第118話 懐かしき味(秘湯サイド:04)

「三秒じゃ。それで貴様はここで果てるでおじゃる。では、行くぞ」


 と言い終わったときには――


 ヒトウスキー伯爵はすでに刀を鞘に収めていた。目にも留まらぬ早技だ。


 たしかに台詞を喋るのに三秒ほどかかった。だが、実質的には一秒も経たずに眼前の敵アシエルを切り捨てていた。


「またつまらぬものを斬ったでおじゃる」


 そのつまらぬものこと自己像幻視ドッペルゲンガーのアシエルはなます斬りにされ、葉っぱサイズの影だけが残って、優雅にひらりひらりと、その場に落ちていった。


 アシエル自身が危惧した通り、二人目・・・と因縁のあるこの人物は、人族とは思えないほどに強かった。


 それにヒトウスキー伯爵は曾祖父アプランからかつて聞いていた通りに、影を散々ちりぢりに切りまくった。せっかくの入浴を邪魔されたこともあって、容赦すらしなかった。


 それでも、ヒトウスキー伯爵は「ふむん」と首を傾げた。魔核もない上に、召喚された偽物ダミーというわけでもなさそうだ……


「可笑しな魔族でおじゃる。手応えが全くない。似た者は世界に三体いるなどと言われるが、もしや全て斬らないといけないパターンかの」


 ヒトウスキー伯爵はそう呟いて、最後の仕上げとばかり、葉になった影を踏み潰そうとした。


 そのときだ。


 突然、四方から影が立ち上がった。


 自己像幻視アシエルではない。それらには、はっきりとした実体があった。


 とはいえ、ヒトウスキー伯爵の敵でもなかった。実際に、鞘に手が触れたかどうかといった瞬間、


「ぐえっ――!」


 と、四体とも魔核ごと切られていた。


 見事な居合だ。どうやら虫系の魔族のようだった。もっとも、ヒトウスキー伯爵が「ふう」と、一つだけ息をつくと、


「この子は返してもらうよ」


 いつの間にか、飛蝗の虫系魔人ことアルベが眼前に立っていた。その手には葉ほどのアシエルがいた。


「――――!」


 ヒトウスキー伯爵が再度、刀に手を伸ばしたときには、もうアルベたちの姿はそこになかった。


「いやはや、面妖な。これも魔族領の洗礼でおじゃろうか」


 何にしても、ヒトウスキー伯爵は雑魚・・のことなど放っておいて、改めて肝心の赤湯に向き合うことにした。


 湯船に入る前に簡単にかけ湯で汗を洗い流す。


 その上でいったん正座して、ヒトウスキー家に伝わる入浴の儀式――さながら神事のようにおごそかかつ流麗な作法を一通り済ませると、ついにヒトウスキー伯爵は足先でつんつんと湯船を叩き、まずは腰までの半身浴を楽しんだ。


「ほほう」


 この時点ですでにヒトウスキーの心はときめいていた。まるで初めて恋を知った乙女のようだ。何なら一句、赤湯に捧げたい気持ちだった。


「入りたくて、入りたくて、震える、お湯想うほど、熱く感じて――」


 つい恋の歌を諳じてしまったほどだ。


 実際に、これまでも濁湯にごりゆの中で特にこってりとされる泥湯に入ったことがあった。


 だが、そのときはまるで牛乳風呂にでも浸かっているような感じだった。かなり臭かったし、それに湯船に身を沈めているというよりも、どちらかと言うと埋めているといったふうで、心地良さが今一つ足りなかった。


 ところが、この赤湯はどうだろうか――


 同じこってり系だというのに、体にどろどろとまとわりつくといった感じは一切なく、むしろ体にじっくりと染み入るように馴染んでいく。しかも、不思議なことに治らないと思っていた古傷までしだいに癒えていくではないか……


 それだけでもヒトウスキー伯爵にとっては十分な神秘だったわけだが、さらに全身を赤湯に浸からせてみると、まるで母の胎内にでも戻ったかのような、あるいは遺伝子内に刻まれた世界開闢かいびゃくからの経験を一瞬で会得したかのような、もしくは宇宙の神秘ビッグバンでも目の当たりにしてしまったかのような――そんな全にして一たる入浴体験を通じてヒトウスキー伯爵は人知れず涙まで流していた。


