男と絵

ふさふさしっぽ

男と絵

 日曜日の昼下がり。中学三年生の七七三ななみは家の近くの公園を散歩していた。受験勉強の合間に少し気分転換しようと思ったためだった。

 大した遊具もなく、真ん中に小さな池とベンチがあるだけの、こじんまりした公園には、あまり人がいなかった。一月の半ばで、とても寒い日だからかもしれない。

 たったひとつの古いベンチに腰かけると、池の方を向いて絵を描いている一人の男がいた。イーゼルにキャンバスを立てかけて、本格的だ。いつのまにあんなところにいたんだろう? さっきまで誰もいなかったような気がするけれど。七七三は不思議に思って、何気なく男に近づいた。

 七七三は普段、人見知りをする質の女の子だ。いつもなら、そんな行動は起こさないはずなのだが、なぜか、男が描いている絵が気になって仕方なかった。後ろを通りすぎる振りをしながら覗いてやろうと思った。


 七七三が男に近づくと、突然男がこちらを振り返った。美男子だった。思わず七七三は、


「こ、こんにちは。何を描いていらっしゃるんですか」


 と、男に質問した。男は、


「貴方、私が見えるんですね。子供だからかな」


 と、七七三の質問には答えず、首をひねった。十五歳の七七三は「子供」と言われて少し面白くなかった。ムッとしながら、何気なくキャンバスに視線を落とす。どこか、外国の街の風景のようだった。てっきり公園の風景を写生しているのだと思っていたから、意外だと思って、気がつけば、じっと見つめてしまっていた。


「気になるんですか、この絵が」


 学校の廊下みたいな、取り立てて特徴のない、平坦な口調で男が七七三に聞いた。


「ごめんなさい、つい。何だか吸い込まれてしまうような気がして」


 実際七七三はキャンバスの絵の中に落ちていくような感覚を覚えた。


「吸い込まれないようにして下さい。修復中ですから」


「修復中?」


「ええ。貴方はさっき何を描いているのかと、私に問いましたね。私は描いているのではなく、修復しているのです。世界を」


「世界?」


「この絵の中の世界ですよ。世界の外から世界を修復する……それが私の仕事なんです」


 急にこの男がうさん臭く思えて、七七三は一歩、後ずさった。絵の中にもう一つの世界がある……ファンタジー小説の設定みたいだ。絵の中に吸い込まれちゃって、その世界の王子さまと恋に落ちたりして。だけど所詮王子は絵の中の人。もとの世界に帰るか、絵の中の世界で王子と暮らすか、悩んじゃったりして。


「低次元の世界から、高次元の世界を修復するのは大変です。だけど、今のところ、これしか方法がないんですよね」


 はっと、七七三は我に返った。いけない。妄想の世界に入ってた。たまに私、こうなっちゃうんだよね。受験勉強中でも。悪い癖だとは思うんだけど。


「この絵の中の世界が壊れたら、おのずとこちらの世界も意味を失くしてしまう。重要な作業です」


「ちょ、ちょっと待って」


 筆がのって来たのか、男は少し弾んだ口調で勝手にしゃべりだした。七七三はその男の言葉が引っかかった。


「なんだか、絵の中の世界の方が重要な世界……上の世界のように聞こえるんですけど」


 さっき、こっちの世界を低次元、絵の中の世界を高次元って言った?

 七七三は納得いかなかった。絵はこの男が描いて生み出したもののはずだ。絵をどうするかは男に委ねられている。故に、こっちの世界のほうが高次元のはずだ。


「あったりまえじゃないですか!」


 男は突然振り向き、よく見れば青みがかった瞳を見開いて、七七三に叫んだ。七七三はびっくりして、その場に尻もちをついてしまった。


「これは失礼」


 男は急に冷静になって、七七三を助け起こしてくれた。男の手は生ぬるくて、妙に柔らかくて、なんだか気持ちが悪いと七七三は思った。軟体動物みたい。


「重要なものは中に中に、隠すものですよ。この絵の中の世界にも、絵があり、その絵の中にも、絵があり、その絵の中にも絵がある。そして絵の中に行くほど、世界の要ともいえる、重要な世界だ。……それが世界の在り方ではないですか。なるほど、この次元の人々は、知らないのですね」


 男が七七三を憐れんだ目で見たので、七七三は悔しくなった。


「あ、貴方が、その世界の在り方とやらを知ってるってことは、貴方は絵の中の世界――、高次元の人間だって言うの」


「そうですよ。僕はこの絵の中の人間です。たまに出てきて、外から世界の修復をするのが仕事なんだ。この世界には、そういった仕事が、ないのかい?」


 明らかに小馬鹿にしたような男に、七七三は腹を立てた。けれど心の中では冷静に嘲笑もしていた。


 この人、頭がおかしいんだ。


 こんな人気のない公園で絵を描いているくらいだもの。もう、かかわるのはやめて、帰ろう。


 そのとき、突如凄まじい風が吹いて、イーゼルが倒れた。


「しまった!」


 男がそう言ったときには遅かった。キャンバスは突風に飛ばされ、宙を舞い、池にべしゃりと落ちた。池の水は澱んでいて、キャンバスをみるみる浸食していった。


 七七三の意識はそこで途切れた。もう、そこには、何も――何も、なかった。

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