3 桜刀ハナ 一
およそ三ヶ月前。
蛇のように南北に延びた列島、蛇傀列島。その中腹あたりから西に船を漕いでおよそ三ヶ月先にその島はある。島の名前は桃源島。外部からの侵入を拒むかのような切り立った断崖に囲まれたその島は、今の人々からその存在を忘れ去られていた。
その桃源島に、桜花一刀流の道場がある。
日の出から数刻経った道場の中、剣宮辰也は木刀を手にし、師範の藤堂雅和と相対している。互いに構えは中段だ。
「はじめ!」
立ち合いの師範代が合図をすると同時、辰也が動いた。
「せいっ!」
一足で間合いに入ると、辰也は上から斬りかかる。それを受け流す藤堂。予想していたのか、辰也はさらに攻撃を加える。
藤堂は反撃しない。全て受け止め続けている。木刀と木刀がぶつかり合う軽快な音が道場に響き渡った。
感嘆とした目で彼らの打ち合いを見物しているのは、道場に通う門下生たちだ。彼らはみな辰也に敵わない。師範以外に勝てるとすれば師範代ぐらいだろう。いや、もしかしたら今は辰也の方が上かもしれなかった。何しろ辰也と師範代が最後に手合わせをしたのは半年も前で、当時は師範代が辛うじて勝っていたのだから。しかしながらそれ以降は、師範だけが辰也と手合わせを行うようになったのである。
多くが男で占める門下生の中に、異彩を放つ少女の姿があった。白地に満開の桜の木が描かれた着物を羽織る一人の少女。艶のある黒髪は桜の花を模したかんざしでまとめてある。
武芸を学ぶ女性は桜花一刀流にもいるが、彼女はいかにも門下生には見えない。華奢で美しく、凛とした佇まいの彼女は、戦いを好んでいるようには見えなかった。何しろ彼女の視線はずっと辰也に注がれている。少しでも技を盗もうと師範と辰也の動きを注視する門下生とは違い、彼女のそれはどこか心配そうでもあった。
「しっ」
攻勢の中、辰也は雅和の胴にわずかな隙を見つけて半ば反射的に斜め上から振り下ろす。しかしそれは雅和が仕掛けた罠だった。雅和の木刀が辰也の木刀を弾く。木刀はあっさりと辰也の手から離れ、くるくると回転しながら飛んでいった。そして間髪入れず辰也の手首が打たれた。
「つうっ」
鋭い痛みが走り、思わず手を抑える辰也。
「あっ!」
「そこまで!」
少女が小さく悲鳴を上げるのとほぼ一緒に、師範代が声を張り上げた。
辰也は未だ手が痛むのか、片手で抑えながら中央に。対面にて立つ雅和は涼しい顔だ。師範代の合図と共に二人が礼をするのを見届けた少女は、師範の顔をはらはらした様子で見た。それに気付いた雅和が小さく頷くと、少女は焦った様子で辰也に近寄った。
「辰也! 大丈夫?」
「花奈……ああ、大丈夫だ」
花奈と呼ばれた少女は、どこからともなく白い包帯を取り出して、慣れた様子で辰也の手首に巻いていく。それを微笑ましく眺めながら、師範は口を開いた。
「罠だと分かっていても、隙を見つけると反射的に手を出す癖は変わらんな」
「はい」
と、反省した様子で辰也は言う。
「その癖を治さなければ、死ぬぞ」
「分かっております」
「ならば良い。今日はこれより用があるのだろう? もう帰るがいい」
「はっ」
辰也と花奈が一礼して道場から出ていくのを、一同全員が見送った。みな一様に、悲しそうな寂しそうな複雑な眼差しを向けている。
「私が代われるものなら、代わってあげたいのですが」
そうぽつりと漏らしたのは師範代だった。
「それは俺の台詞だ」雅和は忌々しく言う。「未来ある若者を死地に送るなど、我々はどうかしている。だがあやつら以上の適任者がいないのもまた事実」