 ……

 …………

 ……………………


「いかん。のぼせてしまうところだったでおじゃる」


 入浴の玄人を自負するヒトウスキー伯爵がつい、素人でもやらないようなミスをするほどに、この赤湯は別格だった。


 何なら伯爵領など今すぐ返上して、この温泉宿を仮住まいにしてスタッフとして働かせてもらってもいいのではないかと、真剣に半刻ほど検討したぐらいだ。


「どちらにしても、少し入りすぎたな……」


 こうしてヒトウスキー伯爵はさっぱりの方の赤湯で上がり湯をしてから、身も心も洗われた思いで脱衣所にて衣服を纏っていると、衝立越しに先程の人狼の大将ことアジーンから、


「何か騒がしかったようですが、大丈夫ですか?」

「全く問題ないでおじゃる」

「料理をご用意出来ますが、如何いたしますか?」

「ふむ。まだ夕方より早いぐらいでおじゃるか。とはいえ、せっかくだから軽くいただこうかの」

「畏まりました。それでは宴会場にお越しください」


 そう言われたので、ヒトウスキー伯爵は宴会場に向かった。


 廊下にいる時点からやたらと騒々しいなと思ったら、ドワーフと聖騎士たちが肩を並べて早くも飲んでいた。


 どうやら下らない喧嘩は終わったようで、今度は飲み比べに移ったようだ。どちらにもぼこぼこになった痕があるので、それなりに壮絶な戦いをしたのだろう。


 英雄ヘーロス、モンクのパーンチと団長のモーレツあたりがドワーフたちから特に気に入られているところを見るに、おそらくこの三人が活躍したらしい。


 一方でシュペル・ヴァンディス侯爵はというと、隅っこで横になっていた。モーレツの前任の聖騎士団長とはいえ、さすがに久しぶりの実戦で体が悲鳴を上げたのだろうか。さっきから「うーん、うーん、もう筋肉は嫌だ……あと酒臭い」などと呻っている。


 ヒトウスキー伯爵はそんな喧騒からわざと離れて、宴会場でも端っこの席に行儀良く正座すると、


「お待たせですー」


 と、呑気な声を耳にした。


 どうやらハーフリングの若女将とやらのようだ。接客に慣れていないのか、客との距離感がいまいち掴めていない感じがするが――


「おや……もしや貴殿は?」

「お久しぶりです。モタなのです。駆け出し冒険者時代に何度か会いましたよ」

「そうじゃった。そうじゃった。モタ殿でおじゃった」


 ヒトウスキー伯爵は大袈裟に肯いて旧交を温めた。


 そして、モタがこの第六魔王国にやって来た経緯いきさつなどを聞いてから、やっと食事に手を付ける。前菜としてこの魔王国で採れた野菜の盛り合わせと、先程の赤湯かと見紛うような真っ赤なスープだ。


「うむ。これは美味い!」


 ヒトウスキーはすぐに舌鼓を打った。


 それから、わずかに首を傾げた。盛り合わせのドレッシングといい、スープの味付けといい、どちらもよく知っているように感じたせいだ。というよりも、ヒトウスキーの味の好みに通じた者が作っているといった印象を受けた。


「どぞどぞー」


 次いで、若女将のモタが肉料理を持って来て、わざわざ切り分けてくれた。


 まだ夕方にもなっていないので軽くと要望していたから、適切な分量を見計らってくれるのだろう。なかなか良い心掛けだ。


 しかも、その肉は昼過ぎに倒したばかりの新鮮なジョーズグリズリーだった。これもまた珍味である。この時点で、旧門七大貴族にして趣味人筆頭たるヒトウスキー伯爵による、この温泉宿泊施設の評価は――王国の三ツ星を軽く超えた。


 もっとも、その料理を口に含んだ瞬間、ヒトウスキーの疑心は確信に変わった。


「モタ殿」

「はいはい。何でおじゃるか?」

「この料理を作った者と会うことは可能であるか?」


 ヒトウスキー伯爵が真顔でそう問うと、モタはこくりと肯いて不思議なことに笑みを浮かべてみせた。


 というよりも、実のところ、その料理人はすでにそばまでやって来ていた。モタが廊下に声をかけると、料理長こと屍喰鬼グールのフィーアがおずおずと出てきたのだ。


「やはり、フィーアでおじゃったか!」


 ヒトウスキー伯爵は今日二度目の涙を流した。


 そして、即座に立ち上がると、フィーアが屍喰鬼になっているにもかかわらず強く抱きしめた。


「ヒトウスキー様、お久しぶりでございます」

「うむうむ。ほんに久しいのう」

「実はわたし……死んじゃったみたいで。でも、死因がいまいちよく分からないというか、あまりよくは覚えていないのです」


 フィーアがそう言うと、ヒトウスキー伯爵は深く頭を下げた。


其方そちがそのような姿になったのは全て麻呂のせいでおじゃる。あれは忘れもしない、西の魔族領にある泥湯に入ったときじゃ。当時の麻呂はあまりに若かかった。温泉に入りながら食事をするという不作法をしておったのだ。そのときに大量の亡者どもに襲われた」

