第115話 我が世誰ぞ 常ならむ(砂漠サイド:03)

 第五魔王国を代表する魔族こと、泥竜ピュトン、虫系魔人アルベとサールアームは帝国出身の元人族だが、自己像幻視ドッペルゲンガーアシエルだけ、事情が異なった。


 もっとも、アシエルは生粋の魔族でもなかった。先の三人と同様に、第五魔王こと奈落王アバドンが呪われたのをきっかけに、魔族に反転したわけだが――


「私にはなぜか……三人のように帝国時代の記憶がない」


 アシエルはそう呟くと、底深い眼差しで遠くを見つめた。


 今、アシエルは第六魔王国に潜入するべく、ちょうど王国最北の城塞までやって来ていた。


「そう。記憶だ。何もかも全てが遠くにあるのだ……」


 そんなふうに独りちると、これから北の魔族領に入ろうとしている聖騎士団と二台の馬車を岳の突端から見下ろしながら、アシエルはふと物思いに沈んだのだった。






 三人の同僚が帝国時代から天使アバドンに仕えていたのに対して、自己像幻視ドッペルゲンガーアシエルの最初の記憶に出てくるのは――泥竜ピュトンの姿だった。


「あら、まあ……こんな醜い姿で生じてしまったのね。私と一緒よ」


 動物が初めて声を耳にした者を母とみなすように、アシエルもまたピュトンをすぐに慕った。


 そのときのピュトンは巫女服を纏って、皮膚もほとんどただれていて、もとの美しさはすでに損なわれていたが、アシエルには不思議と信頼に足る女性だと安心出来た。


 周囲を見ると、どうやら薄暗い石室で横たわっているようだった。そんなアシエルに対してピュトンは、か細い片手を差し伸べてきた。


 アシエルはその爛れた右手をじっと見つめた。そして、またぼんやりと周りに視線をやった――


 ここはまるで寂れた玉座の間のようだ。埃や塵は一つとして落ちていなかったが、ずいぶんと年季だけは降り積もっている。


 さらに背後に視線をやると、そこには両開きの巨大な鉄扉まであった――


 あまりにも重々しくて、アシエルは息苦しさを感じた。何か封じられているのだろうか。アシエルには、その部屋が純一無雑で虚無にも等しい棺みたいに見えた。


「ここは……どこだ?」

「第五魔王国の玉座。貴方の知ろしめす場所よ」

「私は……いったい、何者だ? これはどういうことなのだ?」


 アシエルはそう尋ねてから、自らの手足に視線を落とした。


 なぜか黒と白のブロックノイズが走っていた。まるでここに存在してはいけないモノのように――


 直後だ。


 アシエルは強烈な自己同一性アイデンティティの危機に陥って、つい片手を額にやった。


 しかも、ピュトンの答えはその疼きに拍車をかけるものだった。


「貴方が何者かと言うならば、まだ何者でもないわ。そもそも、何者になれるわけでもないしね」

「禅問答のつもりかね?」


 そんな返しがすぐ口をついて出てきたことにアシエル自身が驚いた。


 実際に、ピュトンも「はっ」として、中途半端にひざまずいてみせると、アシエルを見つめる視線が揺れていた。


 同時に、アシエルはまた思い出していた――


――両手の鳴る音は知る。

――片手の鳴る音はいかに?


