2 川井沙紀の運命 後編

 辰也が連れて行かれた場所は、妙に入り組んだ路地の先にある暗く小さな公園だった。

 高い建物の狭間にあるこの公園は、路地に好んで入り込まない限り誰からも見つかることはないだろう。

 あるいはむしろ、ただそのためだけに作られたと聞かされても納得してしまうほどに、周囲からの見通しが悪かった。そんな公園であったからこそ、辰也と蛇活組の五人しか人が見当たらない。

 公園の中央に立たされた辰也の周りを、五人の屈強な男たちが取り囲む。ぎらぎらとした殺気を一身に受けながらも、辰也は平然と受け流している。

 尋常の態度ではない。その証拠に、辰也のどこにも隙が見当たらない。

「来ないのか?」

 一向に襲いかかってこない五人に、辰也は尋ねた。恐怖を感じていない平坦な声。それを男たちは挑発と受け取ったのか、血走った目を向けながら刀を一斉に引き抜いた。長屋の前で話しかけてきた初老の男ただ一人だけが刀を抜かなかったのは、さすがの胆力とも言える。

 だがその初老の男は、四人の男たちの行動にため息を吐いて、

「……やれ」

 と命じた。

 間髪入れずに襲いかかる男たち。四人が振るう刀を、辰也はゆったりとした動作で右に左にかわしていく。その間も辰也は自分の刀を抜くことすらしない。そうして彼らの攻撃の全てを避け、包囲から脱出した辰也を、男たちは悔しそうに歯軋りをしながら睨んでいる。

「舐めやがって」

 誰かが呟く。しかしそれは四人が感じていることでもあった。

「刀を抜け」言ったのは初老の男。「それが礼儀であろう」

「一理ある」

 ようやく辰也は刀を抜く。一切の曇りのない美しい刃。波紋は不思議なことに桜の花びらを連想させる。そればかりか、刀身が桜色の光を放っているようにも見えた。

「おお」

 初老の男は思わず感嘆とした声を上げた。

 一方四人の男たちは、その刀が持つ奇妙なまでの美しさに気圧される。先ほどの勢いはどこかに消え失せ、冷や汗をかき、本人たちも気づかぬ内に半歩下がっていた。

 その様子に初老の男は眉をにじり寄せる。

「どうした? 行け」

 途端、びくりと体を震わせた四人の男たちは、雄叫びを上げながら辰也に斬り掛かった。

 最初の一人が上段に構えて迫ってくる。それを辰也は一瞬にして懐へと潜り込み、刃の背を向けて胴を打った。

「があっ!」

 いわゆる峰打ち。だからと言って無害なわけがない。刀は鋼の塊なのだ。男は痛みのあまり地面に倒れ伏せて悶える。

 敵は待たない。二人目は辰也の逆胴を目掛けて横に薙いできた。それを辰也は冷静に刀で受けると、目の前の敵は刀を引いて、再度振るってくる。今度は逆袈裟。しかしほぼ同時に辰也も刀を振り、相手の腕に一撃を食らわせた。鈍い音と確かな感触。腕があらぬ方向へと折れ曲がった。

「腕があっ!」

 苦しむ二人目を尻目に、返す刃ですぐ右横から迫ってきた男の胸に当てた。男のあばら骨が折れる感触が手に伝わる。胸を手で押さえて脂汗を掻きながら下がった男は抵抗の意思を未だ見せていた。だが辰也がすぐさま足を払うとあっさりと転倒する。彼はもはや、起き上がる気配を見せない。

 四人目の男は二の足を踏んでいる。三人があっけなく倒されていくのを目の当たりにした彼は明らかに圧倒されていた。脂汗で顔面が濡れて、蒼白な顔を辰也に向けている。呼吸は荒く、怯えた眼が右に左に揺れ動いていた。

 だが彼の背後には初老の男がいる。初老の男から放たれる刺すような視線は、彼が逃げることを許さない。

 辰也が一歩近づくと、半ば自棄になった雄叫びを上げながら、男は渾身の突きを繰り出してきた。片手で持った刀で無造作に払らう辰也。そして勢い余り前につんのめった男の顎の先端に掌底を喰らわせる。それだけで彼は気絶した。

