第140話 開幕(後編) 地下で蠢く者たち
この世界は天界、地上世界こと大陸、地下世界こと冥界の三つに分かたれていることは、これまでにも示唆してきた。
そして、今、ここは冥界――『地獄の門』こと奈落の遥か底にある場所だ。
この地下世界において大陸はほとんど形を成していない。とはいえ、かつては地上と同様に、緑豊かな大地も、青き海も、果てなく澄んだ空も存在したわけだが、魔族同士の長き戦いの末にかなりの部分が消失してしまった。
おかげで日は落ち、月は欠けて、海も干上がって、そのほとんどが血と毒に塗れ、さらに大地は幾つにも割れてしまった。
もっとも、現在の冥界はそんな混沌が支配する場所ではない。
そもそも、意外に思われるかもしれないが、この地下世界はずいぶん以前に冥王によって平和と調和がもたらされた。もちろん、この世界のどこか片隅にはいまだ冥王に従わない魔族もいるにはいるが、あくまで少数派に過ぎない……
以前は七十二もの魔王が群雄割拠した冥界だが、そんな力と野心を持った魔族たちも、今や、冥王配下の三人の強大無比な魔族に従っている――第四魔王こと死神レトゥス、第二魔王こと蠅王ベルゼブブ、そして第一魔王こと地獄長サタンだ。
そういう意味では、地上世界の事例でたとえるならば、冥王はいわゆる帝王として君臨していて、第四魔王こと死神レトゥスは霊界という名の大神殿の神官長、第二魔王こと蠅王ベルゼブブは魔界で多くの魔族を飼いならす軍団長、そして第一魔王こと地獄長サタンは冥王に叛意を持つ罪人を
そんな冥界において現在、古の大戦以来、久しくなかった激震が生じていた――
阿鼻叫喚という言葉では生温い声が先ほどから漏れ聞こえてくる。
ここは
そんな永久の煉獄の中央に一つだけ、ぽつんと不釣り合いな建物があった。コンクリートが打ちっぱなしで、ある意味では無機質な芸術のようにも見える三階建ての官舎なのだが、その廊下を足早に進む者たちが二人いた――
地獄長サタンの配下こと、悪魔のベリアルとネビロスだ。
悪魔ベリアルは目が覚めるほどの美青年で、ブラウンのツイードジャケットを着込んだ小粋なドレッサーだ。
いかにも自身の格好良さをわきまえているといったふうで軽薄そうにも見えるが、その反面、どこか不思議と物憂げな眼差しを
一方で、悪魔ネビロスはゴシック趣味の少女だ。刺繍の入ったマントを纏って、フードを目深に被っているところは人狼メイドのドバーを彷彿とさせるが、こちらの方がよほど不気味な雰囲気を漂わせて、その手もとにはゴシックドレスを着せた人形を抱えている。
そんな二人が建物三階の執務室らしき場所にたどり着くと、ベリアルが先んじて、トン、トンと、丁寧に扉をノックした。華美な装飾など一切排した、とても簡素なものだ。
「入室を許す」
扉越しに、ひどく淡々とした事務的な声音が届いた。
ベリアルも、ネビロスも、ごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりとドアを開けて、「失礼いたします」と告げてから室内に数歩だけ踏み込んだ。すぐに跪いて、視線を床に落とす。これまた室内もシンプルで、仕事に必要なもの以外は何も置いていない。
せいぜい床に敷いてある血が滲んだかのように赤々しい絨毯だけが唯一の装飾品だ。
「ふむ。時刻通りだな。よくぞ来てくれた」
「もったいないお言葉です」
「もったいな過ぎて、ベリアルを殺したくなるくらいです。死ね」
「…………」
ネビロスの口の悪さは熟知しているのか、執務室の最奥の机にて書類仕事をこなしていた壮年の男性は何も咎めずにペンを走らせ続ける――地獄長サタンだ。
ベリアルに負けず劣らずドレッサーだ。もっとも、ベリアルのように自身を引き立たせようとしているわけではなく、地獄長としての職務と信条を明確にする為に自らドレスコードを敷いて律しているといったふうだ。纏っているものは伝統的かつ保守的なグレーのスーツで、フレームレスの眼鏡をかけている。
いっそ王侯貴族に長らく仕える執事といった雰囲気もあるが――その顔つきはいかにも神経質そうで、二人が少しでも規定に則らない動きを見せた場合は一切容赦をしないといった冷酷な雰囲気を漂わせている。
そんなサタンが机上の書類から全く目を離さずにまた事務的に尋ねた。
「貴様らはたしか数百年前に地上に出たことがあったな?」
その問いかけに対して、目を伏せながらベリアルが答える。
「はい。ですが……あのときは降魔の儀に呼ばれたのであって、決して勝手に――」
「それについては知っている」
「はい。余計なことを話してしまい、誠に申し訳ありません」
「天族との約定によって冥界にいる魔族は地上に出ることが出来なくなったが、それでも例外はある。地上の人族、亜人族による降魔の儀や召喚の術だ。貴様らは当時、たしかエルフによって呼ばれたのだったな?」
「はい」
「では、ネビロスよ」
「はい、何でございますか。死ね」
「…………」
「ええと、違います。死んでいいのはベリアルであって、サタン様では――」
「構わん。貴様の口汚さには慣れている。それよりも、じきに地上世界でまた降魔の儀が執り行われるそうだ。その呼びかけに応じて地上に出て、ベリアルと共に第六魔王国を滅ぼしてくるのだ」
「…………」
今度はベリアルとネビロスが二人そろって沈黙する番だった。
なぜ第六魔王国なのか? それに今の地上世界はどうなっているのか? そもそも、なぜ地獄長サタンは降魔の儀が行われることを知っているのか?
