第166話 竜眼
少しだけ時間を遡りたい――
その日、セロこそ怒り心頭、モタに対して堪忍袋の緒が切れかけていた。
ここ最近、夜に棺に入ってはバフォメットと一緒にモタの数をかぞえ、あるいはジージまで数えてげんなりし、それから懲りもせずにヤモリたち、コウモリたち、イモリたちまで数えるように悪戯されたのだが、
「魔物たちのアイデアは良かったね」
と、ついモタを褒めてしまった。
それがいけなかった。何せモタはすぐにやらかすのだ。
その日の晩も、魔物たちの数をかぞえてすやすやと寝付けるかなと期待していたら、うとうとしかけていたタイミングで脳内に浮かんできたのは、よりにもよってモンクのパーンチだった。
しかも、なぜかほぼ裸体だ。さらには筋肉の数をかぞえ始めた――
「オーケー。セロよ。注目してくれ。まずは腹筋だぜ。いいか? 一つ、二つ、三つ……」
と、こんなふうに様々な筋肉の名称と個数を強制的に睡眠学習させられたのはいいものの、当然のことながら寝付きも目覚めも最悪だった……
あんな悪趣味な睡眠導入はさすがにモタの発案ではないはずだから、きっとどこかで聞きつけたパーンチと一緒に悪戯を考え直したに違いないとセロはみなして、その日の午前中の公務をこなして、魔王城にて昼食を済ませてから、すぐに温泉宿泊施設を訪ねた。
対応したのは大将のアジーンだ。
「おや、セロ様。いらっしゃいませ」
「モタはいるかな? もしかして部屋でまだ寝ている?」
「また……何かやらかしたのですか?」
「うん。そろそろ、ちゃんとお灸を据えたいと思ってね」
セロがそう伝えると、アジーンは天を仰いだ。
「なるほど。それで先ほどずいぶんと慌てて、逃げるようにして出て行ったわけですな」
「逃げた?」
「ええ。セロ様と入れ替わるかのように、パーンチの腕を引っ張って、闇魔術の大切な実験をするのだと、人気のない北の街道の方に向かいました。一応、リリン様が付いて行ってます」
「なるほど。リリンが追いかけてくれたとはいえ、何だか嫌な予感しかしないなあ……」
「はい。
そんなわけで付き人のドゥをいったんアジーンに預けて、急ピッチで整備されつつある城下街を抜けて、セロは北の街道までやってきた。
ここらへんは入り組んだ畦道になっていて、周囲の畑にはヤモリたちもいるのでさほど危険はないのだが、先日、ジョーズグリズリーの群れが出たという報告もあったので、セロはわずかなダークエルフの精鋭を供回りにして到着した。
すると、遠くにモンクのパーンチが倒れて、「うーん」と伸びていた。
早速、モタが何かやらかしたのかと、セロは思わず額に片手をやったのだが、さらに奥に視線をやるとどうにも様子がおかしい。
モタがリリンと組んで、見知らぬ亜人族の少女と戦っているようなのだ――
「リリン! この人、魔術が全く効いていない!」
「竜鱗だ! あらゆる攻撃を無効化するんだよ!」
「ええ? そんなのどうやって倒せばいいの?」
「竜鱗の
「そりゃ得意だけどさあ。ここでそれをやったら北の街道ごと壊しちゃうよ。セロにまた怒られちゃう」
「…………」
つい先日、媚薬事件で皆に迷惑をかけたばかりだけに、モタも、リリンも、ついついしゅんとなってしまった。そんな二人に対して、相手をしていた少女は余裕綽々といったふうに挑発を繰り返す。
「リリンの腕がずいぶんと上がっていて驚いたが、結局はその程度なのか? ならば、次は
少女はそう言って、口を大きく開いた。
「いざ、喰らえ! 『全てを飲み込む水渦』だ!」
土竜ゴライアス様みたいにその口内に強大なエネルギーが収束していく。
それを見て、リリンは「あれはヤバいよ……」と諦観して、モタも「ひょえええ。やっちゃう? 相殺出来るかは自信ないけど……大魔術を展開しちゃう?」と慌てふためいている。
もちろん、そんなことをされたら大惨事どころか、ここらへん一帯が全て吹き飛ぶ上に、下手をしたら整備中の城下街にまで影響を及ぼしかねない……
