第3話[EP.Winter 後編]

「秋ぃ、おはよ〜」


朝の暖かな日差しがさす教室の中、体躯の良さげな長身が視界に入る。見上げれば、赤茶の髪色の好青年、縹夏人はなだなつとが目の前に立っていて挨拶していた。


人柄が良く、気さくで打ち解けやすい性格を有しており、文武両道、お手本のようなクラス内のリーダー的存在である。男子なら夏人、女子なら陽、といった風だ。


ちなみに3人目の喫茶研究部の部員である。


今回は珍しく、目がしぱしぱしている様子だ。

「おう、夏人か、おはよう……なんだか眠そうだな」

「あぁ、ちょっと夜中にCOCコスモス・オア・カオスをやっててな」

と言いながら「ふあ」と大きなあくびをする。


COCとは最近話題になっているVRバトルロワイヤルゲームの名前だ。4〜5年前には既に発売されていて、着々と人気とブームを伸ばしている、みたいな話をテレビか何かで見た気がする。幾つかの学校ではそのゲームを通じた部活動も存在するくらいで、うちの学校の今年の体育祭にもeスポーツ部門として入っている。

夏人に限らずクラス内でもその話で盛り上がるほどだ。寝不足になるまでやり込むくらいなんだからきっと面白いのだろう。


「今日、部活は?昨日も来なかったし」

「すまん、今日バイトがあって行けないんだ。ホントごめん」

「そっか。ま、気にすんな」

「……何か考え事か?あれか、部活のことか?」

「まぁな、そんなとこ」


機械的に返答しつつ、頭ではずっと思考を回し続けていた。

–––白神さんに見えている選択肢。

俺が白神さんに提示した選択は、一言で表すと『受容』。


一方で、それ以外のルートとはなんなのか。

『–––怖い、からです』


確かに彼女はそう言った。


怖い、つまり恐怖……恐怖心。

漠然とした不安よりも、より具体的な、より明確化された感情。

『恐怖』というワードに沿って考えてみる。


受け入れることにより、何かを失うリスクを彼女は何よりも恐れている。

『何か』とはおそらく、人間関係だとか、自分を描く人物像だったりとか、とにかく対人関係の線が濃厚。


白神さんの別ルート。

ここにきて特殊な道筋の可能性は低い。

ならば答えはその逆。


–––『普通』。


平凡で在ること。

一般的。

悪目立ちをしない唯一の方法。

多数派であり、少数派ではない。

一定の水準を満たしており、可もなく不可もなくの正常値。

黒く濁った異常性を排し、どこまでも透き通るほどの常識という真水。


おそらくこれが、白神深冬の持つもう一つの選択肢。


『名推理だけじゃ答えが出ない、なんてこともあるしな』

陽の言葉を思い出す。


答え合わせをし、それが当たったところで、それがどうした。

これらのピースを効果的に使わなければ、意味はない。

知識はあればいいというものではない。

それらはガラクタにもなれば、超高性能な万能ツールにもなり得る。


俺は万能道具マルチツールを開発すべく、質問を投げかける。

「なぁ夏人、普通ってなんだと思う?」

「…はぁ?なんだそれ、哲学か?」

うーん、と考え込むように首をひねる。

こういう変な質問に対しても、真面目に考えてくれるのが夏人の人の良さを表している。


「…まー当たり前なこととか常識的なことじゃないのか?逆に言えば誰にとっても異常では無いものっつーの?」

「……やっぱ、そういうもんだよな」

概ね予想通りの返答だ。


「じゃあさ、どこからが普通とどこからがそうでないものになるのか、分かるか?」

「んー……」

常識と非常識、この2つは全く相反するものだが、この2者の明確な境界線とは何処なのか。

人によってその答えは変わるだろうし、国や文化が違えば、より複雑になってくる。

自国の当たり前が他国の当たり前とは限らないのだ。


肩をすくめながら、お手上げといった風に夏人が口を開く。

