第211話 秘湯と淫蕩の悪魔

 悪魔のベリアルとネビロスが土下座をする中で、巴術士ジージが湿地帯に降り立つと、高潔の元勇者ノーブルはやや渋い表情を作った。


「シュペル卿やヒトウスキー卿はともかく……ジージがここに来ることも、それに加えてこんなに早く着くとも、連絡を受けていなかったのだが?」


 さすがに普段は温厚なノーブルでも、地獄長サタンの配下である二人にしてやられた格好だったので虫の居所が悪いらしく、言葉に棘があった。


 百年以上も前にパーティーを組んでいたジージなので、当てこすりしやすい相手でもあったのだろう。


 そんなジージはというと、長い髭に手をやりながら「ほほ」と小さく笑みを浮かべて余裕を見せつけた。


「それはそうじゃよ。わしはあくまでシュペル卿やヒトウスキー卿のお供で来たに過ぎん」

「弟子のモタに輪をかけて面倒臭がりの貴方が……わざわざお供だと?」

「うむ。この墳丘墓を見学しに来ただけなのじゃ」


 ジージがそう答えると、ノーブルは眉をひそめた。


 たしかにこの墳丘墓は第七魔王こと不死王リッチが亡者を総動員して要害化しただけあって、第六魔王国の東領にある砂漠の神殿郡跡に比べると、きちんと歴史財産として残っているものの、そもそもじめじめしていて、おどろどろしい湿地帯にあるので、観光には全く向かない。


 それにジージが幾ら研究者肌だとはいっても、死霊魔術師ネクロマンサーの文献に興味はないはずだし、古書の収集や解読などなら今は人造人間フランケンシュタインエメスやドルイドのヌフが保存していたもので手一杯のはずだ……


 だから、ノーブルがいまいちジージの真意を図りかねていると、


「いやな。どうせなら、ここを聖魔絶対超越現人神教の総本部にでもしようかと考えているのじゃよ」

「…………」


 ノーブルはつい遠い目をした。


 最近、当の現人神ことセロから、「ジージが変な新興宗教に嵌っていて助けてほしい」と相談を受けたばかりだったからだ。


 たしかにジージは昔から一つのことに集中すると、それだけに夢中になる性質ではあった――


 若くして宮廷魔術師としての栄誉を受けたのに、わざわざ王都から離れて寂れた古塔に住み着き、その周辺に貧民街スラムまで形成して、身分にかかわらずに弟子を取ったというのは、ジージを語る上で有名な逸話だ。


 さらにはその余生で、槍術、棒術、魔術や法術といったふうに、召喚術以外にも様々なものを究めた才人なわけで、これは最早変人を通り越して、狂人と言ってもいい部類かもしれない。


 そんな厄介な性質と才能が今度はよりにもよって神学――正確に言えば、セロを自ら創造することに向けられたらしい。


 とりあえず、前回、セロには「実害が出ないうちは放っておいていいのではないですか」などと慰めておいたわけだが……このままいくと、間違いなく、この地に秘密結社フリーメイソンでも作りかねない勢いだ。


 はてさて、この旧知の変人をどう諫めるべきかと、ノーブルが「うーん」と呻っていたら、やっとシュペル・ヴァンディス侯爵とヒトウスキー伯爵が巨大ゴーレムの手に乗って降りてきて、予定通りに第二聖女クリーンと合流した。


「シュペル様も、ヒトウスキー様も、お早いお着きでしたね」


 クリーンが二人を労うと、まずシュペルが応じた。


「もともとは強襲機動特装艦かかしエターナルの性能試験も兼ねた公試運転に乗せてもらったのです。いやはや、さすがは第六魔王国ですな。最早、王国の一貴族としては、二国間の平和協定が速やかに結ばれることを強く望むばかりですよ」


 そんなシュペルの言葉を耳にして、なぜ皆がこの場に早く来られたのか、ノーブルもやっと合点がいった。


 要は、シュペルもヒトウスキーも『かかしエターナル』に乗って、とっくに第六魔王国から出立していたのだ。ノーブルに連絡を取った時点で、すでに湿地帯の上空付近に着いていたのだろう。


 それをノーブルは勘違いしてしまった――「かかしエターナルから墳丘墓に下りる為に出立した」という報告を「浮遊城から湿地帯に行く為に出立した」と。そこで大きな齟齬そごが生じてしまった。


