第139話 開幕(前編) 冥府からの使者

 セロはドルイドのヌフのもとに急いで駆けつけた。


 高潔の元勇者ノーブルによって、第五魔王アバドンが魔核諸共に袈裟斬りにされたとはいっても、まだ完全に消失したわけではない。


 それにヌフもノーブルのすぐそばにはいるが、万が一ということもある。そもそも、一度はアバドンの姦計に嵌って、ヌフに重傷を負わせてしまったのだ。偽物ダミーだったから良かったものの、さすがに二度目は許されない……


 だから、セロはモタや近衛長エークと共にヌフを囲んで慎重に守りながら、アバドンに止めを刺した後にまたうずくまってしまったノーブルに尋ねた。


「怪我の具合は大丈夫ですか?」

「大丈夫だ、問題ない。魔核が少し傷ついただけに過ぎない」


 ノーブルがそう答えると、ヌフは法術によってすぐに回復を始めた。


 ダークエルフのドルイドなので、認識阻害や封印などの闇魔術を得意としているが、さすがに長く生きているだけあって法術の腕も相当に良い。これならセロがアイテムボックスに大量にストックしているポーションなども必要はなさそうだ。


 その一方で、魔核を見事に斬られたアバドンはというと、その巨体が塵となっていく中でもじわりじわりと後退していった。


「奈落を……守らねば……」


 最早、それは執念と言ってもよかった。


 天使としていにしえの大戦の後から『地獄の門』を守護し、また長らく帝王として人族と共にその門番を務め上げ、さらには漏れ出る瘴気によって魔王に変じてからも門と共にあり続けた。奈落を護ることはアバドンにとって存在意義といっても過言ではなかった。


 だが、それだけにセロには大きな疑問があった――


 なぜこれだけ強い魔族が地上世界で門番などを務めていたのか?


 天族が地下世界に通じる奈落を警備することになったから、同じ天使として、あるいは帝王として、その役割を務めるというのは理解出来る。しかし、魔王となってからもそれを続けたというのが分からない。門を開けて地下世界の魔族を引き込めばいいのではないかと、誰しもが考えるところだ。


 そんな当然の疑問をセロは抱いたわけだが、結局のところ、それを問いかける余裕もなく、肝心のアバドンはというと、ついに門にどすんと背を預けた。その巨躯は四本の腕と羽を失って消えかけている。


 そのアバドンがまた言葉を漏らした。


「守らねば……また、大戦が……今度こそ、全てが・・・、消え、失せ――」


 直後だ。パリンっ、と。


 ドルイドのヌフによる一時的な封印の鎖が何者かによって散り散りにされたのだ。


 さらに門がゆっくりと開かると、そこから唐突に突き出た右手がアバドンの体を一気に貫き、壊れかけの魔核をきつく握り締めた。


「貴方、は……」

「これまでよくぞこの地を守護しました。冥王・・様も、貴公の貢献には大変満足しておられます」

「左様、です、か……」

「その魂が天界、または冥界のいずれに戻るにしても、功績は十分に称えられることでしょう。さあ、お逝きなさい」

「この、奈落、は……?」

「貴公が案ずることではありません」


 次の瞬間、その右手はアバドンの魔核を握り潰して完全に破壊した。


 アバドンは一瞬で灰になった。これにて第五魔王は消滅したわけだ。この地上世界に残った魔王は第三魔王の邪竜ファフニールと第六魔王のセロだけとなった。


 だが、そんな魔王たちよりも遥かに濃い魔力マナを瘴気と共に発し続ける者が門の奥にはたしかに存在した――


 瘴気が呪詞として色濃く漂ってきたせいで、その姿はうっすらとしか見えないが、どちらかと言えば天使に近い超然とした雰囲気があって、アバドンほど大きくはないものの人型で、その背には四枚の黒翼があった。


 聖所の明かりが微かにその風貌を照らすと、彫像のように美しい顔が浮かび上がってきたが、そこにはなぜか黒塗りで罰点が刻まれている――


「天界との約定により、わたくしめはこの地に足を踏み入れることが出来ません」


 その者は静かに語った。


 ただ、言葉一つずつの抑揚だけで空気が幾重にも震えた。途方もない威圧感だった。そのせいでヌフはじりじりと後退し、モタはその場で尻込みして、エークでさえも片膝を突いたほどだ。


 何とか真っ直ぐにその者を見据えていたのは――セロとノーブルだけだった。


「ふむ。一人が合格。一人がまあ及第点といったところでしょうか。これには冥王様もお喜びになられることでしょう」

「……貴方は、いったい?」


 セロがそう短く問いかけると、その者は笑みを浮かべてみせた。


 ただし、好意的に笑ってくれたはずなのに、その表情はむしろセロたち全員を恐怖でどん底に突き落とすかのような凄みがあった。


「これは失礼。挨拶が遅れてしまいました。私めは――ルシファーと申します」

「ええと……こちらこそ聞いておいて、先に名乗らずにすいません。僕は第六魔王こと愚者セロです」

「これはご丁寧に。ですが、もちろん存じておりますとも。この地上世界で起きている大抵のことについて、私めはとうに知っています」


 その者ことルシファーはそう言って、鷹揚に肯いてみせた。


 地下世界にいるはずなのになぜ地上のことをそこまで知っているのかと、セロは疑問を感じたが、何にしても最も根本的な質問を口にした。


「貴方は地下世界の魔王なのでしょうか?」

「魔王? 私めがですか?」


 ルシファーはそう言って、「くふふ」と含み笑いをした。


「いやはや、これはまた大変失礼いたしました。本当に久しぶりですよ。こんなふうに楽しい会話というものは」

「では、魔王でないとしたらいったい?」


 セロは頬に冷たい汗が流れていることに気づいた。


 これまで地上では圧倒的な強者だったので分からなったが、セロは初めて格上の魔族と対峙していると実感した。それほどの者が地下世界で魔王ではないとしたら、本当に何者だというのだ?


