蛇斬伝

うなじゅう

1 川井沙紀の運命 前編

 蛇歴千三十二年。


 夜の如く暗い昼である。

 寒々しい港町。暗黒の海は冷たく荒く、波止場に泊まっている帆船が揺れている。筋骨隆々の男たちはしかし、酒を呑み交わし一向に仕事をする気配がない。そのせいかどうか、近場に一人乗り用の小さな船が停泊していることに気付く者はいなかった。

 通りはガス灯の灯で照らされている。赤褐色の煉瓦が敷き詰められているが、所々でひび割れて薄汚れていた。近代的な木造建築が立ち並び、いずれも綺麗だとは言い難い。

 稀に見る通行人は暗い表情で、みな白い息を吐きながら足早に歩き去っていく。誰も彼もが辺りを警戒し、あるいは獲物を探すかのように鋭い視線を向けていた。

 そうした中、黒い短髪の少年がゆるりと歩いてくる。藍色の着流しを纏う彼は、腰に桜模様の鞘と柄の刀を挿していた。鍛え上げられた体格は大きく、険しい顔貌が周囲に緊張を強いている。強くまっすぐな目線は、強い目的すら感じさせ、並々ならぬ決意が見て取れた。

 少年はふと空を見上げた。一面の黒が隙間なく広がっている。

 よくよく見ればそれは雲ではなかった。黒々とした蛇の群れが隙間なく空を覆っているのだ。太陽の光はこの黒い蛇のせいで遮られていたのである。黒蛇は一定の流れに沿って蠢いていて、生き物であることを主張していた。

 あまりに異様で、おぞましい黒き蛇。見据える少年の目つきは憎々しい。だがやがて、

「こっちか」

 と、誰ともなく呟いた。同伴者はいない。周辺に人はいない。独り言であろう。しかし、

「うん、合ってると思う」

 少女の声がどこからともなく聞こえてきた。少年の側には、いや、視界に映る範囲内には誰にもいないにも関わらずにだ。

 少年は声を気にする様子もなく歩を進める。すると不意に、悲鳴が聞こえた。若い女の声だ。されどそれは無論、先ほどの少女の声とは違う声音。

 少年は眉をしかめて、ちょうど横にある筋道を見やる。暗い裏通りの先は見通せない。だが確かに悲鳴はこの先から聞こえた。

 少年は目線を前へと向き直す。一拍おいて無情にも足を前へと踏み出した。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 姿が見えぬ少女の声は焦っている。思わず少年は足を止めた。

「悲鳴聞こえたでしょ! 助けてあげてよ!」

 少年は息を吐く。ため息か、安堵の吐息か。だが少年は間違いなく、裏通りへと進み出た。

 ごみが錯乱し、鼠が走る。小汚い道のりだが少年の歩みに迷いはない。少女の悲鳴に混じり、男の野太い声が聞こえてくる。

 道の先に少女がいた。壁に背中を預けてしゃがみ込み、涙目になっているその顔は恐怖で歪んでいる。取り囲むは三人の男。いずれもしっかりした身体付きで、大きさで言えば少年よりも一回りは大きい。

「借りた金は返さないとな? 期限はとっくに過ぎてんだ。金がないってんなら、体で払ってもらうしか方法はないがな。俺たちとしては、そっちのほうが好都合、だがな」

 男たちのいやしい笑い声が通りの中で響く。少女は、ひっと小さく悲鳴をあげた。目から涙が流れている。

 少年はわざと足音を立てて近寄った。目論見通り、男たちは振り返って少年に注目する。

「なんだあ? ガキじゃねえか? 今取り込み中なんだ。あっちに行ってな」

 少年はただ真っ直ぐに彼らを見る。恐怖の色は見えない。それが気に入らないのか、男たちは嫌そうな表情を向けながらもはたと気付く。

「ああ? それとも何か? 仲間に加わりたいのか? 気持ちはわかるぜ。こんな上玉は滅多にお目にかかれないからなあ。やるのは勝手だが、俺たちの後にしな」

 少年はもごもごと口を動かして、何かをぺっと吐き出した。男の胴体に付着したそれは唾液である。男たちはたちまち剣呑な顔つきとなった。少女は呆然と事の成り行きを見つめている。