だから、セロはやれやれと肩をすくめつつも、モタの頭をぽんと小突いて魔術の詠唱を止めさせた。
「セロおおおおお!」
モタが泣きそうな顔をしてセロにすがってくる。
同時に、相手の少女が凶悪な『水渦』を吐き出した。セロは咄嗟に――
「全てを守れ! 『聖防御陣』!」
と、片手で印を示した。
先日、高潔の元勇者ノーブルが筋肉を無駄に晒してしまったお詫びということで教えてくれたものだ。
複雑な法術ではあったが、昔取った杵柄というやつで元司祭のセロはすぐに覚えることが出来た。だが、魔族に転じてからは種族特性なのか、法術の効果がずいぶんと下がってしまっている。
そんな『聖防御陣』が強大な『水渦』を相殺した――
法術なので弱まっていたとはいえ、初球魔術が『
一方で、当の少女もこの結果には目を見張っていた。
よりにもよって魔族が苦手とする法術で一撃必殺の攻撃をかき消してきたのだ。まさに誇りを傷つけられたと言っていい。
「ところで、この
セロが背後の二人に質問すると、リリンがそれに答えた。
「第三魔王ファフニールの義娘である海竜ラハブです」
「ファフニールの娘?」
「はい。真祖トマトの食事会のときに幾度か来ているので、私とも姉上様とも面識はあります」
「それが何でいきなり戦っているのさ?」
すると、それに対して海竜ラハブが答えた。
「ほう。貴方がセロか。のこのこと出てきたことは褒めて差し上げよう! だが、貴方はここで余に叩き潰される
「はあ」
「ふふ。その腑抜け面! はてさて、いったいどの程度の力を持っているのか――」
ラハブは『竜眼』でしかとセロを見据えた。
ちなみにラハブは魔族ではない。あくまでも亜人族だ。もちろん邪竜ファフニールは魔王であるから当然魔族だし、その息子たちも、配下も、ほぼ全て魔族なのだが、ファフニールにはなぜか娘が一人も生まれなかった。そこで諸事情もあって、ファフニールは竜族であるラハブを義理の娘として引き取った。
竜族は超越種とされる極めて希少な種族で、その『竜眼』の性能は『魔眼』を超えると言われている。相手の本質を見抜くだけでなく、その未来まで見据えることが出来ると謳われているのだ。
そんな『竜眼』でもって、ラハブはセロを
すぐに呆然自失とした。
勝てる相手ではないと瞬時に悟ったのだ。下手をしたら義父である邪竜ファフニールを凌ぐ力を有している。勝てない喧嘩を売るほどラハブも物好きではない。
次いで、どういう未来を見出だしたのか、その両頬がしだいに恋する乙女のように紅潮していった。
それからじわじわとセロとの距離を詰めて、ラハブは臀部から生えている尻尾で、ぺしっ、ぺしっ、とセロを軽く叩き始める。
もちろん、セロは「ん?」と首を傾げた。
「ええと……これは何をやっているのかな?」
セロがそう尋ねると、背後からリリンが代わりに答えてくれた。
「あの、その、ええと……大変申し上げづらいのですが、竜族の求愛行動になります」
「…………」
さらにラハブは尻尾でセロをゆっくりと巻き始めた。それほど力は入っていない。むしろ意外と温もりが伝わってくるやさしさだ。
「で、今度は何をやってくれているのかな?」
「これまた大変申し上げづらいのですが、竜族が他の雌に雄を渡すまいとする示威行動になります」
要は、泥竜ピュトンの『しゅきしゅきホールド』の強化版だ。
こうして「はあ、はあ」と欲情したラハブはセロを尻尾に巻き付けたままで、
「このラハブ……まさかこんなところで生涯の
思い余って、強引に口づけをかわそうとした。
「許さん!」
「ダメーっ!」
当然のことながら、リリンとモタが飛びかかった。
何にせよ、こんなふうにして第六魔王国に強力な女豹が加わったわけだ。もちろん、ラハブの求愛がすぐさま新たな火種を生むなどとは、このときセロもまだ思ってもいなかった。
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