4 桜刀ハナ 二
常世桜の根本には桃源島で最も大きな神社がある。桜神社と呼称されるその神社は、察しの通り常世桜を祀っている。建材は常世桜の太い枝木を用いられ、神代の時代より変わらぬ姿でそこにあったと伝えられてきた。
「しかし今やその伝説も揺らいでいます」
神主の桜木正造は、本殿にて語る。聞いているのは、辰也と花奈の二人。
花奈は巫女装束姿だ。桜の模様が入った千早を白い小袖の上に羽織り、薄紅色の袴を履いている。
「黒蛇ジャジャ。神代の時代に封印されたとされるジャジャが復活し、この星は支配されてしまいました。常世桜様の神気の御力によって桃源島は守られていますが、島以外は一日中夜のように暗いと聞きます。けれども、この島もまた危機に晒されております。御存知の通り空を覆う蛇が常世桜様の結界を少しずつ侵食しているのです。この島が蛇に支配されてしまうのも時間の問題でしょう。そうなる前にジャジャを討たなければなりません」
「なぜジャジャは空を蛇で覆うとしているのでしょうか?」
と辰也は聞いた。
「良い質問です。ジャジャが持つ蛇気は陰気の一種です。陰気は陽気の塊である太陽を嫌う特性があり、蛇気もまたその例に漏れません。そのためジャジャは空から太陽を隠す必要があったのです。この島を侵食しようとしているのもその理由からですが、他にもあります。それは常世桜様が持つ今やこの星で唯一であろう神気を消し去るために違いないでしょう。何しろ神気こそが、ジャジャを駆逐する唯一の切り札となるからです」
桜木は周囲を見やった。花奈と同じ巫女装束を着た少女達が壁に沿って並んでいる。その中の一人は、桜木に向かって頷いた。
「……そろそろ儀式の時間です。行きましょうか」
「本当に私も見学をしてもよろしいのですか?」
辰也は横目で花奈を見つつ尋ねると、桜木は肯首した。
「もちろんです。むしろあなたには是非とも見ていてもらいたいのです。これからのためにも」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ、お気になさらずに」
そうして彼らは本殿の奥へと進むと、観音開きの大きな扉があった。それを二人の巫女がほぼ同時に開く。扉の先にあるのは、儀式のための舞台と常世桜の巨大な幹である。大人が十数人ほど並んでようやく直径と同じぐらいと言う巨大さを誇り、そこにはしめ縄が巻かれていた。
辰也は邪魔にならない下手の端に座り、その時を待った。
巫女達は舞台の端に沿って取り囲み、打楽器や笛などを手にして座している。けれど彼女たちの中に花奈はいない。
張り詰めた糸のように緊張した静寂で舞台は満たされている。桜木は常世桜の前へと出ると、朗々と祝詞を読み上げた。
口上が終わると、次に桜木は舞台の脇に移動する。
それからほんの少しの間が空いて、太鼓が鳴り始める。一拍は長く、音は控えめ。
花奈が下手から、拍子に合わせて一歩一歩進んでくる。化粧を施されて一層美しくなった顔立ち。桜の花を模したかんざしが艶やかな黒髪を引き立てている。すり足のような優美な歩法は少しも乱れたところがない。繊細な手は神楽鈴を柔らかく握っている。細身の身体とよく似合う巫女の衣装と相まって、どこか神秘的な美しさすら感じさせ、辰也は花奈にたちまち魅了された。
花奈は中央まで進むと凛と立ち止まった。
太鼓の音が徐々に強くなり、拍子も早くなる。
花奈は強く地面を踏んだ。大きな足音がこだまする。同時に可憐な笛の音が聞こえてきた。その後を追うように他の楽器も奏で始める。
花奈は舞を舞う。手を振るたびに神楽鈴は、しゃらん、しゃらんと涼やかな音を鳴らし、踏み締める音が響き渡った。指の先にまで気を使った舞は、時に緩やかに、時に激しくなり、見る者の心を鷲掴む。それはきっと、神ですら例外ではないのだろう。
