、あの技は……」
「問題ない。一振り……いや二振りすれば十分だ」
「だけど」
心配そうに止めようとするハナの声を辰也は遮る。
「どの道ここから逃げ出すことができても、この格子を斬る力がなければジャジャを斬ることもできない。試す価値はある」
「分かった……。でも約束してよ。二回。使うのは二回私を振るだけだよ。それ以上は、絶対に駄目だから」
「約束する。だが問題は……」辰也は亡霊を唐竹割りにしながら続ける。「あれは強い集中力と多少の時間がいる。その時間をいかに作るか、だが」
今も怨霊は多量に出現し辰也に取り憑こうと近寄ってくる。鮮やかな刀捌きで斬り払いながら、辰也は途方に暮れた。
一方、彩と松吉は、辰也が中に入っていった娼館の前にいた。
「ここに剣宮様は蛇姫様に呼ばれて入っていきました。どうやって助け出しましょうか」
「何の考えもないのか?」
「はい」
「全く、向こう見ずな女だな」
「う……仕方ないじゃありませんか。だって本当にあなたに頼るしかないんですから。それに調べる時間もありませんでしたから」
「それで噂程度でしか知らなかった俺を頼るか」
「そ、そうですけど。それが何か」
「いや、面白い。気に入った」
「は、はあ……。それでどう致しますか?」
「その前に一つ俺の正体について教えておこう」
「何なんですか、唐突に」
「まあ、聴け。俺は、修験者だ」
にやり、と松吉は笑った。
だが彩は、修験者が何なのか分からなくて、きょとんとしていた。
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