「私たちはきっと、地獄に行くのでしょうね」
「違いない」
二人のやりとりに耳を傾けていた門下生たちもまた、心の中で頷いていた。
外に出た辰也と花奈は上から降り注ぐ陽光に身を包まれた。空は青く晴れていて、島の中央で天を衝くほど巨大な常世桜が、昨日と変わらずに満開の桜を咲かしているのがよく見える。その大きさは島のどこからでも見えるほどだ。
「今日も常世桜様が綺麗だねえ」
花奈はしみじみ言った。
「ああ。だけど、青空が見える範囲が小さくなっている」
「うん」
さらに遠くへ目を凝らせば、多量の黒い蛇が蠢きあいながら、常世桜を中心に円を描いて青空を囲っているのが見て取れる。黒蛇の集団は見えない壁に阻まれてこれ以上進めないようだった。
「絶対に勝とうね」
花奈は決意を秘めた目で空を見つめる。
「無論だ」
と、辰也は大きく頷いた。
それから二人並んで暖かな土の道を歩む。道場は田畑に囲まれた場所にぽつりとあって、近くの家までやたらと遠い。利便性の低い場所だが不思議と門下生が集まってくるのが、桜花一刀流という看板の強さと確かな実力を裏付けている。
「どうして町からこんなに外れた所に作っちゃうかなあ」
うんざりした様子で花奈は言う。
「足腰を鍛えられるからいいじゃないか、と師範は前に言ってたな」
「私には関係ないし……」
「それもそうか」
辰也は前方に老婆がいるのに気がついた。荷車を引いており、沢山の野菜が乗っている。おそらく島の中心部で売るためなのだろう。辰也は老婆を見た途端、花奈が止める間も無く駆け寄って荷車を押し始めた。
「全くもう」
そう呟きながらも、花奈は少しも嫌そうにせずに辰也の後を追って、同じように荷車を押した。
「あんれま、剣宮様んとこと、神楽崎の娘様でねーですか」老婆は振り返ると驚きながら言う。「私は大丈夫ですんで、どうぞ先に行ってくだせえ」
「問題ない」
と言葉少ない辰也。
「私たちも同じ方向に行くところですから。それに私たち、若いから体力だけは有り余ってますし」
笑顔を浮かべた花奈は、あるかないかよく分からないぐらいの力瘤を作る。
「すまんなあ」
「いえいえ」
そうして老婆に合わせたゆっくりした足取りで島の中心部に辿り着いた。桃源島の中でもっとも活気のあるこの場所で市が開かれているのだ。老婆はここに野菜を売りに売りにきたのである。
「ほんにありがとうなあ」
老婆は何度もお辞儀を繰り返して感謝の気持ちを伝え、りんごを二人に手渡した。
「ありがとう、おばあちゃん。いただきます」
そうして老婆と別れた二人だったが、今度はべそをかいている男の子を見つけてしまう。男の子が困っているのを通行人の誰一人も気がつかないようだった。花奈よりもいち早く発見した辰也は、すぐさま近寄って声をかける。花奈もすぐに行き話を聞いてみたところ、母親と逸れてしまったそうである。早速母親を探し始める二人であった。
そんなこんなで、その後も困っている人を見つけて助けながらも、無事に目的地に着いた。
場所は神楽崎家の本宅。花奈の生家である。
村長の屋敷には負けている。だが島の中で二番目に広い屋敷だ。庭の池には美しい錦鯉が数匹泳ぎ、計算された配置で生えている松の木は熟達の職人の手によって整えられている。敷き詰められた銀砂の上を飛石が敷かれ、その上を歩きながら辰也は花奈を先頭にして建家の中に入った。
「ただいま戻りました」
「お邪魔いたします」
するとぱたぱたと足音が聞こえてきて、妙齢の女性が出迎えに上がった。花奈の母、緒花である。
「これは辰也様。ようこそいらっしゃいました。花奈もお帰りなさい」