その美しく、幻想的な光景に、辰也は目を逸らすことができない。あらゆる一瞬を、花奈が舞う全ての姿を、目に焼き尽くそうとしているかのようだった。
全ての楽器の音色が激しくなっていく。それに伴い、花奈の舞も最高潮に向かって動きが大きくなる。飛び跳ね、廻り、踏み締め、そして、舞が終わった。
一瞬にして、静寂が戻る。誰も彼もが身動き一つ取らない。
その時、であった。
遥か上の方から、桜色に輝く何かが舞い落ちてきた。花奈は両手を差し出した。何かは花奈の両手の中に収まった。それは常世桜の枝木であった。
花奈は常世桜に向かって恭しく礼をする。
彼女達が行った儀式。それは常世桜からたった一本の枝木を分けて貰うために行われたのである。
神社の境内で辰也が待っていると、砂利を踏み締める連続した軽い足音が聞こえてきた。
「辰也お兄ちゃーん!」
足音の主は元気な声を上げた。振り返る辰也の目に映ったのは、空色の小袖を着た少女だった。
「花絵か」
彼女の名前は神楽崎花絵。花奈の妹である。
「うん! 会いたかった、お兄ちゃん!」
と言って、花絵は辰也に抱きついてきた。それを辰也は両手で受け止めつつ、やんわりとした笑みを浮かべる。
「元気してたか?」
「元気だよー」
花絵はけらけらと笑う。
その後ろから余裕のある足取りで歩いて来たのは花奈だ。
「こら! 抱きつかないの! はしたない」
花奈は花絵の首を猫を掴むみたいに捕まえて無理やり引き剥がした。むー、と花絵は膨れて見せる。
「嫉妬してるねーお姉ちゃん」
「そうじゃない! 全くこの子は」
小言を言う花奈に、花絵はどこ吹く風だ。
「ねーお兄ちゃん。儀式はどうだった?」
花絵のその言葉に、思わず花奈は辰也を見た。
「ああ」と少し間を置いて「とても、綺麗だったよ、花奈」
と辰也は真顔で言った。そのあまりに正直な賛辞に花奈の顔面がぼっと赤くなる。
「あーお姉ちゃん赤くなったー」
「うるさい!」
「お兄ちゃん、花絵はどうだった?」
「笛、とても上手になったな」
「ありがとう。でもそれだけ?」
「それに、花絵も綺麗だったよ」
「えへへー嬉しいなあ」
花絵はとろけるような笑顔を浮かべる。
「もうすぐ逢魔時だ。蛇の力が強くなる。家に帰るぞ」
それから辰也は二人を神楽崎家まで送り届けて、自身も家に帰宅した。
夕食の時間。剣宮家では家族全員で食べる。隻腕の年老いた男、祖父の克也は、片手で黙々と食べていた。父の信也も、長男の敬也も、三男の哲也も、母の景子も黙って食べている。そんな家族の風景を、同じく一言も喋らずに魚の切り身をつまみながら盗み見る次男の辰也。
「辰也よ」
不意に克也が呼んだ。
「はい」
と辰也は面を上げる。
「神楽崎の爺に話を聞いたのだな?」
「……はい」
「あやつは代々巫女を数多く輩出して来た一族の直系のくせに、己の腕だけで当時の討伐隊に選ばれた剛の者よ。そのような強者たちで編成された討伐隊は、当時島で考えうる最大の戦力であった。しかし、知っての通り儂等は敗れた。完膚なきまでにな」
重い言葉が響く。皆の箸が止まった。全員が息を呑み、克也の話に耳を傾ける。
「最大の敗因は奴らが扱う蛇気。儂等はそれに対抗する術を持っていなかったところにある。だが今回は違う。全てあの娘のおかげ。分かるな、辰也。お前はただ一人でそれに応えなければならんのだ」
克也は辰也を見た。強い視線だった。
「重々承知しております」辰也は視線を真っ向から受け止めて、大きく頷いた。「私は使命を果たすまでこの地に戻らぬことを誓います。この命に代えてでも、蛇を討ち果たせてみせましょう」
「それでこそ剣宮家の男よ」
克也は口角を上げた。
夕飯を終えて、辰也は自室に戻った。読みかけの本を開き、続きを読み耽る。
