第266話 続・やることのない浮遊城 01 魔王セロ
セロはもう昼過ぎだというのに驚きのあまり、浮遊城二階のバルコニーで『新しい朝が来た体操』を三回ほど繰り返した。ついでに入念にストレッチもして、それでも落ち着かなかったので、腕立て、腹筋などまでこなして、やっと「ふう」と息をついた。
これまで高潔の元勇者ノーブルやモンクのパーンチたちが筋トレをしているのをたまに横目で見て、いったい何が楽しいんだろうかと疑ってきた。そもそもノーブルやパーンチの筋量は十分で、これ以上鍛えたところで力の増量は望めないはずだ。ただ、この筋トレなるものは――存外に、リラックスするのに適しているのかもしれない。
何なら……もっと広背筋のあたりをパンプアップして……
と、そんなふうにセロが筋トレのダークサイドに落ちかけたところで、「はっ」と大事なことを思い出した。
筋トレどころではなかったのだ。モタを探さなくてはいけないと、セロはすぐに考え直して、バルコニーから城内に入って、まずは玉座の間を覗いた。
そこにはルーシーと、教皇や第一聖女アネストが何かしら話し合っていた。大事なことかなと思って、セロも足を向けると、ルーシーがセロに気づいて頭を横に振ってみせた。どうやら大した話ではないらしい……
セロにしてもモタを探している最中だったので、これにはむしろ助かった――「そういえば」と、セロはまた思い出した。つい先ほどだって、教皇たちと一緒になって、モンクのパーンチと巨大蛸クラーケンの結婚を祝福したばかりだ。友人代表としてセロだけがスピーチしてしまったが、本来ならばモタだってセロに続いていい立場だった。
だが、モタ本人はそういうのが苦手なのか、
「わたし……王国では今、お尋ね者なんだよねー」
と、モタらしくもない謙遜をしてみせて、結婚式を見守った後にどこかに行ってしまった。
たしか、そのときは一階に行ったはずだと、セロも大階段を下りて入口広間に着くと、そこには――ダークエルフの近衛長エークだけがいた。
しかも、そのエークはというと、両開きの大きな鉄扉の横にある通用口をちょうど閉めたタイミングだ。
魔王城は浮遊しているのになぜ?
もしや……一人きりでバンジージャンプでもしていたのかな?
と、セロが疑問を顔に出していると、エークは「いえいえ」と両手を横に振って否定した。
「モタが急に巴術士ジージ殿に会いに行くと言って、『飛行』の魔術でここから飛び立っていったので、門を閉めたばかりなのです」
セロは、「あちゃー」と片手を額にやった。
間に合わなかったかと落胆するしかなかった。よりにもよって筋トレが余計だったのだ。
セロはやれやれと肩をすくめつつも、近衛長エークなら噂の件について何かしら知っているんじゃないかなと踏んで、幾つか質問することにした――
「ところで、エーク。挙式のことなんだけど」
当然、セロからすれば飛んでいったばかりのモタ絡みの話だから、アジーンとモタとの挙式の話を振ったわけだ。
だが、エークは、「はっ」として緊張すると、ついにこのときが来たかと、感無量でやや遠い目になった。敬愛するセロと正妃ルーシーとの挙式のことだと認識したのだ。
そのせいか、エークの両目には涙が溢れた。その様子を見たセロはさすがにギョっとして、
「だ、大丈夫?」
「はい! 問題ございません。何でもお申しつけくださいませ、セロ様!」
「わ、分かったよ……じゃあ、まず聞きたいんだけど……いつ頃から付き合っていたのか、知っているかな?」
「いつ頃と言われましても……それはもう出会ってからすぐなのでしょう。私は最初から知っていましたよ。もちろん、何もかも全てです。臣下としては当然のことです」
エークはそう答えて、胸を張ってみせた。
セロとルーシーとの出会いについてはその場にいなかったので詳しくないが、その後のことについては近衛長として全て把握していた。
最早、クリーンの
もっとも、セロからすると、近衛長エークと執事アジーンは何かと互いをライバル視していたから、そういう意味で相手のことをしっかりと見ていたのかなと判断した。