「いんや、全然わかんねーや。そういう秋はこれの正解が分かるのか?」

俺は「いや」と首を横に振りながら結論を述べる。

「俺独自の答えなら出せるけど、その解答を皆が納得するかどうかはまた別の話だな」

「この質問、もし陽にしたら、間違いなく答えられるよな」

「それは違いない」


陽の場合、自分ルールをなんの躊躇いもなく、展開することが予想できる。

特段、彼女はそれを無理に他人に押し付けることはあまりないので、それだけが唯一の救いではある。

ただ、構えてるだけなのだ。

白神さんもこれくらい堂々とすることができれば、あんな風にはならなかったのだろう。


「–––まぁでも、お前らを見てると、そういう才能とか羨ましく見えるけどなぁ」

「…………それは多分、隣の芝生は青く見えるってやつだよ」

「んん……そういうもんかなぁ?」

どうもやるせないといった様子だったが、一応自分の中で踏ん切りが済んだのか、夏人は話題を転換する。


「にしてもそこまでしてなんで他の人、全くの赤の他人を助けるんだ?別に友達だからとか、その人が好きな子だからとか、そういうのじゃないんだろ?」

「……まぁ、そうなんだけど……案外こういうのが向いてるのかもしれないな」

「最初の頃はめちゃくちゃ嫌そうだったけどな」


うるせ、と軽く毒づきつつも、自分からそういう言葉が出たことに自身が一番驚いていた。

存外、情熱ややる気は自分の中にではなく、外側にあるのかもしれない。

やってみたら楽しいかも、という心構えはモチベーション的にも確かに良いだろう。


それに、とさらに付け足す。

「俺も………陽が思い描く理想郷を見てみたいって思ったんだ」

「それを聞けば、陽は喜ぶと思うけど?」

「アイツは図に乗るから伝える気はない」

こんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。


「お前こそ、陽に伝えなくていいのか?」

これだけを言えば、なんのことか夏人には理解できただろう。

夏人の気持ち。


「今はまだ…ってとこかな。ま、そのうち伝えるさ」

青春してんなぁ、としみじみ思う。


––––予鈴のチャイムが鳴る。

生徒たちがいそいそと、それぞれの席や教室へと忙しなくガヤガヤと動き出す。


「参考になったか分かんないけど、これでいいか?」

「あぁ、ありがとう」

「…まぁ、あんま気負いすぎるなよ。熱が出て病院送りにならないようにな」

「気ィ付けるよ」


–––さて、

「話をしないとな」


・・・


–––決意を固め、気付けば昼休み、

「白神さんっ」


隣の教室、そこで1人お弁当を食べている白神さんを呼びかける。

声を出したことにより、周りからの視線が集まり少し不愉快ではあるが、今はなるべく気にしないようにする。


とてとて、と小動物のようにこちらに駆け寄って来る。

「話があるんだ。あ、今すぐってわけじゃなくて……今日の放課後、部室に来てくれないか?」

「あ、はい……分かり、ました……」

突然のこともあるのか、目をパチクリさせ面食らった顔をしている。


伝えることは伝え自分のクラスに戻ると、陽は昼食のパンを頬張りながら、俺の方に親指を立てグッドサインを出していた。


–––そして放課後、


「あ…秋さん、こんにちは」

「おう、白神さん、いらっしゃい…」


部室に入ってきた白神さんは、身にまとっているカーディガンのフードを深めに被っていた。

ぎこちない挨拶を済ませ、座るよう促す。


「そういえば陽さんは……?」

「あー、今日は用事があって来れないらしい。何かあったか?」

「いえ、そういうことではないですけど、気になったので」


そんなやり取りを交わしながら部活恒例のコーヒーを、淹れる準備をし始める。その最中に、白神さんが興味を持つかと思い、喫茶きぶしのオリジナルブレンド豆を使うことを説明したが、