「では、私は――」

「うむ。付き添っていた家人が真っ裸の麻呂を守って戦ってくれた。フィーア……もちろんお主もじゃ」


 ヒトウスキー伯爵は顔を上げると、衣服の袖で涙を拭った。それから、真っ直ぐにフィーアの顔を見つめる。


「麻呂は命からがら逃げのびた。所領に戻って来て、多くの大切な家人を失って初めて、麻呂は強くならねばならぬと誓った。そのときからでおじゃる。旧門貴族でありながら、優雅とは程遠い武道に心血を注いだのは……」


 だが、フィーアはそれを聞いて、むしろ「よかった」と呟いた。


「ヒトウスキー様が生きておられたなら、私は満足です。こうして会うことも出来たのですから」

「魔族になったようじゃが……構わぬ。麻呂の領地に戻ってきてはくれぬか?」

「ありがたいお言葉ですが、私はもうすでに新たな王を得ました」

「そうか。第六魔王こと愚者セロ殿か」

「はい」


 ヒトウスキー伯爵は少しだけ悔しそうな表情をするも、「ふう」と小さく息をついた。


「それでは、せめて挨拶ぐらいせねばいけないな」


 その直後だった。


「若様! 俺たちのことを忘れていやしませんかね?」


 その言葉に「はっ」として、ヒトウスキー伯爵が振り向くと――


 宴会場の廊下には幾人もの屍喰鬼グールたちが立っていた。もっとも、屍喰鬼とは言っても、フィーアと同様に魔核を得て、人族とさほど変わらないぐらいに新鮮な肉体になっている。


 もちろん、ヒトウスキー伯爵が忘れるはずもなかった。何しろ、かけがえのない変人、もとい忠臣たちだ。


「貴様ら!」


 ヒトウスキーはぼろぼろと大粒の涙を流した。こうなったら男泣きだ。


 おかげで屍喰鬼になったヒトウスキーの家人たちも、もらい泣きしてしまった。


 実は、フィーアと同様に第七魔王こと不死王リッチに召喚されて第六魔王国まで飛ばされて、やはり赤湯の匂いに惹かれて勝手に入って、イモリたちに捕獲されていたのだ。


「若様……こんなに立派になられて」

「白塗りが落ちていますよ。ほら、若様、しっかり涙を拭いてください」

「何せ、俺たちは変人ばかりでしかたからね。屍喰鬼に変じるくらいでちょうどいいんですよ」

「今は人狼の大将について、家人だった頃のスキルを活かしてここで暮らしています。なかなか良い国ですよ、この第六魔王国は――」


 そんなふうにやはり一風変わった忠臣たちに囲まれて、ヒトウスキー伯爵はこぼした。


「麻呂を……許してくれるのか?」


 すると、フィーアが元家人を代表して答えた。


「許すも何も、私たちが自ら進んでやったことです。だから、ヒトウスキー様が生きておられて本当にうれしいんです。たしかにこのような姿になりましたが、若様を想う気持ちに変わりはありません・・・・・・・・・よ」


 次の瞬間、酔っぱらったドワーフと聖騎士たちがヒトウスキー伯爵とフィーアたち家人を囲んで、「乾杯!」と一斉に声を上げた。


 べろんべろんに酔っ払っているので、ヒトウスキー伯爵家の過去に何があったかはろくに理解していないようだったが、それでも何となく目出度めでたい雰囲気っぽかったのでちょっかいをかけてきたようだ。


 ヒトウスキー伯爵はやれやれと肩をすくめると、「まあ、いいでおじゃるか」と、家人たちに囲まれて一緒に飲み始めた。


 もっとも、宴会場の端っこで横になっていたシュペルはというと、


「明日の謁見とやらは……どうやらもう一波乱ぐらいありそうなんだよなあ」


 と、ため息をついた。


 もちろん、その予想は当たって、シュペル自身が見事な下半身フルティンを披露することになるのだが……


 何にしても、今はこの宴会場にいる全員が人族とか、亜人族とか、魔族とか、あるいは身分なども全く気にせずに、飲んで、騒いで、楽しんでいた。




―――――


猫リッチ「ふふ、計算通り(ニヤリ)」

ドゥ「全ての元凶では……」


ちなみにヒトウスキー伯爵が強いのは、たゆまぬ努力もありますが、曽祖父アプランからの隔世遺伝の影響によるものです。

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