二人とも幾つかの疑問がすぐに脳裏を過ったが、自らの主人が余計な口を挟むことを好まないのをよく理解していたので、二人揃って、「畏まりました」とだけ答えた。
「退室を許す」
地獄長サタンにそう告げられたので、二人は作法にでも則ったかのようにくるりと退いて、執務室から出た。直後、二人は揃って、「はああ」と深いため息をつく。
それから足早に一階へと下りると、ベリアルはネビロスに指差した。
「おい、お前。ふざけんなよ。死ねって何だよ、死ねってさ」
「最初に貴方が余計な言い訳をしだしたのです。私はそれに対して文句を言っただけです。死ね」
「だあああ! だから、その最後の一言が余計なんだよ」
「それよりも、地上世界について調べるのが先決なのです」
「ああ、そうだった。お前と揉めている場合じゃねえ。ていうか、なぜ第六魔王国なんだ?」
「最近、真祖カミラが敗れたという噂があったばかりですよ」
「へえ。じゃあ、相当に強い奴が新たに魔王として立ったってわけか。腕が鳴るじゃねえか。早く戦いたいぜ」
「ついでに死ね」
「…………」
何はともあれ、二人の悪魔が地上世界に赴くのはしばらくしてからのことになる。こうして第一魔王サタンの統治する
不毛な大地を耕しているようにも見えるが、実際には全員が墓を掘り続けていた。
この冥界では、掘れども、建てども、墓は足りていない。それだけの数の魔族が死ぬからだ。こんなことならいっそ肉体と同様に霊魂も火魔術などで滅することが出来ればどれだけ楽になるだろうかと、
こんなおどろおどろしい場所には不釣り合いなほどに美しく、どこか儚げな少年だ。
肌は薔薇色の大理石のように滑らかで、その碧眼はタンザナイトのように青や紫、あるいは青や赤など、見る者の角度によって多様に変化していく。
ただし、その美貌に比して、表情が決定的に欠けている。
いや、より正確には美を表現する為の心を全く持っていないのだろう。だから、亡者たちに永遠の労働を課すことも厭わない。むしろ、不死性を持ったのだから、永劫に重労働に尽くすことこそ誉れとみなしているほどだ。
そんなどこか朧げな美しさを持ちながらも、ひどく残酷な
「お待たせしました、レトゥス様」
すると、そんな死神レトゥスのそばに一体の
肉体を持たない、青い炎のような存在に過ぎないが、その中心には嘆きの表情が浮かび上がっていた。どうやらエルフの悪霊のようだ。
「やあ、わざわざ来てもらってすまないね」
「いえ。ところで、私にどういった御用なのでしょうか?」
「さっき、ルシファーが『
「はあ。もうそんな時期になりますか」
「で、その招待者リストに面白い名前があってさ」
「と、仰いますと?」
「第六魔王だよ」
「なるほど。真祖カミラですか。ただ、彼女ならば招待者として妥当では?」
「違うよ。カミラではない。新たな第六魔王が立ったんだ。愚者のセロと言うらしい」
「愚者ですか。これは……世界が揺れますな」
「だろう? おそらく今頃、地獄長サタンあたりが愚者を潰す為に動いたんじゃないかな。あれは嫌になるぐらいに生真面目な奴だからね」
それに対して、悪霊は何も応じなかった。
生真面目ということならば、死神レトゥスこそ相応しいはずだ。そうでなければ、亡者たちにこれほどまでに過酷な労働をいつまでも課しはしない――
「ところで、レトゥス様。私をここにお呼びになったということは……もしや?」
「察しがいいね。たしか、君の死体はまだ地上に丁重に保存されているはずだろう?」
「はい。その通りです。現在は迷いの森にあります」
「じゃあ、
「つまり、隣接する第六魔王国に赴けと?」
「違う。君が行くのではない。
「まさか、『魂寄せ』をやらせるのですか?」