「そうですか」

と目を逸らしながらそれだけを言い、この前と違いあまり関心を惹かなかった。


…湯気が立ち上るコーヒーの豊かな香りのする中、話の火蓋は早々に切られた。

「それで話ってなんですか?」

「気になることがあって」


カップを持ちながらそう切り出す。

「怖いって、前にそう言ってたよね?」

白神さんはコーヒーを飲みながら、こくりと無言で頷く。


「何に対して、なんで怖いと思うのか、その詳細を聞かせてほしいんだ」

「それを聞いて、どうするんですか」

「そりゃあ、白神さんの悩みを解決させるのがこの部活の目的だ」


色々と考えは巡らせたものの、やはり本人から直接理由を聞き出さないことには何も始まらない。まわり道にはなってしまったが、この問題は明確にする必要があった。

「………」


話したくないならまわれ右をして帰るという選択もあったと思うが、数時間にも感じられるほどの沈黙した時の中、ついに白神さんが発した。

「私は…」

カップを握る手が、少しだけ力んでいるように見える。


「私は『受け入れる』ことができるのかもしれない。けど本当の私を、他の誰かが、こんな私を受け入れてくれるのか分からなくて……」


言葉が、想いが溢れ出る。


「色々考えたりもしました。秋さんの言ってたこともけっして間違いではないと分かっているんです。けど……」

カップを受け皿に戻し、その手を離す。

「もし、そのせいで嫌われたり、距離を置かれたらと思うと、怖くて動けないんです」


誰だって嫌われるのは怖い。俺だってそうだ。

そうやって他人を避けてきた。

涙目になる彼女がそのまま続ける。


「こんなことになるくらいなら、私は–––」


その瞬間、彼女の芯に触れたような気がした。


「–––私は、普通でいたかった」


「…………そう、か」


そう会釈する。

そうすることしかできなかった。

はたから見れば、俺は酷く冷たい人間に映るだろう。


「…まずは、あの、話してくれてありがとう」

そう言いながら、頭の片隅では冷酷にも悩み解決の分析を進めている。

ここまでは概ね予想通り。

同時に、まだ半分なことを悟る。


『名推理だけじゃ答えが出ない、なんてこともあるしな』

陽に言われた言葉を思い出す。


経験からも学ぶ。

白神さんにも当てはまる。

頭では分かっていても、自分がなんであるのか理解したつもりでも、心の未熟さは、まだそれに追いついていない。

そして俺も知ったつもりで何も知らなかった。


(カッコ悪すぎだろ、俺)

心の中で自身を皮肉ったあと、コーヒーを一飲みにし、カツンと音を立てながらカップを置く。

そして「よいしょ」とおもむろに席を立つ。


「少し、風の当たる場所で話さないか?」


・・・


「お試しで付き合っちゃえば?縹君と」

「いやいや、絶対フラれるって!」

校門前で声量も気にせずトークに盛り上がる女子たち。スカートは短めでその健康的な太ももを惜しみなくさらけ出している。「相変わらず夏人は人気あるなぁ」と傍らで思いつつ、表面上は気にせず俺と白神さんは学校近くの公園へと足を伸ばしていた。


住宅街に囲まれた公園の中では、比較的広いように思われる。

公園はひらけたエリアと木々が生い茂る林のエリア、2種のエリアに分けられており、俺たちは話しやすいように後者の場所へと向かっている。

こちらでは既に桜が満開のピークを迎え、加えて夕陽で景色は赤く染まり、それはそれはそれは美しい光景だった。休日であればお花見でごった返しそうだが、幸いにも人はいなかった。


