18 眠らぬ街 一
剣宮辰也は座禅を組んでいた。
精神を集中させて気を巡らし、田所勘兵衛との一戦で発現した空の境地の片鱗を、今再び掴もうとしているのだ。
しかし、どれだけ集中してもあの境地に再び至れない。
「剣宮様」
後ろから声をかけられて振り返ると、山辺彩が正座で辰也を見つめている。
「どうした?」
「そろそろお休みになられては如何ですか? もう随分と長い間、そうしています」
「人の心配をするのか?」
黒蛇ジャジャが支配しているこの世において、人々の心は悪徳へと向かう。人はより弱い人を利用し食い物にするのだと彼女は以前言っていた。
「いけませんか?」と彩は答える。「ですが確かに、人の心配をするだなんて、前の私にはあり得ないことですね。……一体、どうしてなのでしょう……」
田所との一戦の後で彼女は辰也の怪我を治療した。利用するためだと言っていたが、それが本当に本心だったのだろうか。
「白々しい」冷ややかな声を発したのは桜刀ハナだ。「また私の辰也を誘惑するつもりなんでしょう?」
「私の? ご冗談を。あなたは剣宮様の物でしょうけれど、剣宮様はあなたの物ではありませんよ」
彩とハナの間で火花が散っているかの様に辰也には見えた。
「辰也は私がいないと駄目なの!」
「ええ。そうでしょうとも。ですが剣宮様が誰と寝ようと、あなたには関係ないでしょう?」
「ぐぬぬ……」
やれやれ、とばかりに辰也はため息を吐く。
二人と一振りが今いるこの場所は、峠を越え彩に案内された廃屋であった。元は小さな一軒家で隙間風は多く、埃が立っていたが、それでも屋根があり壁があるだけで安堵することができるのだから不思議なものだ。
「山辺」
と、辰也が呼ぶと、彼女は途端に背筋を正す。
「は、はい!」
「あまりハナをいじめてやるな。機嫌を取るのが面倒だ」
「あ、すみません、気がつかなくて」
「ふふん」
と、鼻息を荒くするハナ。鼻はないのに。
「お前もだ」
ごつん、と辰也は刀に拳骨を食らわせた。
「あいたっ」
「……息を吸う様に喧嘩を売るんじゃない」
「だ、だって……」
「だってじゃない」と、辰也は再び彩に向いた。「君の言う通り、俺ももう休むとしよう。しかし俺は、誰かと共に寝るつもりはない」
「はい」
こうして、朝が訪れることのない世界で、辰也は眠りについた。
いくつかの分岐点を挟んで街道を進んでいると、段々と馬に乗った人や馬車が多くなってきた。いずれも身なりが良く、それなりの身分だと知れた。他にも貧相な格好の男が目をぎらつかせて歩いているのが混じっている。
彼らは一心不乱に同じ場所へ向かっているらしく、今のところ平穏そのものだ。蛇剣衆に襲われる気配もない。
「人が増えてきたな」
そうした人たちを見据えながら、辰也は呟いた。
「はい」と彩が答える。「みんなこの先にある街に向かっているんです」
「こんなところに街があるのか」
「はい。この辺りでは、いえ、蛇傀列島の中でも指折りの街がこの先にあります」
「ほお」
「楽しみですか?」
「気にならないといえば嘘になる。村にはいくつか訪れたが、街は久方ぶりだ」
「この先の街は、男性の方なら誰もが好きになる街なんですよ」
「ふむ……確かに通っていく人々は男性が多いな。みな一様に目を輝かせている。それほどまでに楽しみなのか」
「そうだと思います。ただ、ハナさんは気に入らないと思いますが」
「私が? その街には何があるの?」
「秘密です。どちらにしろ行ってみれば分かりますよ」
彩はそう言って悪戯っぽく笑った。
幸いにも蛇剣衆に襲撃されることなく、先へと進む。
しばらくして丘が見えた。坂を登っていくと、向こう側が明るく光っている。周囲の人々が感嘆とした声を上げて、彼らの足取りが早くなったようだ。
「この丘を越えれば、街ですよ」
周りの反応を裏付ける様に彩は説明した。
そうして丘の頂上に出て、下を見下ろせば、色とりどりのガス灯に綾取られた街が広がっている。
街は周囲を高い塀で囲っていて、門が二つだけ設置されていた。中央には五階建ての一際高い建物があり、朱色に染まった瓦屋根が大層目立っている。また遠巻きに見ても分かるほど人が多くいるのだった。彩が蛇傀列島指折りの街だと胸を張っていたが、なるほどそう言い切れるだけの大きさと活気がある。
「おお」
辰也は思わず声を上げた。
「綺麗でしょう?」
彩は彼の驚いた顔を見ながら嬉しそうに言う。
