第108話 若女将(後編)

 モタは腕まくりをした上で、両頬をパンっと叩いて気合を入れた。


 そして、屍喰鬼グールのフィーアの料理が出来上がるまで、少しでも時間を有効活用しようと、いったん宿を出てから、「よし、やったるぜい!」と自らを奮い立たせて、一意専心――


 狼煙・・を上げた。


「…………」


 フィーアから藁をもらい、掘った穴に入れて、火を起こしてぼんやりと宙を見る。


「んー、ダメだなー」


 もくもくと煙は上がるのだが、想定以上に風が強くて、一気に流されてしまった。


 モタはあまり得意ではない風系の魔術によって、風向を調整しつつ、ついでとばかりに煙で文字を作ろうと試みる――もちろん、メッセージは「たすけて」だ。


 魔王城にいる誰かが見てくれると信じて、生活魔術『そよ風ブリーズ』によって煙文字を整えてみるのだが……これがなかなか上手くいってくれない。


 そもそも、モタは大規模な魔術を扱って暴発させるのは得意だが、こういう細かい微調整は滅法苦手なのだ……


 本当ならこの空き時間でも利用して、スタッフを探しに行きたかったのだが、ドワーフたちの入浴時間が長いのか、短いのか、さっぱりと予想がつかない上に、急に声掛けされる可能性だってある。


 だから、モタは赤湯の外壁のすぐそばで、渾身の思いを込めて、「たすけて」と狼煙を上げ続けたわけだ。


「誰か見てー」


 もっとも、モタは煙に巻き込まれて、「ごほ、ごほ」と、それこそ落ち武者みたいになってしまうのだが……


 結局、気合いは全て空回りしてしまったのだった。


 その一方で、お客のドワーフたちはというと、赤湯を前にして呆然としていた。


「これは紛う方なく、『地獄風呂』ではないか……」


 若女将の話を信じていなかったわけではないが、てっきりお湯に含まれる鉄分が沈殿して、湯床が錆びて赤くなっている程度だろうと思っていた。


 だが、これは違う。お湯そのものがまるで血のように赤く濁っているのだ。


 見るもおぞましい赤々しさだが、それだけにドワーフたちの心はこの焼けるような炎獄にすでに囚われていた――


 そもそも、かつて古の大戦にて火竜が血反吐をはいたときに『地獄風呂』が出来たと伝承にあったから、その存在だけは祖先から知らされてきた。


 とはいえ、まさか同じようなものを生きているうちに見られるとは……いや、この身を委ねることが出来るとは……と、ドワーフたちは全員、眼前の光景に対して涙に咽んでいた。