「殺す!」

 唾を吐かれた男は激昂した。懐から短刀を抜き出し、少年に襲いかかる。だが少年は涼しい顔だ。

 素手で短刀を持った手を払いのけ、そのまま懐に入るやいなや、肘を相手の鳩尾に突き刺す。

「ぐうっ」

 うめく男の顔面に、今度は掌底が叩き込まれた。鼻血を吹き出しながらうずくまる男から短刀を奪い取る。

 そして少年は残り二人に接近。そのあまりの早さに加え、早々にやられた仲間に驚いた二人は反応ができていない。左手にいる男に前蹴りで金的を打ち据えて、流れるような動作で右手にいる男の首元に短刀を突きつけた。

 首皮一枚の所で刃先が接している。あとほんの少しでも力が加われば、いとも簡単に首が掻き切れるであろう。男の喉が生唾を飲んで動いた。

「二人を連れて去れ」

 ぞっとするような冷たい声音で少年は言った。男は冷や汗をかきながら、慌てて仲間をひっぱって逃げていく。

 何が起きたのかわからない。そんな風に少年を見つめる少女を観察する。汚い格好だ。だが男たちが言っていたように容姿は整っている。特筆することは他になく、見たところ外傷はないようである。

 少年は何も言わずに踵を返す。もう用は済んだ。あとは勝手にしろ。そう言っているような態度。

「ま、待って! 待って下さい!」

 無視しようかと少年は思ったが、腰から無言の圧力を感じて立ち止まる。

「お礼! お礼をさせてください!」

 必死に懇願する少女の声はどこか切羽詰まっている。

「礼ならいらない」

 さらなる圧力を感じたが今度こそ少年は無視。だがここで少年の腹が情けない泣き声を発した。

「……私の家は、この近くなんです。食事を用意しますから、どうかいらしてください」

 断る理由は、見つからなかった。


 少女の案内で向かった先は、どぶ川沿いに連なる長屋の一室であった。二人は中に入る。粗末な作りで隙間風が多い。土間の釜戸と部屋の片隅に畳まれた所々破れた布団と座布団、それからちっぽけでいかにも安価そうな机が一つだけ置かれている。

「どうぞお上がりください」

 少女に促されて、少年は草鞋を脱いで床板に足を乗せる。体重をかけるとぎしりと軋みを上げた。

 てきぱきと少女は動き、つぎはぎだらけの薄い座布団を一枚敷く。座布団はこの一枚しかないらしく、少女は少年に「ここにお座りください」と言い、座るのを見届けてから躊躇なく硬い床の上で正座した。