逆に言うと、セロだけが気づいていなかったのかと、自身の鈍さにちょっとだけうんざりした。
ただ、モタが第六魔王国にやって来てから早数か月――恋愛に時間は関係ないとはいえ、結婚を判断するにはやや早い気もした。そこらへんは元聖職者だけあって頭が固い……
というところで、セロは「ん?」と首を傾げた。
もしかしたら、急いで結婚せざるを得ない理由があるのかもしれないと、つい余計なことを思いついたのだ。
つまり、これは
「もしかして……バレちゃったとか?」
そんな質問と、いかにも秘密めいた声音がいけなかった。
あまりにも聡すぎる近衛長エークもまた、ついつい気づいてしまったのだ――ルーシーが
「は、はい、セロ様……ババババレちゃいました」
「そっかー。そうだったんだ。じゃあ、お祝いしないとだよね」
当然だ。第六魔王国に世継ぎが誕生したのならば、盛大に祝わなくてはいけない。
そんなふうにして、エークが今度は両目を真っ赤にして、わなわなと身を震わせていると、セロはいかにも事も無げに尋ねてきた。
「じゃあ、どういう挙式がいいのかな?」
その問いかけに対して、エークは数分前までの自分の言動を呪った。
アジーンにはおもてなしこそ重要だと滔々と語ってみせたが、今となってはそんなものはどうだっていい。何せ、結婚だけでなく、世継ぎ誕生も含めた大イベントになるのだ。全世界がひれ伏すほどの荘厳なものにしなくては示しがつかない……
だからこそ、エークはセロに向けてきっぱりと言い切った。
「世界征服を急ぎましょう、セロ様!」
セロはさすがに眉をひそめた。
そもそも、「どういう挙式がいいか」と尋ねて、出てきた答えが「世界征服をする」なのだから当然のことだろう……
もっとも、セロはエークを信頼しきっていたので、眼前の忠臣がそんな意味不明な答えをするはずがないと即座に考え直した。
そして、セロもこう解釈した――エークはきっと種族統合にまで言及しているに違いない。浮遊城直下で進行中のヒュスタトン会戦が終われば、ついに人族と魔族との協調が始まる。そこにモタとアジーンの挙式にかこつけて亜人族を加えれば、全種族による平和的統合のちょうど良い機会になる。そんなふうにエークは指摘したかったのだ、と。
もちろん、エークとしては、つい先ほどアジーンが語った三世界の制覇――天界、大陸、冥界を統一してからの全種族が参加する挙式をイメージしたわけだが、セロとしてはせいぜい、大陸における三種族ぐらいの意識しかなかった。
だから、セロとしては何気なく、
「そうだね。世界征服をしてからの挙式か……悪くないかもしれない」
そんなふうに呟いたわけだが、エークはじーんと感動した。
敬愛する主君に世継ぎが出来て、さらに世界征服まですると宣言したのだ。エークは今まさに人生における絶頂の瞬間を迎えていたと言ってもいい。
ともあれ、こんなふうに主君と忠臣とが盛大に行き違いしかしなかった、あまりにもひどい会話だったわけだったが……ここで意外な救世主が現れた。
その者は料理長フィーアから連絡を受けて、ルーシーのもとに報告に向かおうとして、階下の入口広間からの会話がちょうど耳に入ってきてしまった――その者とは
なんですとおおおお!
リリンはさすがに仰天した。
まずアジーンとモタとの間に子供が出来ているという事実に驚いたし、挙式のタイミングも世界征服の後とセロが段取りまで決めてしまったものだから、これはいよいよもって大変なことになってきたぞと認識したわけだ――
ついに! ついに! モタはアジーンの子供を授かったのか!
リリンからすれば、モタは親友だが、アジーンとてこの魔王城で長らく世話になってきた執事だ。人狼が絶滅危惧種で次代が生まれていないことについては、リリンもずっと気に掛けていた。
何にしても、リリンは急いでルーシーのもとに向かった。こうして浮遊城においても、おかしな勘違いは規模を増して継続して、さらなる波乱を呼ぼうとしていたのだ。
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