「これは、確かに」
辰也は息を呑んだ。
それはまるで、色とりどりの星々が地上に散らばっているみたいだった。赤や、黄色や、青色の点々とした光が街を輝かせている。星空を見ることは今の世界ではできないけれど、眼下の街は地上に生まれた星空だった。
「悔しいけど……本当に綺麗……」
ハナもうっとりと呟いた。
「では行きましょう!」
彩は元気よく声をかけて、辰也の手を取って歩き出す。
あんまりに自然な動作だったから、辰也も避けることができなかった。今更振り払うわけにもいかず、彩に引かれるまま歩を進む。
「あっ。こら、離しなさい」
ハナが叱るが、周囲にばれないように小声で言うからいまいち迫力がない。それに、ハナに言われた程度では、彩はせっかく掴んだこの手を離す気はなかった。
ほんのりと紅潮した顔を隠す様に前を向け続けて、彩は奇妙に思う。
どうしてこんなにも高鳴っているんだろう。
それはやはり、良く分からなかった。
丘を降りると立派な門がそびえ立っている。
門の前には門番が二人いて、街に来る人々に対して簡単な問答を行い、一人一人確認しているらしかった。
数十人が並んでいる列に辰也たちも並ぶ。列は少しずつ前に進んでいく。
常連らしき人は顔を見せるだけですんなりと通っていくが、初めて来る者には詳しく尋ねているらしく時間がかかっている。
「それだけではないですよ」と、彩は忠告する。「ほら、あの人とかよく見てください」
言われた通り観察していると、驚いたことに袖の下から何やら取り出して門番に渡しているではないか。するとほんの一言二言やりとりしただけで、すぐに門を通っていく。
「……賄賂というやつか」
感心した風に辰也は言う。何しろ賄賂のことを知識として知ってはいたが、桃源島にはそのようなことをする人は一人としていなかったのだから。
「はい。毎日の風景ですね」
「禁止ではないのか?」
「名目上は禁止です。ですが規則などあってないようなものですよ」
「……なるほど」
本当にこの世界には驚かさせると、辰也は声に出さずに言った。
やがて辰也たちの番が来た。
「……お前か」
門番はしかめた顔で彩を見る。
訝しげな目線で辰也は彩を見たが、彼女は視線に気づくと手で制した。
「お久しぶりですね。その節はどうも。良ければまたお相手してあげてもいいんですよ?」
「ふん。それで全財産を取られてはかなわん。……後ろの男はお前の連れか?」
「はい。用心棒として雇いました。とても腕が立つんですよ。人柄も保証します」
「人柄、ね。まあ、分かった。通って良いぞ」
「ありがとうございます」
辰也にとっては思ったよりもあっさりと、門を通る。
街の中は人が多く、前が見通せないほどだ。
外から見た通り中は色々な光で満ちていて、眩しいほどである。
「さっきの男は知り合いか?」
「はい。と言っても、襲いかかってきた代金として財布をくすねただけですよ。まさがそれがあの人の全財産だとは思わなかったですが」
「……そうか」
と神妙に呟いた辰也のことを彩は覗き込んだ。
「ふふ」何を勘違いしたのか、彼女は微笑む。「ご安心ください。剣宮様なら例え襲われても盗むことはありませんから」
「……そういうことを心配したわけではない」
「では、何を」
「いや、君もそういうことをするのだな、と思ったのだ」
「あはは。それはもちろん、しますよ。弱い人は強い人の食い物にされてしまいますが、だからと言って何もしないわけではありません。弱い人は弱い人なりの抵抗の仕方があるんですよ」
「なるほど」
しばらく歩くと、辰也は周囲の景色に気がついた。人が多いのは変わりないが、問題は男女比だった。その殆どが男性なのである。
それから通り沿いに建てられた家屋の存在だ。壁はなく、代わりに格子状に柱が建てられ、その向こう側から艶やかな着物を纏った女たちが扇情的な視線を送っている。
「彩……。この街は一体?」
「はい。ここは色蛇街。男が女性を一晩買うことができる女郎街です!」
悪戯が成功したみたいに、彩は笑った。
行きつけの宿だと案内されたのは、波止場亭と言う看板が出ている二階建てのこじんまりとした宿だった。
中に入ると、ふくよかな中年の女性が現れた。
「あら、彩ちゃんじゃない」
朗らかな笑顔を浮かべて、彼女は気さくに挨拶する。
「お久しぶりです、女将さん」と彩は答える。「お元気そうで何よりです」
「当たり前よお。元気だけが私の取り柄なんだから。ところで、こちらの方は?」
