第五話 氷の魔女アリシア


 ソルは頭より先に体を動かすタイプだ。

 なので、彼は呪いに関する緻密な調査より、まず本人に会うことを優先した。


 つまり、元狩人のダンを連れてまっすぐに嵐へと向かったのだ。


「なあ、ダン! 今までこの嵐に入った人間は居るのか?」

「いや。皆無だ」


 二人の目前で、境界のくっきりした嵐が吹き荒れている。

 雪の飛沫が外に飛んでくることはない。明らかに、何かの魔法だった。


「言っておくが。氷の魔女が悪意を持った人間ならば、これは危険な試みだ」

「分かってるよ! でも、きっと大丈夫だ!」

「どこから自信が湧いてくるのか知りたいものだ」


 二人は魔物の毛皮から作られた防寒具を点検し、布で口を覆った。

 真っ白い吹雪の中に踏み込み、すぐに後ずさりして外へと戻る。

 迷わせるたぐいの魔法が掛かっていないかどうか確かめるためだ。


「方位磁石は」

「ちゃんと動いてた! 心配ない!」


 そこに悪意がないことを確認し、改めて二人は進む。

 荒れ狂う吹雪の銀幕に入ったとたん、ごう、と強風が吹き付ける。

 ソルの眉毛が瞬時に凍りつき、厚い手袋の上に雪がびっしりと張り付いた。

 針のように鋭い冷気が、わずかな肌の露出部分を突き刺す。


「なんて寒さだ……!」


 ざらざらと吹き付ける雪が、やすりのように体と精神を削っていく。

 経験したこともないような極限の環境だった。


「寒さ? まだ暖かい部類だ」

「嘘だろ!? これで……!?」

「振り向くな。磁石を見て、まっすぐ進め」


 アドバイスに従い、ソルは必死に道がズレないよう直進した。

 魔女は嵐の中心に住んでいる。そこから少しでもズレれば無駄足だ。

 だが、防寒具で膨れた体は風で煽られ、進路を維持するのも楽ではない。

 必死に抗っていなければ立っていることもできなかった。


「……まだまだっ! 負けるかっ!」

「元気だな」


 一歩一歩に苦労しているソルの横を、ダンは飄々と歩いていた。

 雪を踏みしめる音すらしない。熟練した歩法であった。


「待て。聞こえたか?」

「え? 何がだ?」

「鳴き声だ。獣ではない……魔物がいる。近い」


 二人は立ち止まった。動くのをやめたことで、急速に体が冷えていく。

 聞こえるのは嵐の風音ばかり。ソルは目を凝らしたが、何も見えはしない。

 周囲は荒れ狂う吹雪に覆われて、自分の足すらおぼろげにしか見えないほどだ。


(いや……魔力を辿れば)


 ソルは目を閉じて、第六の感覚へと神経を集中させる。

 吹雪に含まれる多量の魔力をかきわけて、異物を探す。


「九匹。左と正面と右に、三匹づつ」

「わかるのか。この吹雪の中で」

「魔力を辿れた」


 ……この吹雪は、魔女の生み出している嵐だ。

 魔力の気配は多い。

 この中で魔物の気配を辿るなど、干し草に紛れた針を探すようなものだ。

 それを実現させるソル・パインズの技量は、並大抵のものではなかった。


「了解。左を任せる」


 ダンが逆手に短剣を握り、音もなく吹雪の中に消えた。

 ソルはその場から動かず、魔力探知で狙いを定め、炎を放つ。


「〈ファイアボール〉!」


 初歩的な炎球が三連続で放たれ、断続的に爆発する。

 魔法の影響で一気に入り乱れる魔力の中から、彼は魔物を正確に探知し続けた。


(打ち漏らしたのは一匹!)


 手のひらを残る一匹に向けたところで、彼は慌てて射撃を止めた。

 彼が撃つまでもなく終わっている。


「トドメは刺した。行くぞ」


 右に消えたはずのダンは、どういうわけか左から現れた。

 並外れた機動力だ。魔力で身体を強化しているのだろう。

 にしても人外と言うほかない速さである。


「凄腕だな、おっさん! 帝国の騎士にだって負けてないんじゃないか!?」

「いや。それなり程度だ」


 凄腕の狩人は、返り血一つないナイフを懐へと戻した。


「だが、ずこーっ、とならない程度の腕ではある。凄腕だけに」

「……ええと」


 雪に煙る狩人は、何かを期待したような目でソルを見つめている。


「……もし帝国と争っても、すごすご引き下がらず戦えるぐらいの腕だ!」

「……!」


 ダンは無言でサムズアップした。


(絆が深まったのを感じる……。これが戦友ってやつか……!)