この辺りでいいだろう、とフードを深めに被る白神さんを誘導し、近くのベンチに座らせ、その隣に腰掛けた。


「…ここまで着いてきてなんですけど、私から話せることは全部話しましたよ」

「じゃあ、あとは解決だけだな」

「そんなの、私が何もしなければいい話ですよ」

「それじゃあ問題は解決できてない。そもそも、そういうことなら最初から部室に来なくても良かっただろ。こうしてここまで来たってことは現状を変えたいからじゃないのか」


白神さんが言葉に詰まり、再び沈黙する。

違う、こうじゃない。

別に俺は白神さんを丸め込むためにここにいるわけじゃない。

『普通なんていうしがらみに囚われないで、もっと素直な自分でいてほしい』

そう伝えたいだけなのに。


今の白神さんは過去の経験から自己肯定感が低い傾向にある。

自らを頑丈な殻に閉じこめることで、外側から来るものから自身を守ろうとしている。それこそ貝類のように。


よっぽど大事な理想なのだろう。白神さんにとって『普通』とは。

あくまで憶測ではあるが、話してくれた内容以上に、過去によほどの苦い経験があったのかもしれない。


––––––しかし

ふと、思った事をそのままポツリと呟いた。

「普通ってさ、そんなに良いものなのかな…」


「…どういうことですか?」

と彼女はこちらを見据える。

今日初めてのヒットだ。釣り人なら大喜びのことだろう。

このチャンスを逃さない手はない。


「例えばアインシュタインは『常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションでしかない』ていう言葉を残している」

俺みたいな捻くれ同士なら、一度は調べて見たことがある言葉かもしれない。


「けっきょく、常識ってのは常に流動的で、その意味も歴史や環境とともに変わっていく。そんな漠然としたものを追いかけても何も得るものはない。そう、オアシスを目指して歩いてたら実は蜃気楼でした、みたいなオチだよ」


「私は別に、波風立てて過ごしたくないだけです。悪目立ちをしたくないというか……そうである以上、流れに逆らわず普通にしているのが良いと思ってます」


「確かに常識に従って生きていれば、何も考える必要はないかもしれない。周りと比較する必要も無くなるし、楽になれるかもしれない。それこそ現代人の求める幸福論なのかもしれない。でも俺はそうは思わない」

いつだって人類をここまで発展させてきたのは、既存の理論ではなく常識外れの思想なのだから。


「陽なんて凄いぜ。周りからすれば『何やってんだアイツ』って思われることを平然とやってる。てかむしろ、そう見てくれって言われてる気分だ。最高にイカれてるよ、アイツは」

今までのことを振り返りながら、俺は語り告げる。

とはいえ別に俺は、白神さんが陽のようになればいいとは思っていない。


「とにかく、だ。白神さんは今のまま……というか在りのままでいいんだよ。変に、自分の心に蓋をしたり、変わろうって躍起になって焚きつけたりする必要なんてない。在りのままの状態で、流されることもなく、動じることなくそのままでいればいい」


「…でもっ、でもですね、そうは言っても不安は確かに私の中にあります。怖いのも事実です。………今の私にはそれを消し切ることなんてできません」


太陽が沈み、代わりに真上にある街灯が周囲を照らし出す。


「不安なのは分かる。分かっているつもりだ。俺が白神さんの立場でも不安を完全に消し切ることなんてできないと思う」


消し去ろうと不安に意識を向け続ければ、それは消えるどころか、より主張を止めないだろう。

皮肉なリバウンド効果というやつだ。


「別に間違ってはない。変化を恐れるなんて誰しもよくあることだ」

変化を恐れることはけっして間違いではない。むしろ当然というべきだ。

誰だってクラスや職場が変われば、慣れるのに時間は多少なりとも掛かるだろうし、初めての海外旅行初日なんかは、文化や景色の違いに圧倒されるだろう。

言いかえれば、変化とは居心地が悪い場所と捉えることもできる。


「安定とか安心を求めるから変化を怖がる。逆にそういうのに固執しなければ、変化を恐れることはなくなる。100%ではないにしろ、少しは気が楽になると思う。別に白神さんが『普通』に学校生活を送ったとしてもその不安は消えるわけじゃないだろ」

「っそれは、そうかもしれないけど…」


ギュッとスカートの裾を小さな手で握りしめる。

それを見て秋は思った。

この子は迷っている。葛藤している、と。

自分の満足できる答えが欲しくて、ここまできたんだと。

苦しくても構わない。

足掻いてでも、前へと進み続けようと。

それがたとえ、他者が示した道だとしても。


「それでも」

と、そう切り出す。

「それでも、白神さんは白神さん自身であって、他の誰でもない。月並みな言葉だけど、自分らしく生きるっていうのが最も賢い生き方なんだ。常識なんてものに隷属するよりかは、よっぽど人間らしい」