戸を叩く音が聞こえてきた。
「辰也様、入ってもよろしいでしょうか」
母の景子だ。辰也は承諾した。
景子は襖を開き、中に入って来た。気後れしているのか、景子は立ったまま動かない。
「何か?」
と促して、ようやく彼女は口を開く。
「先ほどのお爺さまの言葉、どうかお気になさらないでください」
「どうしてでしょうか?」
「あの人は自分たちの手で使命を果たせなかったことをとても悔やんでおります。そのため自ら果たせなかった使命を、孫であるあなたに押し付けてしまっていることに忸怩たる思いを抱いていることでしょう」
「そうなのでしょうか」
「そうに決まっています。むしろ自らを恨んで欲しいとさえ感じていることでしょう。そのため、悪役を買って出ているのです。しかし、本心は違います」
「本心……」
「あの人は、辰也様に生きて帰って来て欲しいと願っています。いえ、あの人だけではありません。お父様もあなたの兄弟も皆、帰って欲しいと。もちろん、この母も」
景子の目から、涙がぽろりと落ちた。
「母上。……私は」
「命に代えても。そうあなたはおっしゃいましたね。それを聞いて私は、とても悲しくなりました。自分の命を犠牲にする必要は全くないのです。生きる希望は決して無くしてはいけません。いいですね」
「しかし」
「約束です。必ず生きて帰ってくるように。それが、あの子の想いでもありましょう」
「……分かりました。どのように過酷であっても、私はここに必ず帰って来ます」
「よろしい」と景子は微笑する。「約束ですよ」
「はい、母上。約束です」
翌日の朝。いつものように道場に行くと、いつになく真剣な面持ちの師範の藤堂が待ち構えていた。藤堂は辰也の後ろにいる花奈を見るや、
「すまないが、辰也を借りるぞ」
と、言った。怪訝に思いつつも、花奈は承諾する。
藤堂と辰也が向かった先は近くにある竹林だった。中に分け入り、しばし進むと竹に囲まれた原っぱがある。二人は中央にて向かい合った。
「桜花一刀流奥義、桜吹雪」と言って、藤堂は腰に差していた木刀を抜く。「今日はそれの伝授を行う。お前も抜け」
言われるがまま木刀を抜き、構える辰也。
「剣宮家のお前のことだ。概要は知っていよう」
辰也は頷いて答える。
「俺は今からお前に桜吹雪を放つ。お前も同じ桜吹雪で対抗せねば、この技は封じられぬ。やってみせよ」
「……もし、防げなければ?」
「運が良ければ重傷で済むだろう。だが大抵の場合、死ぬ。お前の祖父克也殿にはすでに許可をもらっている。思う存分やれ、とのことだ。これを扱えぬ者に役目を果たせるとは思うな」
「分かりました。この剣宮辰也、見事師範のご期待に応えて見せます」
「良い答えだ」
瞬間、空気が冷えた。藤堂の冷え冷えした殺気が解き放たれて、周囲一帯を支配したのである。竹林に住む虫達や獣達が怯え、息を潜め、気配を殺し、物音一つ消え去った。
不気味なほどの完璧な静寂。
辰也の頰を冷や汗が流れる。藤堂の本気を実感し、空恐ろしくなる。思わず気圧されそうな心を強く保ち、ひたすらに耐える。
藤堂は動かない。一秒一秒が、その何十倍にでも引き伸ばされたかのように感じるほど長く過ぎ去っていく。じりじりした感覚が辰也を突き動かそうとする。だが動いた瞬間、藤堂の木刀が辰也の急所に致命的な一撃を与えるだろう。辰也は辛うじて足を踏み止ませた。
そして、藤堂はまだ動かない。
まだ。
まだ。
まだ。
刹那、藤堂の木刀が迫る。反射的に受けた辰也は驚愕する。目にも止まらぬ速さで次の一撃が来た。防御するも藤堂は次々攻撃を繰り出す。面、胴、逆胴、袈裟懸け。あらゆる方向からの斬撃。その手数は十を超え、百近くに迫る。しかも一撃一撃が必殺の速度と威力を持つ。圧倒的な連撃、これこそが奥義桜吹雪。