 ソルも白い歯を輝かせてサムズアップを返した。

 ツッコミ役が存在しない二人だけの世界であった。


「しかし。魔物が多すぎる」

「ああ……まだいるみたいだ。大して広いわけでもないのに」


 二人は磁石で方向を確認し、魔物を避けながら進んでいく。

 すぐに嵐を突き抜けた。

 分厚い雪煙に覆われた台風の目の中に、ぽつんと木の一軒家がある。

 村のテントじみた小屋に比べてずっと上等だ。


「気をつけろ。何があるか……」

「すいませーん!」


 ソルは躊躇せずにドアをノックする。


「えっ!? 嘘!? 来客っ!?」


 家の中からどたどたゴミを片付ける物音がした。

 むむ、とダンが息を漏らす。


「……待たせたわね。何の用かしら?」


 まるで氷の彫刻のような美人が、二人を出迎える。

 色白の肌と、あまり肉のない体つき。氷を思わせるような透き通った髪色。

 整った顔に、何事にも感心を失ってしまったかのような冷たい瞳が嵌っている。


「ダン? 私を殺しにでも来たの? 今更ね」

「違う。こいつの付き添いだ」

「誰?」

「俺はソル・パインズ! 炎の魔法使いだ!」

「……暑っ苦しい男ね。私はアリシア・グレイスよ。ところで、あなた」


 氷の魔女が首を傾げる。


「学園の入学式に遅刻してなかった?」

「どうしてそれを」

「目立つ後輩の顔ぐらい覚えてるわよ」

「え、先輩なのか!?」


 ソルは記憶を掘り起こした。


「あー! 反皇帝の学生運動家! そういや、よく中庭で演説してたな!」

「……忘れて」


 アリシアは苦虫を噛み潰したような顔になった。


「馬鹿な学生の、無意味な自己満足だった」

「そんなこと言うなよ!? 俺の学年にも、あんたのこと尊敬してる奴はいた!」

「くだらない昔話をする気はないわ」


 彼女はドアに手をかけた。


「何の用?」

「話が聞きたいんだ。村を追い出された時、本当は何があったのか」

「聞いてどうするつもり?」

「”氷の魔女”の冤罪を晴らす」

「必要ないわ」


 アリシアが勢いよくドアを閉じる。


「いいのよ、もう。そういうのは。……あなたもきっと、何かが変えられるだなんて思い込んで必死にあがいた挙げ句、何も出来ないまま追放されたんでしょう?」


 扉ごしに聞こえてくるのは、絶望に打ちひしがれた人間の声だった。


「……そ、それは……」

「ねえ、放っておいてくれないかしら」


 周囲の気温が急激に冷え込んでいく。


(これは……魔法じゃない。俺と同じような〈加護〉の力が暴走してる!)


 極寒の世界がソルの力を弱めているのと逆に、この寒さが彼女に力を与えている。おそらく意図しない形で。あの嵐でさえ、わざとやったことなのかどうか。


「疲れたのよ。もう、他人のことなんてどうでもいい。一人にして……」

「嘘だ!」


 ソルは叫んだ。


「本当にどうでもいいと思ってるなら、俺達と話すこともしなかっただろ!? それに、まだ村の近くに住んでるじゃないか!」

「……黙りなさいよ! さっさと帰って!」

「断る! お前が正直になるまで、俺はずっとここに居座ってやるからな!」


 ソルはドアの前に座り込んだ。


「なあ、自分の気持ちにだけは嘘をつくなよ! 自分の本心を嘘で塗りつぶしたって、楽になんかならない! それは自分が一番分かってるだろ!?」

「いきなり何なのよ!? 何も知らないくせに! あんたみたいな暑っ苦しいバカ、大っ嫌いだわ!」


 ……家の周囲を取り巻く嵐が、徐々に迫ってくる。

 やがて台風の目が消えて、ソルたちは吹雪の中に取り残された。


「……なあ。確かに、あんたの言ってたことは正しいかもしれない。俺は何も出来ないまま追放されたかもしれない」


 ソルは自らの過去を語った。

 賢者に任命されて、冤罪で追放されたことを。


「放っておけないんだ。他人事だとは思えないんだよ。俺だって……俺だって傷ついた! 何もかも嫌になったよ! でも、親友に励ましてもらったから、何とか立ち直ってここにいるんだ!」


 返事はない。


「気持ちは分かるよ、アリシア! 本当に分かる! だけど!」

「ソル。ここまでだ」


 彼の肩をダンが掴み、強引に家から引き剥がした。

 全身が真っ白く染まっている。

 呼気に含まれる水分が瞬時に凍っているせいで、顔面に霜のような氷がびっしりと張り付いていた。

 瞳の表面ですら凍ってしまい、力を入れなければまばたきすら不可能なほどだ。


「やめてくれ! きっと、説得が成功すれば家の中に入れてくれるはずだ!」

「仲間でもない相手に、自らの命を預けてどうする」


 ダンはソルの両肩を掴んで言った。


「自分の命は自分で守れ。できなければ、死ぬ。寒さを甘く見るな」

「……畜生。分かったよ……」


 二人は吹雪の中に消えていく。


 ……その姿が見えなくなったころ、ゆっくりと家のドアが開いた。

 口元をきつく結んだアリシアは、吹き付ける雪にも構わず、吹雪の奥を見つめて立ち尽くしていた。


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