……どうしてだろう。

自分でも驚くほどの熱量で語りかける。


「不安だったらさ、何度も試行錯誤して、修正して、調整して、或いは練習したり対策したりして、疲れるまで不安の芽を摘んでいけばいい」

それでも不安の種は残る。

根絶なんてできやしない。


「好かれないことだってある。世界中の人に愛されるなんてことは絶対にない。あり得ないと断言できる。好かれる人間はその数だけ他者から嫌われる」

それが今いる世界の理屈だ。

そんな世界に俺たちはいる。

いい加減、早く気付くべきだったのだ。この理不尽に。


「自分の人生の軌跡を辿るのは、本人にしかできない。代わりなんてない。歩き続けるのも疲れて休むのも、その人にしかできない。周りがどう言おうと……言ってしまえばアドバイスや励ましや労いも、結局全てが戯言で、最後に決めるのは自分なんだ。自分をコントロールできるのは……自分だけだ」


そう………。

だから、この言葉を送ろう。


「そうやって、白神さんが自分で……自分の手で––––」


隣にいる彼女の顔を見る。


難しい言葉は要らない。


難解な理論も必要ない。


たったひとつ、勇気を与えられるのであれば、それでいい。

俺だって。


そうやってここまで歩いてきたんだから。



「––––世界を変えるんだよ」


・・・


「世界を…変える………?」


突飛な言葉に彼女の理解が追いつかない。

俺は静かに頷きかける。

「今見ている世界を受動じゃなく能動的に、白神さんが創造するんだ」


そう告げる。

これは白神さんの物語なのだ。

俺は白神さんが世界をどう見ているのかは何も知らない。

彼女の物語の主役は、彼女であって有象無象モブどもではないのだ。


「私が………創造?世界を、変える……ですか?」

と、さらに混乱してしまう。


––––ここだろう。


白い髪をした少女の、純粋で瑞々しい野性的なまでの好奇心おさなごころを引っ張り出す。


「そうだ。さっきも言ったろ?自分をコントロールできるのは自分だけだって。自分次第でいくらでも変化できる。世界をも変えられる。そうすれば見える景色もおのずと変わってくる。……俺には白神さんに見えている景色は見えない。俺だけじゃない。誰にも理解できない。他でもない君だけが知っている。それを教えて欲しいんだ」


自らの手で自らの世界を創り出す。そうすることで自由を生み出せる。自由があるからこそ迷い、不安も生まれる。不安や恐怖が生まれ、そしてそれに向き合うようになれば、次第にそれは行動力に変わる。

不安も恐怖も好奇心も、その全てが行動力の薪へと焚べられる。


–––少しでも構わない。

行動は、たとえ最初は小さな火種でも、その火は次第に燃え上がり、やがて熱い炎へと変わる。

『勇気』へと変わる。


「そうだなぁ…」

と言いながら、ベンチから立ち上がる。


「あ、例えばさ、ほら」

春を象徴するかのように、桜の花びらは華麗に舞い夜想曲ノクターンを奏でている。

それを見て指差す。


「あの桜の花びら……なぜピンク色なのか?なぜクルクルと回りながら落下するのか?なぜあの形なのか?触り心地はどうか?匂いは?味は?…気にならないか、白神さん」


その人には、その人なりの感性クオリアがある。

感覚的に意識し、見て、触れ、経験し。

それら全ての万物に興味あいを持ち続けられる、どこまでも白く純粋で神秘的な少女。

俺や他人には到底理解の及ばない、この子だけの見える世界クオリア


「……わた、しは」

揺れる眼差し。

葛藤する内なる精神。

今、俺が尋ねているのは、純白な本性。


「例えばあの月は?月の表面の模様だったり、光の反射についてだったり、気にならないか?」

「…………私は」


俺は彼女の方へゆっくりと歩み寄り、腕を伸ばしフードに付いた花びらを摘みとる。

その行動に驚いたのか、白神さんがビクッと肩を揺らす。


「例えば俺や白神さんだってさ、ひとりひとりが独自の世界観を持っていて、独自の感覚で今も生きている。白神さんとはまったく違う感覚で。そういうのも中々面白いと思わないか?」