「私が護衛に雇った方です。今日は一緒に泊めてもらうつもりです」
「あらあら、なるほどねえ」女将は辰也と彩を見比べると意味深に笑う。「部屋は一緒で構わないかしら」
「いや……」
と言いかけた辰也を、彩は手で制した。
「もちろん一緒で構いません」
「うふふ……分かったわ。早速部屋に案内するわ。上がってくださいな」
玄関を上がり、女将の先導で部屋に向かう。六畳ほどの広さの部屋だ。
「どうぞごゆっくり」
そう言って女将は襖を閉めた。
「なんて街を辰也に案内するかなあ」
予想通り、と言えば予想通りであるが、ハナが早速怒り出した。
どうも刀になってから己の感情に対し素直になりすぎているように辰也は思う。かつて人だった頃は、桃源島における立場もあり、表立って感情を発露させることはあまりなかったのだが。もちろんその様なことで幻滅することなどなく、むしろ好ましく思う辰也なのだった。
「仕方ないではありませんか」彩は負けじと言い返す。「目指している方向の都合上、どうしたってこの街を通らなければならないんですから」
「それでも迂回路とかはなかったの?」
「ありません。それに剣宮様なら大丈夫ですよ。遊ぶことはないかと」
「万が一ってこともあるでしょう」
「確かにそういうこともあるかもしれません……剣宮様も男ですから。ですがそれはあなたには関係ないでしょう? あなたは刀なんですから」
「……そ、それは」
「そこまでにしろ」
辰也は思わず割って入った。
「剣宮様」
「俺は誰とも寝る気はない」
「……なぜあなたはそんなに刀に気を遣うのですか? 確かにこの刀は意思を持っていて言葉を話します。とても貴重なのは理解できます。ですがただのか」
「これ以上言うな」と辰也は遮った。声音は明らかに怒気を孕んでいる。「ハナと合わないと言うのであれば、ハナと一緒に俺がここから出よう。護衛の仕事は引き受けた以上するが、それ以上の干渉はするな」
「え……」捨てられた犬の様な表情を彩は浮かべた。「ご、ごめんなさい。もうハナさんに突っかかるようなことはしませんから、どうかここから出て行かないでください」
ふう、と辰也はため息をつく。
「ハナも、すぐに喧嘩をするのを止めろ」
「う、ごめんなさい……」
「そうじゃないだろう?」
「……山辺さん、ごめんなさい」
「……こちらこそ、申し訳ありませんでした」
「これでよし」
辰也は満足そうに頷くと、部屋の隅に積まれている座布団を二枚手にとって、彩と自分のために敷いた。
「ともかく座ろう」
「はい」
と、彩が返事をすると、辰也は重々しく口を開けた。
「ところで、聞きたいことがあるのではないか?」
真顔で尋ねられた彩は、図星を射られて一瞬言葉を詰まらせた。
「はい。……剣宮様の旅の目的とは一体なんなのですか?」
「もう薄々感づいているだろうが……俺の目的は、黒蛇ジャジャを倒すことだ」
彩は目を見開かせた。辰也の言う通り何となく分かっていたことであったが、面と向かって改めて言われると、やはり衝撃を受ける。
「なぜ、そのようなことを……」
「この星に青空を取り戻し、世界を悪徳から解放するためだ」
何か冗談でも言っているのだろうかと、彩は辰也の鋭い瞳を見つめた。けれど、とても冗談を言っている様には見えない。いつも通りの真面目な目だ。
「ジャジャ様が、以前言っていた悪い因果の元、なのですか?」
「そういうことだ」
「にわかには信じられません」
「無理もない。だが、これで分かっただろう? 俺と一緒にいるべきではない」
「……頭では、そうするべきだと分かっています。ですが、自分でもよく分からないのですが、剣宮様の側に今しばらくいたくも思うのです。本当に、自分が分かりません……」
「ならばよく考えることだ」
「……そうします」
悩みながらも、彩は就寝したようだった。疲れていたのだろう。眠りも深い。
「……話があるの、辰也」
寝入るのを待っていたのか、神妙な口調でハナは言う。
「先ほどの山辺のことか?」
「確かにそれも気になるよ。でも違うの」
「違う?」
「街に入った時から、強い蛇気を感じるの」
「それは……」
「うん。おそらくは蛇剣衆。それも大庭久郎のように祝福を受けて、自我を失っていない強力な蛇剣衆がいる」
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