19 眠らぬ街 二
「ここは通さぬよう厳命されている」
翌日、色蛇街に来た時と反対側の門に辰也たちが向かうと、門番はそう言った。
「他の者たちは通っている様だが?」
辰也が聞くと、ふん、と鼻息を鳴らす。
「正確には、お前を通してはならん、と言われている」
と、門番は達者な筆捌きで書かれた人相書きを広げて見せた。それは確かに辰也の顔だが、それにしてもよく似ている。
「そこの女は通っても良いぞ」
「いえ、剣宮様が通れないのなら、私は良いです」聞かれた彩は首を横に振ると、辰也と向き直った。「どうしますか? 袖の下を渡してみます?」
「言っておくが、そういった物は受け取らん。例えそこの女を抱けるとしても、お前を通すことはできぬ。これは決定事項だ」
ほう、と辰也は、この世界においてこういう者もいるのだと感心するが、
「それから喜べ」と、門番は好色な笑みを浮かべた。「あのお方がお会いしたいそうだ。あのお方は本当に甘美なお方。この街で働くことができて、俺は幸せ者よ」
「……あのお方とは?」
辰也がそう聞くと、彼は意外そうな顔をした。
「なんだ、知らぬのか? あのお方と言えば、蛇姫様のことに決まっておろう」
教えられた場所には、朱色に塗られた二階建ての娼館があった。中央にある五階建ての建造物かと思っていた辰也は意外に思う。
入り口の前には、赤い着物を羽織った十にも満たない少女が二人いる。二人は辰也を見つけると、とてとてと駆け寄ってきた。
「剣宮辰也様ですね」
「そうだが?」
「蛇姫様がお待ちです。お連れの方は申し訳ありませんが、ここから先には入れません。では、剣宮様、こちらにどうぞ」
緊張しているのかやや硬い様子の二人は、辰也を案内するために手招きをする。一方、来るなと言われた彩は複雑そうな目で辰也の背中を見送った。
三人は二階に上がった。どうやら二階は一室だけで、階段を上がった途端大きな襖が目に入った。襖には華やかな花が色とりどりに描かれており、とても美しい。しかし、辰也の目は、襖の端っこに黒墨で描かれた蛇がいることを見逃さない。
少女は恭しく襖を開けて、
「どうぞお入りください」
と言った。
「ありがとう」
そう感謝して中に入ると、少女は音もなく襖を閉めた。
辰也は奥を見据える。
女が一人いた。目が覚める様な朱色の着物には、黒々とした蛇が模様として入っている。美しい顔立ちを化粧が引き立て、長い黒髪を蛇のかんざしでまとめていた。胸元は開かれ、その豊満な胸部によって生まれた谷間を惜しみなく晒す。細い指で煙管を持ち、口から白い煙を吐いている。
「ようこそ、剣宮辰也様。私が蛇姫よ」
「……お前は、蛇剣衆だな」
辰也は柄に手をかけていつでも抜ける様に体制を整える。殺気を放ち蛇姫にぶつけるが、彼女は気にした様子がない。
「そうよ。よく分かったわね」
「お前からは臭う。何人もの人を殺めた者の臭いが」
「臭うだなんて心外ね」蛇姫は微笑する。「これでも毎日湯で汗を流し、最高級の香水をつけているのよ?」
「そういう意味ではない」
「あら? ではどういう意味かしら」
「……貴様と問答を楽しむつもりはない。俺を殺すために呼んだのだろう」
「ふふ。それは違うわね」
「どういうことだ?」
「私のものにならないかしら?」
彩は辰也が入って行った娼館を見つめていた。
何故なのか分からないが、胸がざわついている。この気持ちは一体何なのか。彼が誰と会おうとも、誰と寝ようとも、関係がないはずなのに。
彩はここに来るまでの間に言っていた辰也の言葉を思い出す。「もしも自分が戻らなければ、死んだ者だと思って忘れる様に」そう確かに言っていた。
蛇姫の手にかかれば、どの様な男であってもたちまち虜になる。そうした噂があるのは嫌というほど何度も聞いたし、きっと事実だろう。実際、辰也にここまで来る様に伝えたあの門番も、そうした一人なのだろうから。辰也もああなるのだろうか。想像するだけで、それは嫌だった。
他にも懸念することがある。辰也は黒蛇ジャジャ、ならびに蛇剣衆と敵対していることだ。
辰也はもしや、自らが死ぬ可能性があることを示唆したのではないか。
ぞお、とした。それは恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
だがすぐに、おかしいと彩は思う。
なぜなら、人の死など、彩にはどうでもいいはずだからだ。
確かに辰也は利用価値のある男だ。いなくなるのは惜しい。けれどそれだけの話だ。
ここまで考えて、彩は踵を返した。
向かうは泊まっていた波止場亭だ。数日滞在する羽目になるかもしれないから、部屋を確保しておかなければならない。
だから、仕方がないのだ。
「俺に蛇剣衆になれというのか」
辰也は蛇姫を睨みつける。
「違うわ。言ったでしょう、私のものにならないかと」
「どういうことだ」
「この街の町長は私ではない。だけど実際に取り仕切っているのは私自身。この色蛇街は、私が、私のために作った街。私のものになれというのはね、この街の物になるのと同義なのよ」
「蛇剣衆がいるではないか」
「確かに籠絡してこの街に引き込んだのはいるわね。でも、駄目ね。つまらないの、あいつらは」
「お前も蛇剣衆ではないか」
手を柄に添えたまま、辰也は一歩一歩近寄っている。相手は蛇剣衆。どれほど異様な技を持っているか分からない。