そう言い終わるのと同じくらいに、白神さんは自らフードをゆっくりと外し、少々髪がくしゃりとしているものの、それらを気にせずこちらを見上げる。

白神さんと物理的に距離が近づいていることに気づかず、俺は熱烈に言葉を発し続けた。


「俺たちが認識している世界がその全てじゃない。白神さんも知らないことは沢山あるとおもうし、俺だって毎日本を読んでても知らないことは山ほどある。真の世界は、俺らにも想像つかないほどのスケールなんだと思う」


そして今、気が付いた。

彼女のその真っ赤な瞳に光が灯り、上目遣いでこちらを見つめていることに。

そしてその穢れなき美しいうっとりとした表情と、その瞳に写る自分の顔がはっきり見えてしまうくらいの距離にいることに。

思わず我に帰り、自身の顔が熱を帯びる。


「……ごめん」

視線を外す。

それと同時に少し距離を空け、誤魔化すように頭を掻く。


「なんかつい熱くなって色々小難しいことベラベラ言っちゃったけどさ……えっと、つまり白神さんは白神さんであって、自分が楽しいと思えることをやってけばいいと思う。みんなに合わせたり、我慢する必要なんてのは……ほとんどない」


「ほとんど……なんか中途半端ですね」

そうだな、とほくそ笑む。


「ま、でもすぐに『変わる』ってわけでもないだろうし、それなりに時間は掛かる。何かあればまた相談に乗るし、助けることもできる。愚痴があれば話くらいは聞くし、話題が欲しければいくらでも提供する。なんなら部活に入ってもいいくらいだ。きっと陽も大喜びするだろうさ」


今もなお、狐につままれたような表情でこちらを見つめるが、その口からは何も発しない。

「それに……最初に言ったの覚えてる?白神さんは、ただ好奇心旺盛なだけの普通の女子ひとだって。だからこの悩みはもうおしまいだ」


正常とそうでないものの境目とは一体どこなのか。

似たような話を夏人としたのを思い出す。

人間は、直感的に相手の印象、特徴を判断する。そして正常な人間なら、迷わず受け入れるし、異常な奴なら距離を置く。だが心理学や精神医学では、人間のパーソナリティにおいて、『正常』と『異常』の明確な線引きはないとされているそうだ。


境界線が明確でない以上、そもそも『健全な状態』というのがはっきりしない。自分が正常だと思っている傲慢な人間からすれば、耳が痛くなるような主張だろう。しっかり耳穴に蓋でもしておくといい。

つまりこの話の結論オチは、皆が等しく正常に異常なのだ。


ともあれ、自分が見ている『現実世界』と他人が見ている『現実世界べつせかい』、つまり自分が見えているものがその限りでないと理解できれば、少しはマシな人間になるのではないだろうか。