「うん、ただいま」
「お邪魔します」
「お祖父様がお待ちですよ。早くお行きなさい」
「はい」
草履を脱ぎ、床に上がる。辰也と花奈は慣れた様子で奥の部屋へ向かった。
「お祖父様、花奈です。辰也様をお連れしました」
「遅かったな、入れ」
威厳のある声が聞こえた。そっと襖を開き、中に入る。上座に正座で座す老人の姿があった。彼の名前は神楽崎錬太郎。花奈の祖父である。
「そこに座れ」
錬太郎の前には座布団が二つすでに敷かれてある。二人は言われるがまま着座した。
「遅くなって申し訳ございません」
花奈の謝罪の言葉と共に、二人は頭を下げる。
「よい。どうせ、いつものやつだろう?」
「はい、その通りでございます、お祖父様」
「全く困った奴よのお。貴様は道を歩けば困っている者を見つけてしまう。儂との約束があろうとも、ついつい助けて遅刻する。こうも毎度毎度起きると何かの呪いにでもかかっているのではないかと疑ってしまうわい」
「私も別に困っている者を探しているわけではないのですが」
「それも分かっとる。見つけた者を全て助けようとする貴様の心根も気に入っている。じゃが、心配にもなる。この島だけでなら良いのだが、島の外に出たとき、貴様のその性分が仇となる日が来るような気がしてならんのだ」
「外、ですか」
「そうだ。今日二人を呼んだのも他でもない。外について儂が知っている限りのことを教えてやろうと思うてな」
「……お祖父様……よろしいのですか?」
「構わん。どうせいつか話さなければならん日が来るのだ。それなら貴様らにこそ知っておいてもらわんとな」
錬太郎は遠い目をした。じっと静かに待つ辰也と花奈。
「儂が二十を過ぎた頃、儂含めた五人が島を出たことは知っておろう?」
「はっ」
「知っての通り外は蛇に太陽を遮られて暗い。おまけに蛇気に満ちておる。この蛇気というやつには厄介な特性があるのだ」
「神気とは違うのですか?」
辰也は疑問を口にした。
「違う。神気は陽光を受けて生まれ育まれるもの。人を良き道へと誘う性質を持つ。無論、影響を受けにくい人はいるがの。対して蛇気は、人を悪徳へと走らせる性質がある」
「蛇気はどこから生まれるのですか?」
「もう勘付いているのだろう? 黒蛇ジャジャ。奴が発生源だ」
「やはり……」
「この蛇気のせいで、人々は悪しきことを行うことに抵抗がなくなっている。我々も悪徳に染まった人々に使命を果たすのを邪魔された。しかしそれだけではない」
「……一体何が起きたのですか?」
「蛇剣衆。そう呼ばれる集団がいる。奴らの正体は分からぬ。だが奴らは奇怪な剣術を使い、恐ろしく強い。しかも、どうも我々をジャジャの元へ向かわせないようにしていた節がある」
錬太郎は淡々と言う。しかしただそれだけで、強い圧力を辰也は感じた。あるいは抑え込んでいる感情が漏れているのかも知れない。
「奴らに、五人中三人が殺された」
「まさか」
と、辰也は驚いた。隣に座る花奈も、目を見開いている。
「そのまさかだ。貴様の爺が隻腕なのも奴らが斬り落としたからに他ならぬ」
「祖父は、そのようなことは一言も……」
「そうだろうな。あやつは未だ当時のことを整理できておらん。だからこそ、儂が今こうしてお主らに話をしているのだ」
そうして錬太郎は、蛇剣衆との戦いの日々を語り出した。凄絶で、苛烈で、過酷な戦いの話はあまりに強烈だった。二人はただ黙し、一言一句脳裏に刻み込む。
「……以上が儂が知っている限りの蛇剣衆だ。もっとも今は当時とは違うだろうが、な」