かろうじて辰也は受け止め続けている。しかし長くは持たない。このままでは擂り身にされる。受けながら辰也は全身に気を巡らせる。呼吸を止める。藤堂の桜吹雪を防ぐには、彼の言う通りここで桜吹雪を放つ他にない。
意を決し辰也も桜吹雪を発動させる。防御から転じ連撃を放つ。だが速度も威力もまだ藤堂の方が上。押される。辰也は苦しそうに顔を歪ませ、さらに気を練り込んだ。辰也の剣撃の速度と威力が上がる。やがて藤堂と互角となる。辰也は藤堂の木刀に合わせ続ける。ほんの一拍子ずれただけで互いに致命的な一撃が入るだろう。それほど凄まじき圧力がぶつかりあった。
周囲の竹林は剣圧を受けてなびき、音が強く響く。それは道場にも届き、外で辰也を待っていた花奈にまで来た。ぴりぴりした痺れを頬に感じた彼女は、その方向へと顔を向ける。何かが起きている。そう確信させるのを助けるように、木刀と木刀がぶつかり合う景気の良い音が耳に入る。
「……がんばれ、辰也」
祈るように花奈は呟く。真剣な面持ちの彼女は、その先にいるであろう辰也が無事なのを疑っていなかった。
大きく鈍い音とともに、辰也と藤堂の木刀が折れた。常世桜を除いて島一番の木材を削って作られた木刀も、桜吹雪の衝撃に耐えられなかったのである。
木刀とともに緊張が解かれ、二人して激しく呼吸を再開させた。共に多量の汗をかいている。
「よく、やったな。辰也」
息も絶え絶えに、藤堂は称賛した。
「ありがとう、ございます」
「これでお前に教えられることはもうない。免許皆伝だ」
「そんな。私などまだまだ未熟で」
「そう謙遜するな。剣宮家の錬気法を併用すれば俺ですら敵わないだろう」
「錬気法は兄にこそ本当の才能があります。私にはとてもそこまでは」
「だがその兄に、お前ほどの剣の才はない」
藤堂は真剣な眼差しを向けて続ける。
「それにな、辰也。私はお前を本気で倒すつもりで桜吹雪を放った。だがお前は全て防ぎ切ってしまった」
「それは、そういう稽古なのですから当然なのでは?」
「少し違う。私はお前を徹底的に叩き潰し、戦えぬ体にしたかったのだ。そうすればお前は使命に不適格だと言うことができる。そして使命はお前達の代わりに私が赴くつもりであった」
「師範……」
「目論見は外れたが、な。まさかあんなにも早く気を練り上げて全身に巡らせられるとは思わなかったぞ。さすがは剣宮家と言ったところか。お前はやはり強い。俺の目に狂いはなかった。無論外れて欲しかったのが本音だが、考えれば考えるほどお前ほど使命に適格な者もいないのも事実」
「実のところ、私としてはなぜ選ばれたのか自分でもよく分からないのですが」
「剣の実力に加えて錬気法の腕も島内屈指。加えて、お前も知っているように、歴代の巫女達の中でも最も強い神気を持っている花奈との相性も良い。総合的に言えば、お前が島内で一番優れていると言っても過言ではない」
「褒め過ぎですよ。私はそこまでの人間ではありません」
「ふ。一つ、欠点があったな。己を過小評価し過ぎるところだ。……さて、そろそろ道場に戻ろうか。遅くなり過ぎると花奈に怒られてしまうからな」
「はい。ですが、花奈はその程度のことでは怒りませんよ」
「それは……まあ、いいか。行くぞ」
「はい」
竹林を歩いていく。桜吹雪を使った負担はあまりに大きく、二人の足取りは重い。
「……言い忘れたことがある」
と、藤堂は歩きながら言う。
「はい」
「桜吹雪はあれで未完成なのは知っていよう?」
「はい」
「だが、決して完成させてはならぬ。いいな? これは師範としての命令だ。決して、破るな」
「……分かりました。私は、桜吹雪を完成させません」
「その言葉、忘れるなよ」
「はい」
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