そして––––

ゆっくりと、白髪はくはつの少女が立ち上がる。

その動作からは迷いを感じられなかった。


「私が………世界を変える」

そう言いながらベンチを離れ、辺りを見渡す。

まるで今まで見てきた、辿ってきたものを丁寧にこと細やかに再確認するように。


「ぁ––––」

不意に風が吹く。

空を見上げれば満月の明かりと、それを彩る桜吹雪がそこにはあった。

その空間に収まる白銀の彼女はまるで、春の訪れを伝える妖精のように、一層その神秘さを際立たせていた。

そしてそれは、彼女の新たな門出を祝福してくれているかのようにも見える。

俺は多分、この光景を忘れることは一生ないだろう。


「–––綺麗、だな」


思わず、そう口走ってしまう。

慌てて彼女の方を向くが、

「うん………キレイ」

こちらには目もくれず、夜空を見上げている。

どうやら月夜のことだと思ってくれたらしい。


「………帰るか」

「………ですね」


お互いに見つめ合い、くすりと微笑む。

新世界、白神深冬が誕生した瞬間だった。


・・・


「私、入りたいです。部活に……喫茶研究部に」

帰り際、白神さんは確かにそう言った。


「そうか、陽も喜ぶだろうな」

明日にでも伝えておこう。


「あ、でもそれは私が悩んでいるからとか、困っているからとかではないですよ」

その言葉に疑問の念を募らせると、少女はすぐにその答えを提示した。

「私は、私の好奇心を満たすために、部活に入ります。面白そうなので!」

ニッと小さな歯を見せながらはにかむ。


「……そうか」

無邪気な笑顔に、俺は安心した。


・・・


(今は………)


月明かりと街灯に照らされる中、私は確かな興味を抱いていた。


胸の内で熱く沸るのを自覚する。


横目で彼を見つめる。


–––––別世界あなたに興味があります。橡秋さん。


・・・


「おおぉ、最高じゃねーかよ、秋ィ‼︎こりゃ放課後は祝杯だな‼︎」


早朝、学校の校門前、事後報告と白神さんが入部する旨を伝えると、人目をはばからず陽は、散った桜の花びらで桃色に装飾されたアスファルトの上で、盛大に喜びの舞を全身で表現していた。


「嬉しそうだな、陽…」

「いやぁ今の部活は、私以外男どもしかいなくて、むさ苦しかったからよ〜。深冬ちゃんが来るとなりゃ大歓迎さ!」


こう見えて、部内の女子が自分だけだというのを案外気にしてたのかもしれない。いや、単純に可愛い女子が入部するってだけで、ここまで喜んでいるとも捉えられるな。どっちにせよ、コイツの心の底はまったく読めない。