「なぜ殺さなかった?」

 全てを見届けた初老の男は、眉一つ動かさずに質問をぶつけてきた。

「この刀はお前たちのような者を殺すためにあるわけではない」

「……なるほど。儂らは斬るに値しないと言うことか」

「そうとも言える」

「だが解せぬ。なぜあのような小娘のためにここまでする」

「行きがかり上、見過ごすことはできなかった」

「ただの通りすがりか。それだけで人助けとは見たことがないな」

「たまたま見たことがないだけだろう」

「……ふむ、そういうことにしておくか。だが知っているのか? そもそもあの小娘がどうやって日銭を稼いでいるのかを」

「知らぬ」

「盗みだよ。人から金を盗んでいるのだよ」

「本当なのか?」

「そうだ。しかしあやつは小心者でな。一日にほんの僅かしか盗まぬ」

「……そうか」

「俺たちは借金の返済のためにそれを取り上げているだけに過ぎぬ。まともに働けば、あのような暮らしぶりになろうはずがない」

「そうかもしれんな。しかし、そもそもなぜあの子は借金をしているんだ?」

「あの小娘が借りたわけではない。あやつの親が借りたのだ」

「なに?」

「あやつの父親は賭博狂いでな。負けに負けを重ね、ついには返せなくなったのよ。そして蒸発し、今では行方知らず。まあ、よくある話だな」

「母親はどうした?」

「とうの昔に男を作って出て行ったな」

「あの子は関係ないだろう」

「父親が返せなくなったのだ。代わりに子が返すのが当然だろう」

「……ここに金子がある。これでは足りぬか?」

「お前が払うのか? なぜそこまでする」

「そうした方がいいと、魂が言うのだ」

「魂か。今時、珍しいやつだ。いいだろう。受け取ろう」

 初老の男は辰也から金子を一枚受け取ると、懐から一枚の紙を取り出した。

「借用書だ」

 そうして、びりびりと破り捨てた。

「これであの小娘の借金はなくなった。身体を売ればもっと稼げたのにな。残念だよ」

「……それが狙いだったのか?」

「さてな。どちらにしろ、これで帳消しだ。お前のことは気に入った。どうだ? うちで働かんか? 悪いようにはしないぞ。この金子以上の稼ぎを保証しよう」

「魅力的な提案だな。だが断る。俺にはやらなければならぬことがある」

「ふ。そうか。まあ、そう言うだろうとは思っていたがな」

「……お前は、俺のことを斬ろうとは思わないのか?」

 辰也の質問に、初老の男は周囲を見やった。男たちが呻き声を上げて苦しんでいる。

「魅力的な提案だが、止めておこう。こいつらを連れて行かねばならんからな」

「そうか」

「最後に名前を聞いておこう。儂は蛇活組の車田正治」

「俺は剣宮辰也」

「剣宮……か。なるほどな」

「どうした?」

「いや、ただお主とはまた会うことになるだろうと思うてな」

「俺としては二度と会いたくないがな。もう用はないだろう。行け」

「そうしよう」

 そして辰也は踵を返し、長屋に向かった。


「まさかあの子が盗みを働いていたなんて……」

 暗い道を歩きながら、ハナは話しかけてきた。周りに人はいない。

「これが蛇気の影響なのか?」

「そうだと思う……。話には聞いていたけど、本当に酷い」

「俺もいずれ悪徳に染まる日が来るだろう。その時は、俺のことを見限ってくれ」

「……ううん、大丈夫。私がいる限り、そんなことは絶対にならないし、させないから。それに私は、辰也がどんな風になっても、決して見限ったりしない」

「ハナ……」

「信じて、辰也。あなたが信じてくれるなら、私はどれだけだって力を出せるから」

 辰也はやがて、長屋の前に着いた。戸を開けて、中に入る。

 沙紀は眠ることなく、床板の上で正座をし、祈るような格好で待っていた。辰也の顔を一目見るなり、ぱっと顔を輝かせる。

「辰也様! ご無事でしたか! お怪我はありませんでしたか!?」

「大丈夫だ。彼らと話し合ってきた。君から借金を取り立てることはもうないだろう」

「え! それは、ほ、本当ですか?」

「ああ」

「ほ、本当に……。すごい……。辰也様は本当にすごいです」

「大したことはしていない」

「それでも、私にとって辰也様は本当にすごいお方です。一体、この御恩をどうお返しすれば……」

 その時、異変が起きた。

 一匹の黒い蛇がいつの間にか沙紀の足元にいるのである。辰也が部屋に入った時は確かに蛇はいなかった。その奇怪な登場をした蛇を見て、辰也は思わず戦慄した。

「なに、これ。あの蛇、蛇気の塊だ」

 ハナの慄く声が辰也の耳に入る。沙紀には聞こえていない。

「黒い……蛇」沙紀は蛇を見て呟く。「もしかしてジャジャ様の御使い……? そうか、辰也様の元に来たんですね」

 だが黒い蛇は、沙紀の足にまとわりつき、うねうねと上へと這い上がっていく。

「わ、私、ですか」

 沙紀は戸惑いながらも、払い除けようとも逃げようともしない。蛇は足を超え、腹を登っていく。