「申し遅れました。私は川井沙紀と申します。この度は助けて頂いて重ね重ねありがとうございます」

 沙紀は深々と腰を折り曲げ、四つ指をついて礼をした。

「……頭を上げてくれ。俺は、剣宮辰也。助けたのはたまたま通りすがっただけのこと。大したことではない」

「剣宮様! そんなことはありません! 私は生まれてこの方、見ず知らぬ他人を助けた話など聞いたことも見たこともありません!」

「……そういうものなのか」

「はい……あ、すみません、たびたび失念いたしておりました。今すぐお食事の準備をしてまいります」

 そう言って沙紀は、ぱたぱたと駆け出して土間に向かい、手慣れた様子で食事の準備をし始めた。その姿をなんともなしに辰也は見つめる。

「綺麗な子。おまけに素直でとてもいい子」

 また、どこからともなく少女の声が話しかけてきた。小さな声だ。沙紀には聞こえてないようである。しかし辰也は無視を決め込んでいた。

「ああ言う子、好きでしょ?」

 声の主は、そんな辰也の態度を気にする様子もなく、悪戯っぽい調子で続ける。

「何か訳ありみたいだよね? 助けてあげたいって、思ってるでしょ?」

 辰也は無視を続けている。表情は何も変わっていない。

「剣宮様、お待たせしました!」

 沙紀の溌剌な声が、奇妙な少女の声を掻き消した。沙紀はお盆の上に茶碗と湯飲みを一つずつだけ乗せて、辰也の前に配膳する。

「粗末なものしか出せなくて、お恥ずかしい限りですが……どうぞお召し上がりください」

 茶碗の中には粥が入っているだけだった。

「……君の分は?」

「私なら少し前にもう食べておりまして、実はお腹いっぱいなんです。ですので、どうかお気になさらずにお召し上がりください」

「……いただきます」

 辰也は用意された箸を手にして、粥をさらりと口に入れる。

「お口にあいませんでしたか?」

 心配そうな沙紀の声。

「……いいや。ちょうど良い塩加減だ。おいしい」

「よかった」

 心の底から安堵したような顔を沙紀は浮かべた。それから辰也が食べている姿を、嬉しそうに眺めている。

「ご馳走様」

 食べ終えた辰也は箸を置いた。ちょうどその時である。

「ねえ、沙紀ちゃん。悩んでいることがあるんでしょう?」

 と少女の声が聞こえてきたのだ。

 これには辰也であっても驚きを隠せなかったのだから、沙紀ならば尚更である。きょろきょろと見渡して声の主を探したが、目の前にいる辰也以外に人はいない。

「え、え? 今のって……」

 困惑する沙紀に対して、辰也は困った顔をしながら腰に差している刀に手を伸ばした。さらに驚く沙紀。殺されると思ったのであろう。顔が青ざめている。

 しかし辰也は、「すまない」と言って、刀を鞘ごと目の前の床に置いた。

「今のは、こいつだ」

 目を白黒させる沙紀。

「ちょっと、こいつって何よ」

 さらに目を大きく見開いて、沙紀は刀を凝視した。今のは間違いなくこの刀から声が聞こえてきたからだ。

 辰也は刀を拳骨でごつんと軽く叩いた。

「あいた!」

 と刀は主張する。

「いや、お前は刀だろ」

「そうだけど、そうじゃないの。気分的に痛いのよ」

「あ、あの、その刀が、喋っているんですよね?」

 正気を取り戻したのか、沙紀はそう尋ねてきた。

「ああ、驚かせてすまない」

「ごめんねー。辰也は気が利かなくて」

「お前が突然喋るからだろ」

 ごつん、とまたしても辰也は拳骨を落とす。

「あいた!」

 沙紀はどう反応していいのか分からず、戸惑っている様子である。

「度々すまない」

「……いえ」

「この刀の銘は、桜刀ハナ。もうお分かりだろうが、喋る刀だ」

「その、喋る刀があるなんて、知りませんでした」

「驚くのも無理はない。おそらくこの世に一振りだけの代物だからな」

「そうなのよ! 私はとても貴重!」

「肥え溜めに突き刺すぞ?」

「ごめんなさい」

 沙紀は辰也とハナを交互に見る。その眼差しはまるで手に入らない宝物を見つめているようだった。

「剣宮様は、この刀を手にしてからきっと長いんでしょうね」

「いや……」と、辰也は遠い目をして言う。「この刀を手にしたのは元服をした時だから、三ヶ月ぐらい前だな」

「そうなのですか?」沙紀は驚きを隠さずに言う。「ずいぶんと仲が良さそうに見えましたので、ついそう思ってしまいました。相性がとても良いのですね」

