第48話 最低最悪の可能性

 ルーシーは特に邪魔することもなく、勇者バーバルがダークエルフの双子ことドゥの後を追いかけるようにして走っていったのを見届けた。


 聖女クリーンもその後姿にちらりと視線をやってから、自らを鼓舞するかのように声を張り上げた。


魔王・・ルーシーよ! 貴女にはしばらくここでじっとしていてもらいます!」

「ふむ。理解出来ん。なぜわらわをこの場所にいさせたいのだ?」

「もちろん、バーバル様がセロ様と会うのを邪魔させない為です」

「そうか。ならば、これはいらないな」


 ルーシーはそれだけ言って、『聖防御陣』にそっと触れた。


 次の瞬間、パリン、と――薄い氷でも割るかのようにして、『聖防御陣』はルーシーの指先一つだけであっけなく砕かれていった。


「そんな馬鹿な!」


 聖女クリーンは愕然とした。


 この『聖防御陣』は本来、魔物モンスターの群れや魔族たちを押し返すだけでなく、魔王を押しとどめる為に歴代の聖女が長い年月をかけて改良してきたものだ。それがこんなにも簡単に破られるとは……


「そもそも、妾は二人の邪魔をするつもりなど全くないぞ」


 ルーシーはそう告げると、聖女クリーンにゆっくりと近づいた。


「邪魔をしないとは……いったい、どういうことですか?」

「セロからは、勇者バーバルは同郷で幼馴染だったと聞いている。二人にしか分からない話も沢山あるのだろう。好きに語り合えばいいのだ」

「何を悠長なことを言っているのです! 先ほど、バーバル様はセロ様を討つとまで言ったのですよ!」


 聖女クリーンはほとばしるように叫んだ。


 何度も念を押したからセロを殺すことはないと信じたいが、少なくとも無力化する為に多少の危害は加えるはずだ。そのことをルーシーは本当に理解しているのだろうか?


 クリーンはそこで頭を横に振った。いや、所詮は魔族か。仲間意識など欠片も持たないに違いない。


 だが、ルーシーは「ふん」と鼻で笑ってみせる。


「あの程度の小物では、セロに傷一つも付けられるわけなかろう」


 聖女クリーンは耳を疑った。


 何かの戯言かと思いたかった。たしかに魔王ルーシーから見れば、今の勇者バーバルはいかにも小物に見えただろう。


 それでも、勇者パーティー時代のバーバルとセロとの力量差はほとんどなかったはずだ。よしんば魔族に転じて暗黒司祭になっていたとしても、王国の至宝である聖剣を有しているバーバルの方が有利なのは確かだ……


「…………」


 聖女クリーンはしばらく無言になった。


 どこか嫌な予感がしたせいだ。額から冷たい汗がつうと下りてくる。


 先ほどからルーシーはいかにも余裕綽々だ。ということは、セロは実際に強くなったと考えるべきなのかもしれない。


 暗黒司祭からさらに進化して、もし『愚者ロキ』の称号を得てしまったのだとしたら、たしかにバーバルでは手に負えないかもしれない。


 ただ、それはいかにもおかしい。セロが『愚者』になったなら、それは古の魔王の力を継いだことになる。そんな実力者を魔王ルーシーが見逃すはずがない。魔族は戦いに明け暮れる種族だ。同じ領地で両雄が並び立つことは決してない。