「なるほど……そういうことか」


 ノーブルは独りちて、やれやれと肩をすくめた。


 すると、ヒトウスキーがさながら訓練された犬のように、急にくんくんと小鼻を鳴らし始める。


 そんなもう一人の変人の様子に、クリーンも気になったのか、


「ヒトウスキー様……い、いったい、何をなさっておられるのですか?」


 今さらヒトウスキーの奇行には驚かされないが、それでも旧門貴族にあるまじき行為に、クリーンがおずおずと尋ねると、当のヒトウスキーは爛々と目を輝かせた。


「これは新たな秘湯の匂いでおじゃる!」


 もちろん、クリーンも、ノーブルも、ジージやシュペルもつられて嗅いでみたが、第七魔王国特有の亡者の腐臭しか漂ってこなかった……


「こっちでおじゃるよ」


 案内された先は意外に墳丘墓の入口のすぐそばだった。


 相変わらず亡者が湧いてくるが、ジージが法術で『聖なる微風』を周囲に展開すると、亡者は全く寄り付かなくなった。


 その一方でヒトウスキーはというと、沼の深くなっているところに手を入れてみせると、


「ふむ。見事な泥湯でおじゃるな。まさかこんなところにもあったとは。これで麻呂が見つけた泥湯は二か所目でおじゃるな」


 そう言って、満足げに皆に向けて笑みを浮かべてみせた。


 たしかに乳白色の泥からはぽかぽかと湯気が上がっている。


 直後、クリーンはふと思い出した――そういえば、勇者パーティーと一緒に不死王リッチ討伐に赴いたときに、モタが『火炎暴風ファイアストーム』でここら一帯を幾度も焼き払ったことを。


 もしかしたら、その影響でこうした泥湯が出来上がったのだろうか……


 何にせよ、ヒトウスキーはあっという間に褌姿に様変わりしていた。クリーンは「キャ!」と言って目を背けるも、ふいに可笑しなものが一瞬だけ視界に入ってきた。


 クリーンが「おや?」と疑問に思って、泥湯の方にちらりと視線を戻すと――


 そこにはいつの間にか悪魔のネビロスがまったり入っていた。傀儡である銀髪の少女が黒髪人形ことネビロス本体を溺れさせないようにと、適度な位置に支えて入浴している。


 しかも、その隣では混浴など気にせずにヒトウスキーが足からゆっくりと入って、ついには体全体を浸からせた。


「いやあ……これは良い湯でおじゃるなあ」

「泥で美白になるのです。健康にいいのです。効能がたくさんあるのです」

「ほう。泥湯のことをよく知っている娘さんでおじゃるな。まさかこんなところに同好の士がいるとは思っておらんかったでおじゃるよ」

「ふふ。地獄の釜で散々鍛えられた私に死角などないのです」

「何と! 第一魔王国にも秘湯があるのでおじゃるか?」

「当然です。何なら茹でられに来てみますか?」

「もちろんでおじゃる!」


 いやいや、そんな簡単に地獄に行っちゃダメでしょとは、さすがのクリーンでもツッコミを入れる気になれなかった……


 どうせヒトウスキーのことだから止めても勝手に一人で奈落から落ちていきそうだ。というか、地獄の釜茹は温泉ではなく、ただの極刑のような気もするのだが……


 何にせよ、クリーンが「ふう」とため息をつくと――


 これまたいつの間にか、すぐ眼前に一人の美青年が突っ立っていた。これまた悪魔のベリアルだ。しかも、どこから採ってきたのか分からないが、赤い薔薇の一輪をクリーンに差し出している。


「薔薇の花言葉は――情熱」

「はあ」

「今、まさに俺はその情熱を向けるべき最愛の人物に巡り合った」


 クリーンは何だか嫌な予感がしかしなかった。


 最近、気づき始めたことなのだが、バーバルと出会って以降、どうやらクリーンはダメ男を寄せ付ける体質になった気がする……


 ということは、この魔族の男もおそらく、きっと、間違いなく、


「さあ、結婚しようぜ。お嬢さんフロイライン


 ろくでなしに決まっている。


 とまれ、こうしてクリーンはよりにもよって第一魔王こと地獄長サタンの配下ベリアル、別名『淫蕩の大悪魔』から求愛を受けてしまったのだった。

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