 しばらくの間、両手で赤湯を拝んで、次いで皆で三跪九叩頭の礼までして、入浴前の行水もしっかりとしてから、


「では、入らせていただくか」


 と、恐る恐る足先を入れて、それから全身を浸からせてみる。


 ……

 …………

 ……………………


 一瞬だった。


 その刹那でドワーフ全員が絶頂に導かれた。この時に命果ててもいいとさえ思ったほどだ。


「まるで母に抱かれた赤子のような気持ちだな」


 当然のことながら、温泉大国である『火の国』で生まれ育ったドワーフたちは温泉に一家言ある者たちばかりだ。


 王国を代表するヒトウスキー伯爵ほどではないが、数々の秘湯にエクストリーム入浴することが大人への通過儀礼になっている可笑しな種族でもある。


 そんなドワーフたちがこの赤湯にいとも容易く心から何から全てを奪われた――


 気のせいだろうか。ちりぢりだった黒い長髪や顎髭がさながらストレートパーマでも当てたかのように、さらっさらのつやつやになっている。


 そのおかげで落ち武者だったのが、今ではきれいな貞子ぐらいに進化していた……


 さらに天にも昇る気分で宙を見上げてみると、狼煙らしきものがあった。


 その煙が様々に形を変じている。何かのパフォーマンスだろうか。どうやらあれは文字のようだ。


 たすけ……いや違う、あれはきっと――たのしーナ、すけすけ、てナニ、すし、ナン。


「ううむ。いまいち分からん」


 だが、まあ趣向としては面白かった。


 何となく雅な風流すら感じられて、無骨なドワーフたちはそんな趣きにも十分に満喫した。


 そして、小一時間ほどして温泉からほくほくで上がったドワーフ代表のオッタはすぐに廊下で若女将ことモタに出会った。


「お食事が出来ておりやす」


 何だか少しやつれているようにも見えたが、オッタは礼を言った。


「それは助かる。長旅で腹が減っていたのだ」

「順に出しますから、こっちの宴会場で待っていてくだしゃい」


 モタはそう言って、とぼとぼと調理室へと入っていった。


 少なからず客人に対して無礼な態度ではあったが、オッタたちドワーフは赤湯で感動していたので気にも留めなかった。


 ただ、そんなモタの気落ちも仕方ない。何せフルコースを二十人分だ。片手で一つずつトレーに乗せて持っていったとしても、モタ一人だと一品だけでも十往復だ。


 台車などはどこにもなかった。そもそも、吸血鬼は普段はモタ以上に寝ているくせに、起きているときは血の多形術などで器用な種族だ。


 もたもた・・・・していたら料理が冷めてしまうし、せっかく味方してくれているフィーアに申し訳ない。こんなことなら師匠のジージからきちんと風魔術の『浮遊』でも学んでおけばよかったと、モタは後悔した。


 たしかにジージの言う通りだったのだ。魔術の研磨に近道はない。これからは時間を無駄にせずに努力しようとモタは心に固く誓った。


 そんなこんなはあったものの、モタはまず前菜二十人分を何とか運び込んだ。


 魔女には不得手の肉体労働だったが、やれば何とかなるものだと、モタも「ふう」と一つだけ息をついた。


 もっとも、戦いはまだ始まったばかりだ。これから次第に料理もボリュームが増えてくる。モタはつい暗澹たる思いに駆られた。


 さらにドワーフ代表のオッタがモタに声を掛けてくる。


「ところで、若女将」

「何でござりまするか?」


 モタは若女将と呼びかけられたことに対して否定する余裕すらなくなっていた。


「第六魔王様とはいつ頃、謁見出来るのだろうか?」


 モタは「うげ」と呻った。


 狼煙の効果もなく、モタはセロと連絡も取れていない。そんなことがバレたら今度こそ外交問題だ。さて、どうするかとモタはオッタの前でおたおた・・・・した。


 が。


 そのときだった。


 捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので――


「モタいるー?」


 と、声が聞こえたのだ。夢魔サキュバスのリリンだった。


 モタはドワーフ代表のオッタに「ちょいと失礼」と言ってから、玄関にそそくさと駆けていくと、リリンを見つけてその胸に飛び込んだ。


「リリンんんん!」

「おおっと! いきなりどうしたのさ?」

「大好きー」

「へ?」


 いきなりの告白に戸惑うリリンだったが、モタの顔は涙と鼻水塗れでそれはもうひどい有り様だった。何はともあれ、リリンを押し倒したモタの目はギラリと異様に煌めくと、


「というわけで、いいからセロを呼んできて!」

「はい?」

「ドワーフが団体さんで外交に来ているの! ほら、立って、出て、そう! 魔王城の方をきちんと向いて!」

「おいおい、急に何だというんだよ」

「リリンなら大丈夫! じゃあ、行くよ!」


 リリンはすごーく嫌な予感がしたが、気がついたときにはモタの風魔術の暴発・・で魔王城まで吹っ飛ばされていた。こういうのだけはモタは本当に得意なのだ。


「ぎゃあああああ!」


 そんなリリンの絶叫が宙を舞ったので、さすがにセロたちも気づいたわけだが――


 頭から魔王城の広間に突っ込んで、見事に着地に失敗したリリンが気を失ってしまったせいで、結局のところ、救援が温泉宿泊施設にやって来たのは、さらに一時間が過ぎた頃になった。


 もちろん、その間モタが何とか若女将を演じたのは言うまでもない。こうしてモタの就職活動はインターンシップを通じて本人の望まない業界で大成功したのだった。

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