「うふふ。そうね。でも私は蛇剣衆の中では異端。私は別に戦いを好んでいるわけではないの。もちろんジャジャ様の助けになることなら何でもしたい。そのために戦わなければならないなら、容赦無く戦うわ。でも、あなたならば、戦わなくても済むと思っている。これは本心よ」
「良いのか? 俺を殺すことが蛇剣衆の使命ではないか?」
「私は、違うと思っている。要はジャジャ様と敵対しなければいいのよ。大庭を破るほどのあなたが私の味方になってもらえれば、これほど力強いことはない。それに私のものになるなら、至上の快楽を教えてあげるわ。もちろん、お給料も弾んであげる。どう? これ以上ない提案だと思うのだけれど」
「……悪くない」
「でしょう」
「だが、俺は、この蛇空が気に食わん。俺が見たいのは、どこまでも澄み渡った青空だ」
「なるほど」蛇姫は艶然と笑う。「どこまでもジャジャ様と敵対するつもりね」
「そういうことだ」
「いいでしょう。そこまで言うのなら私直々に相手をして差し上げます。さあ、もっと近寄ってくるといいわ」
辰也は警戒を解かず、いや今以上に警戒して、蛇姫へと歩んでいく。
そうして、部屋の中央にまで足を運んだ時だった。
「なんて、ね」
と、蛇姫は呟いて、手に持った煙管で畳をぽんと叩いたのである。
その瞬間、辰也の足元が抜けた。
「な!」
床が両開きに開いたのだと気づくのも束の間、辰也はそのまま落下する。
一階を通り過ぎ、視界を埋め尽くす闇の色。
「辰也!」
とっさにハナを引き抜く。桜色の輝く刀身が心強い。
「剣宮流錬気法……花びら」
そして辰也は、わずかな衝撃を足で受け止めて着地する。
硬く凹凸がある地面をハナで照らすと下は岩だった。湿気の多い空気が肌にまとわりついて、不快感と蒸し暑さで汗が垂れる。
辰也は一歩動くと、かつりと何かが足に当たった。ハナを近づける。
辰也は思わず息を呑んだ。それは、人の頭蓋骨であった。
「こ、これって」
驚愕の声をハナはあげた。さらに周囲をよく見れば、辺りは人体の白骨が散らばっている。
「それより……周りに何かいるか?」
「あ、うん。大丈夫、と言っていいのか分からないけど、生き物の気配は何も感じないよ」
「そうか」
と呟いて、歩を進める。すると今度は岩壁に出会した。手で撫でてみると、表面は濡れている。辰也はハナで岩に傷を入れた。
それから手を当てながら壁沿いに歩いていくと、今度は黒い格子が行く手を阻んだ。
「これって……」
そうしてさらに進むと、案の定、先ほどつけた傷がある。辰也は、
「牢屋か、ここは」
そう呟いて上を見上げたが、ただただ暗いだけだった。
辰也は格子に戻る。
「……斬ってみるか」
と、ハナを握る手に力を込める。
「待って、辰也。誰か近づいて来る。これは……蛇気だ」
「何」
足音が、響いてきた。階段を降りてくるような音だった。
辰也はじっと待つことを選んだ。
数分後に姿を現したのは、提灯を携えた蛇姫である。彼女は辰也の姿を認めると、にっと笑いかけた。
「やはり生きていたのね」
嬉しそうに言う。
「あの程度では死なぬ」
「そうこなくてはね。でも、さすがのあなたもここにずうっといると死ぬでしょう?」
「……だろうな」
「出られる方法を教えてあげる。あなたが私の物になればいいのよ」
「ならぬ、と言っている」
「だけど、私のこの身体」蛇姫は艶かしく体をくねらせる。「触ってみたいと思わない? 最上の快楽を味わいたいとは思わない? 女を知らぬまま人生を終わらせたくはないでしょう?」
「俺の人生は、ジャジャを倒すためにある」
「強情ねえ。まあいいわ。今日はこの辺で諦めてあげる。だけど覚えていてね。この牢屋は私がこだわりぬいて作り出した色蛇街最高の地獄。あなたに耐えられるのか、見ものね」
蛇姫はくすくすと笑いながら、この場から離れていった。
気配が完全に離れてから、辰也は今度こそハナを上段に構える。
気を充実させ、刀を一息に振り下ろした。
しかし、鈍い音を立てて刃は格子に阻まれた。斬れないばかりか傷一つついていない。
「ただの鉄ではないな……」
斬鉄の技術を辰也は持っている。だがこうも無傷であることは、特殊な金属でできている可能性が高い。例えば、桜刀ハナの刃がヒヒイロカネでできているように。
「もっと試してみる?」
「……いや、やめておこう。少し疲れた」
「そうだね。休んだほうがいいよ」
辰也は壁に寄りかかって座った。
「これからどうする?」
「しばらく様子を見ながら抜け出す方法を考える。まずは、それからだ」
「うん」
一体何時間経ったのか。時間の間隔は最早ない。脱出の手段も未だ思い浮かんでいない。無為に時間が経っていく中で、不意にハナが緊迫した声を発した。
「……何、これ。何かいる。さっきまで何も感じなかったのに」
「どうした?」
「わ、分からない。何かいるのは確実だけど、何かなのかよく分からない。生き物ではないの。でも、いる。蛇気でももちろん神気でもなくて、人の普通の気でもなくて、だけど恐ろしい何かが」
ハナの声は震えていた。
辰也は立ち上げり、ハナをかざして照らしながら周囲を窺うも何もいない。
ただ、辰也も何かを感じ取った。
肌にべったりとまとわりつくような、不気味な何かの気配が、確かにある。
「わ、分かった」と、ハナは言う。「これは、幽気だ」
闇の中。辰也は見た。
ハナの桜色の光によって人型の黒い何かがぼんやりと浮かんでいるのを。
そうしてその人型の何かには、足がなかったのである。
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