「強いて言えば、そうですね……せいぜい使い魔メッセンジャー程度といったところでしょうか。私如きなぞ、冥王様の使い走りに過ぎません」

「その冥王というのは? 魔王とは異なるのでしょうか?」


 そのとたん、ルシファーの表情が曇った。


 それだけでこの聖所の空気が一気にぴしりと凍り付いたかのようだった。気のせいだろうか。頬を過ぎた汗が氷粒となって落ちたかのように感じられた……


「言葉を慎みなさい。若き魔王よ。それは大変に失礼な物言いですよ」


 わずかに怒りで震える声音は、一瞬で部屋に絶対的かつ敵対的な静寂をもたらした。


 セロとノーブルは思わず武器に手を伸ばした。だが、ルシファーはというと、「ふむ」とまた鷹揚に肯き、ぽんと両手を軽く叩いて、その場の雰囲気を落ち着かせると、


「ですが、冥王様はご寛容です。貴方の無知をきっと赦されるでしょう。というよりも、むしろ貴方が真の魔王となる為に、私めをここに遣わせてくださったのです」


 そう言って、ルシファーは巻かれた羊皮紙をセロにぽいと投げて寄越した。


「これは……?」

「冥界にて行われる『万魔節サウィン』への招待状ですよ」


 その言葉にセロは聞き覚えがあった。


 たしか魔王同士が会食をする場だと、ずいぶん前にルーシーが口にしていた気がする。てっきり地上にいる魔王の会合の場か何かだと思っていたのだが……


「詳細については、地上にいる第三魔王こと邪竜ファフニールにでもお聞きください。それと――」


 そこでルシファーはいったん言葉を切ると、ノーブルをちらりと見た。


「真相カミラと勇者の件についても、やはりファフニールに聞くとよろしいでしょう。それでは、私めはこれにて失礼いたします」


 ルシファーはそう言って、門を閉めようとした。


「そうそう、ゆめゆめこの門の封印を忘れないようにお願いいたします。私めがいる間は何者も寄っては来ないでしょうが、離れた場合はその限りではございません」

「待ってください! なぜ魔族である貴方が奈落の封印を願うのですか?」


 セロがそう問いかけると、ルシファーはわずかに開いた隙間から饒舌に語り出した――


「この門は少し事情が複雑でしてね。それに加えて、まだご存じないのかもしれませんが、奈落に封印を施して地上世界と冥界との繋がりを断っているのと同様に、軌道エレベーター・・・・・・・・にも封印は施されていて、地上と天界との接触を防いでいるのです」

「軌道エレベーター?」

「ええ。全ては古の大戦からの天族と魔族との約定によるものです。何でしたら、詳細はファフニールにでも聞くとよろしいでしょう。それでは、『万魔節』でお会いするのを楽しみしておりますよ」


 バタン、と。


 奈落は閉じられた。同時に、ドルイドのヌフが何とか立ち上がって、再度封印を試みる。


 モタもそれを手伝い、ノーブルも聖剣を扉に突き刺して、さらなる厳重な封印を重ね掛けした。そんなノーブルの様子にはさすがにセロも驚いたが、


「魔核が傷ついてしまったようなので、すぐには奈落の底には行けません。あれ程の者が地下にはいるわけですから……今は私自身の回復と、何より封印を最優先します」

「そうですか。では、完全に治るまで赤湯にでも入って、第六魔王国でゆっくりしていってください」

「ありがとうございます。それと、『万魔節』の件、もし随伴者が必要ならば、是非とも私にお声がけいただきたい」

「地下世界の魔王たちと戦う為ですか?」

「それももちろんありますが、より正確には見定める為です。今の私では先ほどのルシファーに敵いません。それに冥王という存在も気になる」

「王に対する帝王のようなものでしょうか?」

「分かりません。実のところ、聞いたこともない。だからこそ私たちは知る必要があるのです」


 セロはノーブルの言葉に深く肯いた。


 戦って死ぬことこそ本望だと、セロは己の生きざまを定めたわけだが、何者と戦うのかについてはまだ明確になっていなかった――それが地上にいて蠢いている天使なのか、地下にいてセロを『万魔節』に誘った冥王なのか、はたまた天界にいてまだ姿すら現していない者なのか。


 何にしても、セロは封じられた奈落を見つめながら、右拳をギュっと握った。


「僕たちの戦いはまだ始まったばかりだ」


 こうして第六魔王こと愚者セロを中心として、第六魔王国は地上の半分ほどを占めることになった。


 後世の史書にはこう残されている――世界が三つに分かたれた時代において最も結束してよくまとまった国こそ、愚者の王国だったと。もちろん、このときセロはまだ、そんな激動の世界の中心にいることなど知る由もなかった。

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