「当てはあるかな?」
悪霊は動揺したかのようにわずかに震えてから、やっと言葉をこぼした――
「迷いの森にはドルイドがおります。私もよく知っている者です」
「じゃあ、問題ないね」
死神レトゥスは簡単に言ったが……むしろ問題しかなかった。
もっとも、エルフの悪霊に逆らえるはずもなかった。こうして第四魔王こと死神レトゥスが統治する霊界では、第六魔王国は興味のある対象とみなされたのだった。
おや。この感じは――
と、その少女はくんくんと鼻を鳴らした。
そして、背に生えた羽でどこかに飛び立とうとした。もっとも、その瞬間だった。
「お待ちください! せめて冥王に一言でも断ってから行くべきです」
「それで行くなと言われたらどうするのだ? 冥王とまた一戦交えるか?
その少女がいったん飛ぶのを止めて、腕を組んでぷんすか抗議すると、蠅騎士団の副団長アスタロトはほとほと困った顔になった。
地上世界こと大陸で最強の騎士団が王国の聖騎士団だとしたら、地下最強は蠅騎士団だ。全員が一騎当千の魔族で構成されているが、当然のことながら強い魔族が軍規を守るはずもなく、当初は敵を見つけたらとりあえず一発殴りに行くといった鉄砲玉の集まりでしかなかった。
そんな凶悪な魔族たちを騎士団として律したのが、当の副団長アスタロトだ。ある意味で最も騎士らしい人物であって、漆黒の禍々しい板金鎧を脱いだことが一度もない。
礼儀作法も、言葉遣いもしっかりしていて、性格も良く、いかにもリーダー然としている。誰れもが「もし第二魔王がアスタロトだったら、今ごろ魔界は天界よりも秩序と調和の取れた場所になっていたはずだ」と
だが、残念ながらアスタロトは第二魔王にはなれなかった。
実力で黙らされたのだ。すぐ眼前にいる、いかにも天真爛漫な少女によって――
一見すると、ベッドから起きたばかりで、まるで乱れ放題といったふうだ。十分に可愛らしい容姿をしているはずなのに、少女はそんな自身の魅力に反逆しているかのように思える。
「では、術式が構築され始めたようだから我は行くぞ」
「せめて供をお連れ下さい。貴女様に勝てる者などいないのは重々承知しておりますが、身の回りの世話をする者が必要です」
アスタロトが指摘した通り、天界でも、地上世界でも、地下世界でも、この少女に敵う者はいない。冥王とてそれは例外ではない。個で戦うならば最強――それこそがこの少女に対する世界の評だ。
だからこそ、アスタロトはこの少女に仕えているし、蠅騎士団の一騎当千の魔族たちもそんなアスタロトに背面服従することで、この少女の猛威に晒されないようにとむしろ努めている。
それほどの力を持った少女が冥王になれなかったのは、その性格が苛烈に過ぎたからだ。つまり、統治者の素質が皆無なのだ。そもそも、少女とて今まで魔王然として振舞ったことが一度もなかった。今のアスタロトのように、配下が勝手に下働きしているだけだ。
結局のところ、第二魔王国こと魔界は、皮肉なことにアスタロトが仕切っているのも同然だった。
そして、少女はというと、軍規も、秩序も、へったくれもなく、まさに混沌そのものが顕現したかのような存在として、子供みたいにちょこんと地面に座り込むと、
「嫌だ嫌だ。我は行くぞ!」
「お待ちください、ベルゼブブ様――!」
直後、アスタロトは殴られた……
数日後、意識をやっと取り戻したアスタロトは頭を抱えるしかなかった。
「ああ、何ということだ……ついに地上世界が崩壊してしまうのか……」
こうして魔界の支配者である第二魔王こと蠅王ベルゼブブは、第六魔王国へと飛び立っていったのだった。
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