「いえ、参考になりました。どれほど相手が強かろうとも、私は命に代えても使命を果たして見せます」
二人の真っ直ぐな視線が錬太郎に突き刺さる。
「儂らの世代で事を為せなかったこと、申し訳なかった……」
錬太郎は、ふと気づけばそう言って頭を深々と下げた。肩が震えている。床に着いた両拳が硬く握られている。顔は伏せて見えない。代わりに水滴がぽつりぽつりと滴り落ちた。
「お祖父様」
たまらず花奈は近寄って、祖父の背中をさする。
「本当に……すまない。儂らが勝てていればお主たちも真っ当な青春を送れただろうに。特に花奈。幾ら謝罪しても儂らの罪は帳消しにはならないだろう。全ては不甲斐ない儂らにある。いくらでも罵っても構わない。恨んでも良い。……使命から逃げ出しても良い」
震えるような声で錬太郎は謝罪を続けた。それを辰也と花奈は真正面から受け止める。
「お祖父様。気にしないでください」花奈は優しい声音で言う。「私が自分で決めたことです。みんなに感謝はしても、恨んだりはしません。使命から逃げ出すことも致しません」
「私の祖父も」と辰也は言う。「一人酒を飲み、あの頃のことをひたすら謝り続けている姿を私は見たことがあります。当時のことを何も話さない祖父ですが、余程のことがあったであろうことは察しておりました。今回、話を聞けて本当に良かったと思います。私たちはあなた方の意思を受け継ぎます。あなた達の忸怩たる想い、全て刀に乗せ、蛇を斬ります」
「お前たち……」
「命を捨てる覚悟はすでにできております。私も、花奈も」
錬太郎は、涙を流す目で辰也を見、続いて花奈を見た。花奈の大きな瞳は、強い覚悟を示すかのような光沢があった。彼女はそれから、ゆっくりと、言い聞かせるように大きく頷いた。
錬太郎は崩れ落ちた。床に顔を伏せ、嗚咽を上げ、大粒の涙をこぼす。
「……お祖父様」
錬太郎の大きな想いを一身に受け止めた花奈は、小さくなった彼の背中を優しく撫で続けた。
「せめて」錬太郎は泣きながら辰也を見据えた。「せめて……生きて、帰れ。命を捨てるな」
「はい!」
二人は、共に宣言した。
話が終わるとすでに昼を超えていた。
「お弁当を作ったの」と花奈は言った。「本当はお祖父様も一緒に、って思ったんだけど、二人だけで食べてくれって。外で食べようよ、辰也」
「ああ」
二人が向かった先は小高い丘の上だった。常世桜が一望できる場所の一つで、二人のお気に入りの場所である。今日は幸運なことに他に人がいないため、辰也と花奈は最もいい場所を陣取ることができた。
風呂敷を広げ、その上に座る。取り出した弁当箱にはおにぎりが数個とたくわんが添えられていた。
二人揃って手を合わせ、
「いただきます」
と同時に言う。
「はい」
早速花奈は一個を選んで辰也に手渡す。辰也はそのまま一口かじった。
「うん。うまい」
「良かった」
花奈は嬉しそうに破顔した。それから自分の分を食べ始める。
二人して常世桜を眺めながら黙々と食事をする。会話はないが気まずい空気は流れていない。長年連れ添った夫婦みたいなごくごく自然な雰囲気だった。
おにぎりを食べきると、持参した水筒から花奈が入れてくれたお茶を辰也はすすった。視線は常世桜に固定されたままだ。
「あれで良かったのか?」
そうして、ぽつりと聞いた。
「うん」
花奈もまた常世桜から目を離さない。
春夏秋冬どころか、数万年以上も満開の桜を咲き続けていると伝えられている常世桜は、今日も桃源島を優しく見守り続けていた。
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