「あるいは逆に考えると――」


 聖女クリーンは呟いた。


 魔族になったばかりのセロが魔王ルーシーに屈している可能性もあるわけか。


 何にしても、クリーンが幾ら考えを巡らせても答えは全く出てこなかった。しかも、そんなふうに考え詰めていたせいか――


 気が付くと、クリーンの眼前にはデコピンがあった。


「え?」


 それが放たれると、聖女クリーンは「ギャアアア!」と百メートルほど吹っ飛ばされていた。


 数瞬ほど意識を失いかけたが、何とか自身に法術で『完全回復』をかけて、またもや聖杖で体を支えるようにして、生まれたての仔鹿みたいによろよろと立ち上がる。


 すると、ルーシーが悠然と近づいて来た。


「忘れていたのか? 今は戯れの最中だぞ」


 冗談じゃないと、聖女クリーンはさすがに怯んだ。


 足止め程度ならまだしも、こんな化け物相手にたった一人で戦えるはずもない。


「お待ちください! 魔王ルーシー様!」


 聖女クリーンはそう叫んで、どうやって時間を稼ごうかと考え始めた。


 ただ、先ほどのデコピンで脳震盪でも起こしたのか、意識がしだいに朦朧としてきた。法術による完全回復とはいっても、体内に蓄積されたダメージはどうしても残ってしまう。


 一方で、ルーシーは何だか釈然としない顔つきをしていた。


「ところで、先ほどから貴方たちはどうにも勘違いしているようだから一応言っておくが、妾は魔王ではないぞ」


 それを聞いて、聖女クリーンの頬はピクリと引きつった。


 意識がぼんやりとし過ぎて、どうやら可笑おかしな虚言が聞こえてきたようだ。そもそも、これほどの力を持ったルーシーが魔王でなくて、いったい誰が王を名乗れるというのか……


「この北の領地を治める魔王はセロだ。先日、新しい第六魔王として立った。哀しいかな、妾の実力など、その足もとにも及ばない。まあ、同伴者パートナーとして認めてもらってはいるがな」


 聖女クリーンは額に片手を当てた。


 ズキズキとひどい頭痛までしてきた。本当に戯れが過ぎる。幾ら戯言だとしても、もう少しマシな嘘をついて欲しいものだ……


 が。


 ちょうどそのときだ。


 宙から妙な者・・・が下りてきた。


 背中に鉄製のリュックを背負って、そこから火が噴出している。襤褸の白衣を纏った長身で痩せぎすの女性だ。


「…………」


 次の瞬間、クリーンは言葉を失った。


 体から魂が抜けていくようにも感じた。冷や汗どころか、大量の汗が体中から噴き出しているのが分かった。それほどの威圧感プレッシャーを受けたのだ。


 この者もまたとんでもない化け物だった。ルーシーと比肩出来る魔族だと言っていい……


「おや? いったい何をしにやって来たのだ、エメスよ」


 そんなルーシーの問いかけを聞いて、聖女クリーンはギョっとした。


 大神殿で埃を被っていた古い文献で見かけたことがあったからだ――かつて人族の領土のほとんどを滅ぼした古の魔王こそ、人造人間フランケンシュタインのエメスだった、と。


 そのエメスはというと、クリーンには目もくれずにルーシーに答えた。


「二つあります」

「ほう?」

「一つはこのロケットの実験テストです」

「ふむ。何やら面白そうだな。後で妾も使いたいぞ」

「構いません。それともう一つは、先ほどイモリたちから苦情を受けました」

「苦情? やれやれ。いったい何をやらかしたのだ?」

自動撃退装置かかしの威力が強すぎて、畑に被害が出る可能性があるそうです。セロ様にこってりと絞られたので、早速、こうしてその調整にやって来ました。終了オーバー


 聖女クリーンはそろそろ考えることを止めた。


 もしかしたら、たちの悪い夢でも見ているのかもしれない……


 というか、人族大虐殺を果たした古の魔王と同じ名前の強者が、たった今、たしかにセロのことを様付けした。そういえば、ルーシーだってセロの方が強いと言っていた。ここにきてやっと、頭のとても固いクリーンにも、最低最悪の可能性が見えてきた――


 もしかしたら、セロはこの地でとっくに魔王になっていて、さらに魔王級のルーシーとエメスを従えているのかもしれない。もっと言うならば、ダークエルフも? そして人狼も? 何より、この畑にいる凶悪な魔物たちまでも?


 クリーンはひどい頭痛のせいでついに目が回ってきた。


 とんでもない化け物の国家が、いつの間にか、王国の北に生まれつつあった。


 結局のところ、クリーンは初めから選択を誤っていたわけだ。現時点ではセロを討つことなど不可能だ。もちろん、連れて帰るなど論外だ。本来は毛布にでもくるまって、部屋の隅でがくがくと震えながら、魔王の気紛れという名の災厄が過ぎていくのを待つしかなかったのだ。


「セロ様とバーバル様を会わせてはいけない」


 直後、聖女クリーンはそう呟いて一目散に駆け出した。


 逃げたわけではない。勇者バーバルを止めなくてはいけないと思った。というか、セロに少しでも無礼を働いたら、それこそ王国どころか人族が全滅する。


「お願いだから、余計なことだけはしないで……」


 こうしてルーシーとエメスが他愛のない会話をしている最中に、聖女クリーンはひどい頭痛と、急にちりちりと痛みだした胃も手で押さえつけながら、セロとバーバルのもとに一目散に走っていったのだった。

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