 たしか、どこかの読み物で知った禅の公案だったはずだ。


 とはいっても、アシエル自身、何の読み物だったか全く思い出せなかった。


 というよりも、誰が書いたものか、どこでいつ読んだのか、そもそもからしてなぜ読んだのか分からなかった。読み物自体がいったい何なのかさえも。


 アシエルはノイズ塗れの両手で頭を抱えたくなった。思い出すという行為が、さながら生前の記憶を強引に遺伝子情報から抽出する作業のように無為なものとして感じられた。


 記憶とは、こんなにも遠く、果てのないものだったか……


 すると、ピュトンがアシエルを立たせるように寄り添ってから耳もとで囁いた。


「残念ながら、その禅問答とやらについては詳しく知らないのだけど……貴方に何が起こっているのかという質問になら、ある程度は答えられるわ」


 その声は宙から垂れる、蜘蛛の糸のようだった。アシエルはその慈悲にすがった。


「ならば、教えてもらいたいものだ」


 このとき、アシエルは明確な答えを欲していた。


 何かはっきりとしたものにすがりつきたかった。もしピュトンが聖母のような顔をして、たとえ嘘八百並べたてたとしても、そのやさしさを容易に信じたことだろう。


 もっとも、ピュトンはその着衣の通り、巫女らしく真摯に教えてくれた。


「貴方は三人目・・・なのよ」


 が。


 その答えは意味不明に過ぎた――


「三人目だと? 家族の数ということか? 私以外に兄弟が他に二人いるのか?」

「違うわ。まあ、家族と言うか、信頼出来る仲間ならすでに私も含めて三人いるけどね」

「意味が分からない。もっと分かるように教えてくれないか?」

「つまり、貴方自身が三人いるのよ」


 このとき、もしアシエルの顔にノイズが走っていなかったなら、ピュトンは何とも不可解で珍妙な表情を直視することになっただろう。それこそ語り草になるような顔つきだったはずだ。


「私が……三人いる?」


 鸚鵡返しだったが、ピュトンは面倒臭がらずに説明を続けてくれた。


「ええ。世界にはよく似た者が三人いると言うでしょう。それと同じことよ」

「…………」

「一人目はあの鉄扉の奥にいるわ。影となって、苦しむあの御方を今も支えているの」

「影?」

「そうよ。単刀直入に言うと、あの御方を犯す瘴気が膿んでいって生まれたのが貴方たち・・・・というわけ」

「私が膿みだと?」

「以前は蝗害として、広く、無数に、かつ一斉に生じたのだけど、あの御方が封印されてからは、そのわずかな綻びからまとまって、ぼとりとこぼれるようになったわ」

「先ほど、私たち・・・と言ったな」

「そうね。言ったわ」

「では、二人目というのは?」

「…………」


 今度はピュトンが頭を横に振って、沈黙する番だった。


 どうやらアシエルが生じる以前に消失してしまったらしい。そのぐらいはアシエルでも察することが出来た。


 何にせよ、影とか、膿とか、三人目とか、とりとめもない話だったが、アシエルは不思議と、ある程度納得することが出来た。アシエルは、とある方の影から生じた、自己像を持たない幻視のようなものに過ぎないのだと――






「さて、今回は何者になろうかな」


 アシエルは山間にある王国の城塞を見下ろして呟いた。


 今となっては、アシエルは自身のことを沼に例えて認識していた。アシエルには殺した者や新鮮な遺体を完全に・・・複製出来る種族特性がある。


 おそらく蝗害だった頃の特性を継いでいるのだろう。いわば、視界を覆うブロックノイズ――共食いをしながらも増幅していく虚無の群れこそがアシエルの本質だ。もちろん、この沼には虫以外にも多数の人族や魔族も埋まっている。


 最早、アシエルは自らに問い掛けることもしなくなった――


――両手の鳴る音は知る。

――片手の鳴る音は消失した。

――そして、無手の鳴る音は、今、世界に轟く。


 アシエルは若き聖騎士の一人のもとにこっそりと降り立つと、その者を悲しみさえ鳴かさずに沼の奥底へと沈めていったのだった。




―――――



幻視アシエルだけに掴みどころのない話ですいません。今回はパスティーシュのパッチワークみたいなものです。


まず作中で出てきた『どこかの読み物で知った禅の公案』ですが、サリンジャーの『ナインストーリーズ』(新潮文庫)の冒頭に出てくる挿入句として有名です。


また、なぜアシエルがサリンジャーを読んだことがあるのかについては、第三章に入って、天族と魔族に関する話が出てきたときに分かりますので、しばしお待ちください。


ちなみに、サブタイトルは『いろはうた』、蜘蛛の糸は芥川龍之介といったふうに、今話は他にも幾つか古いものから引用しています。

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