「あ、あ、これは、噂に聞きました。これが、祝福なのですね」

「よせ! 受け入れるな!」

 辰也は叫んだ。だが沙紀は聞いていない。彼女は蛇が胸の間を通っていくのを期待を込めた眼差しで見つめている。

「やめろ!」

 駆け寄ろうとする辰也。だが間に合わない。

 黒い蛇が沙紀の口の中に侵入する。それを沙紀は嬉々として受入れている。

「お、ご……お」

 苦しそうに呻く。蛇が体内へと入っていく度に身体が痙攣している。その実沙紀の表情は恍惚としていた。

「お、お、お」

 そして黒蛇は全て、沙紀の中に入ってしまった。

「ああ……ジャジャ様で満たされているのが……分かる……これが……祝ふ……」

 愕然とする辰也を全く気にすることなく沙紀が歓喜に打ち震えたかと思うや、目がぐるりと反転し白目を剥いた。

「ご、ご、ご……」

 沙紀の身体ががくがくと大きく痙攣し、目がさらに反転して現れた瞳を見た辰也は思わず驚く。その目は人間の目とは似ても似つかない。金色の光を放つ蛇のような瞳だったのである。

「シャアッ!」

 沙紀は奇声を発し、辰也に向けて鋭い眼光を放つ。強い威嚇に殺意。これを沙紀がぶつけてきているとは到底思えない。

「ハナ……これは……」

「……ごめんなさい。私のせいね。私が彼女を助けようって言ったから、そのせいで……」

 弱々しくハナは言う。それを辰也は、

「お前のせいではない」

 と一蹴した。

「でも」

「断じて違う!」

「……うん」

「それでハナ。俺は彼女を……」

 言い淀む辰也。彼の言葉の続きをハナが受け継ぐ。

「……辰也、彼女を殺してあげて」

「いいのか?」

「うん。私のことを気遣って、あの蛇活組を殺さなかったのは分かってる。でもね、辰也。彼女はもう殺すしかない。私なら大丈夫。あの島から出た時に覚悟を済ましているから」

「分かった。完膚なきまでに殺す。あのような小娘如きには俺たちを止められない。そう知らせるために、圧倒的な実力差で俺は殺す」

「お願い、辰也」

 そうして辰也は一歩を踏み出し、桜刀ハナを引き抜いた。

「彼女を殺してあげて」

 さらに一歩、辰也は踏み込む。右手に刀を持ち、だらりと下げている。そればかりか、全身から力も抜けていた。

「シャアアアアアアッ!」

 沙紀は辰也に向かって飛び跳ねた。拳を振り上げ、狙いは間違いなく辰也に絞られている。顔面に目掛けて小さな拳が凄まじい勢いのまま振り下ろされた。

 辰也は緩慢な動作でかわす。

 着地する沙紀。めきりと音を立てて床板がへし折れた。だが気にせずにすぐさま振り返り、さらなる攻撃を次々と仕掛けてくる。

 少女とは思えぬ猛攻だった。一撃一撃が致命を負わせる威力を持っている。それを辰也は後ろへ動きながら紙一重で回避する。

 辰也の背中が壁に当たった。木を張り合わせただけの隙間が多い簡素な壁だ。だがこれで辰也は後ろへ逃げることはできない。好機だとばかりに沙紀は拳を大きく振った。

 辰也は後ろへ行かない。そればかりか横にも動かない。焦った様子もない。ただそっと、音もなく、前へと出る。

 ゆるやかに、辰也の右手が下から上へと動く。薄紙一枚の差で頭部の横を恐るべき速度で通過する沙紀の拳。だが辰也は目もくれない。

 そして、刃が沙紀の喉元を刺し貫いた。あまりに自然な動作だった。沙紀も気づかぬほどの。

「桜花一刀流、枯れ木突き」

 冥土の土産だとでも言うような、己が使用した技を告げる辰也。全身を脱力した状態で放たれるこの刺突技は、最小の動作と最小の力で相手を確実に殺すための技だった。

 辰也はゆっくりと刀を引き抜いた。とても優しい手つきで、まるで相手に余計な苦痛を与えないようとしているみたいだった。

「シギャアアアッ!」

 血を吐き出しながら、沙紀は叫んだ。しかしその口から出てきたのは血だけではなかった。刀の形に穴が空いた蛇の頭が、にゅっと顔を出している。蛇はもはやそれ以上動く様子はなく、ぴくぴくと細い身体を震わせている。

 前方に倒れかかった沙紀の華奢な身体を辰也は左手で抱き留めた。そのまま片膝をつき丁寧に刀を床に置いた辰也は、右手で赤い血に塗れた蛇の頭をひっつかんだ。そうしてそのまま一挙に引き抜く。細長い蛇の体躯が沙紀の身体の中から全て引き出された。

「黒蛇ジャジャ……。祝福だと称して、こんな子も操るのね。絶対に許せない」

 ハナの声は悲しみと怒りを帯びている。

「ああ」

 沙紀を床に横たわらせた辰也は、懐紙でハナの刀身を拭い、納刀した。


 街の外に出た。小川のほとりに穴を掘り、死体となった沙紀を埋める。切り取った長屋の床板を突き刺し、辰也は手を合わせた。

「行くか」

「うん」

 辰也は進む。黒蛇が空を覆う暗い世界の地べたを。

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