「相性か……。そうだな、そうなのかもしれない」

「はい。きっとそうです」

 沙紀は微笑みを浮かべた。

 ハナは沈黙を守ったままだ。

「剣宮様はどこに行かれる途中だったのですか?」

「……旅の途中だ。目的地は特に決めていない。気の赴くまま足を進めている」

「旅ですか……。羨ましいです。私もいつかしてみたいです」

「すればいい」

「しかし……見ての通り私は旅支度を整えるほどのお金すらない身の上。旅など夢のまた夢です」

「それなら辰也もお金はあんまりないのよ」

「え? 本当なんですか?」

「事実だ。だから食事を提供してもらえたこと、本当に嬉しかった。改めて礼を言う。ありがとう」

「そんな。私はただ助けて頂いたお礼をしただけで。大したことは」

「それでも君は、貧乏でありながら俺に貴重なお米を分け与えてくれた。十分大したことだと思う」

 沙紀の頬がほんのりと赤らんでいる。

「……それでね、沙紀ちゃん」

 やけに神妙な声でハナは言う。

「はい」

「悩み事があるんじゃないかな?」

「……いえ、悩みなどありません」

「借金があるんじゃないかな?」

「……恩人にこれ以上ご迷惑をおかけられませんから」

「否定しないってことは、やっぱりあるんだね。それでさっきの男たちは、借金の取り立てに来たと。私たち、力になれないかな? 詳しく話してくれない?」

「それは……しかし」

 言い淀む沙紀。目線は床に伸びている。

「……実は俺たち、この町に泊まろうと思っている」

 辰也は唐突にそんなことを言ってきた。

「え?」

「それで泊まるところを探しているんだが、さっきも言った通り金はなくてね。不躾なお願いで悪いが、ここに泊めてくれないか?」

「それは……構いませんが……」

「ありがとう」

「いえ……」

「少し外の空気を吸ってくる」

「それなら私も」

「一人でいい」

 そう言って辰也は、目の前の刀を掴みとり、そのまま長屋から外に出る。

 黒々とした空を一度見上げ、それからどぶ川沿いにしばし歩く。誰もいないことを確認した辰也は、柳の木の下で立ち止まった。

「泊まってどうする気なの? まさかいやらしいことをする気なの! ああ、私は何もできないまま、目の前で寝取られるのね。そして脳が壊されるの。脳ないけど」

 途端、ハナは話し始めた。

「誰ともする気はない」

「それは嬉しいけど、複雑な気分よ。だって私は」

「言うな」

「……ごめん。……それで本当にどうする気なの? 辰也のことだから何か意図があるんでしょうけど」

「あの手の輩は、おそらくどこかの組織の末端だろう。俺が一度追い払ったところで意味はない。また来るのは間違いない」

「だから泊まり込んで守ってあげようと思ってるのね」

「……俺としては、旅を急ぎたいのだが……」

「この星は明日滅びない。だけどあの子は、明日死ぬかもしれない。いえ、さすがに死ぬことはないと思うけど、でもきっと死ぬことと同じぐらいの悲劇が待ち受けているでしょう」

 辰也は何も言わず、黒く淀んだどぶ川が流れていくのを見つめている。

「どれだけ非情な振りをしようとも、あなたは目の前で困っている人を助けたいと思ってる。優しい本質は、変えることなんてできないのよ。……お願いだから、自分の心に嘘を吐かないで……」

「善処する」

 すげなく言い、辰也は長屋に戻った。


 その晩、来訪者があった。

 五人の強面の男たち。いかにもな風体で全員が刀を帯びている。

「お前がそうか。うちの組の者が世話になったようだな」

 その中でも最も風格のある初老の男は、辰也に凄んで見せた。

「我々は蛇活組。この近辺を仕切る者だ。このままでは他の者に示しがつかない。分かるだろう? 少し付き合ってもらうぞ」

 沙紀は怯えた様子で辰也の背中を見ている。だが辰也自身は意に介した様子がない。

「そうか」

 と、何の気負いもなく頷いた辰也は、あっさりと外に出た。

 彼の背中を中から見送ることしかできなかった沙紀は、全身がかたかたと震えて止まらない。そのまま膝から崩れ折れ、ぺたりと地面にお尻をつけた。動くことすらままならず、ただ外の暗闇を見つめている。

「……そんな」

 かろうじて出てきた言葉は、絶望の色に染まっていた。

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