そんな多幸感に満ちている陽を横目に、俺は今回の件で、ひとつ確信したことを語る。

「俺、少し理解した気がする。陽が言ってた『世界を変える』って意味を、少しだけ、だけど…」

ん、と陽がこちらに顔を向ける。


多分、あの頃の俺は『橡秋つるばみあき』という人間を殺し続けていた。

それを陽の言葉が、俺という自分らしさを、常識という呪縛から解放してくれたのだ。


その解放こそが俺にとっての、新世界つるばみあきの始まりだった。


「………そっか」

陽はそれだけを呟いた。

語らずとも伝わるという表れなのか。

はたまた、そんなのはどうでもいいのか。

やはりコイツの考えを理解するには、もっと深い場所に足を突っ込まないと分からない。


それはさておいて、といった感じに陽は話題の舵を握る。

「秋、お前は今回の依頼、正しいことをしたと、思っているのか?」


正しいか、正しくないか、か。

その2つで物事を判断するのは難しい。


「正しいかはともかく、今回はたまたま上手くいっただけで、次同じ事をやれって言われても無理だな。それにまだ途中経過だしな」


簡単な理屈こたえだった。

何にでも好奇心を向けられるのなら、それを他人に向けられれば良いのだ。


たったそれだけだ。

恐怖心と好奇心は表裏一体で、彼女は根源的欲求の怪物だ。

それにあの時、白神さんはこう言った。


『私、変わりたいんです』


本人がそれで良しとしていれば、それを変えるのは困難を極めただろう。

あの白い髪の少女が、変わりたいと願っていたからこそ、そこに付け入る隙を見出せたのだ。

つまりは偶然、ことが上手く運んだだけだ。


それだけのこととはいえ、人間の心理というのは計り知れない。白神さんが試されるのはむしろこれからだろう。


「ま、そう結論付けられたなら上出来だな。自分の能力に過信しすぎるのは愚者の行いだ。せいぜいそうならない事を願うよ」

と俺の出した答えに満足そうに頷く。


自己過信に片足を突っ込むとろくな目に遭わないのは、古くから言われてることだ。自分は神ではなく、ひとりのちっぽけな人間だと常に意識しなくてはならない。


ヤンテの掟とまでは言わないが、人間が正気を保てる方法のひとつは、自分自身を崇めないことだろう。


「あと、一応聞いとくが、なんで今回の悩み相談を俺に任せた?あの時お前はダメだって言ってたけど」

「そんなの簡単さ。近しい人間、秋と深冬ちゃんは似ている。だから適任だと思った」

「俺が?」


むしろ根本的な性格は陽と近いようにも感じたが。だが白神さんが初めて部室に来た時の第一印象を考えると、確かに俺の方に似ているかもしれないが。

納得いかない俺に、陽は補足をつける。


「性格的な意味じゃなくて、生い立ち、というとちょっと違う気もするが……二人の境遇が似てると思ったんだ」

「…なるほど」


「で、もうひとつは、秋が人を理解するいい機会だと思ってな」

「俺はロボットか何かなのか?」

なんか前もこんなやり取りをしたな。


「言ったろ?経験が大事だって。知識だけじゃ、全体の半分からしか学べないんだよ。秋の場合、人の心理とか感情的なものを、情報から学ぶ節があるからな。情報を経験の代理として使うってのは薬にもなんねーぞ」


別段、知識を軽視はしていないと思う。

むしろその使い方こそ、陽が言いたいことなのだろう。

経験を理解し、分解し、再構築する。それが読書でできる重要な点だろう。


しかしその逆はない。それは喩えるなら、スポーツや運動を読書だけで学び、自分が思い描く通りに動けると思い込むようなものだ。そんな甘美な理想は、後日の筋肉痛と疲労と共にバキバキに打ち砕かれることだろう。


とはいえ、俺も白神さんの事を知識だけで理解したと一瞬でも思ってしまったのだから、それを笑うことはできない。


「忠告どうも。覚えておくよ」

本は偉大な発明品だとは思うが、万能器では決してないのだ。

『書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない』とはドイツの哲学者の言葉だ。

それを肝に銘じて、今後の経験に活かそう。


俺がそう結論づける隣で、陽は不意にニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

あ、なんか嫌な予感…。


「そういや訊いたぞ。私の描く理想郷が見たいって〜?」

「ばッ!?夏人、あの野郎……!」

悪気もなく、そんくらい喋っても良いじゃん、と屈託のない笑顔の夏人が脳裏によぎる。


口は災いの元。

ほいほい言葉くちにするもんじゃないな。

どうやら今回は反省すべき箇所が多いらしい。


「まぁ、先の事は私は何も分からないけど、私は私の理想を体現するよ。だからお前は特等席で、それを見届けろ」

これはもう告白みたいなもんだ。

俺にはそれを正面から受け止めるほどの度胸を持ち合わせてはいない。


「……まぁ頑張れよ」

と小さく、素気なく返す。


そんな俺に、肩をすくめ生温かい目を向ける陽だが、何かに気付くと目を細め遠くを見据える。


「お、来たんじゃないか?」

陽の視線の先を眺めると、確かに見覚えのある人物が映り、陽が呼び掛ける。


「おーい、深冬ちゃーん!」

と、その声に気付くと、パタパタと白百合色しらゆりいろの髪とスカートを揺らしながら、こちらへ駆け寄ってくる。


「おはようございまーす!」

「白神さん、おはよ––」

と挨拶しようとした瞬間、彼女の変化に気付き固まる。


続いて陽も「お」と違和感を感じたようだ。

「深冬ちゃん、髪切ったんだ。超可愛い〜!!」

「むぐ」

と出会って早々、陽に捕まってしまう。


昨日まで前髪が掛かっていた彼女はもういなく、素顔がはっきりと現れている。今は少し苦しそうだが、それにしても……。

(女子、すげー)

髪を切るだけで、こうも印象が変わるのか。

顔立ちは良さそうだとは思っていたが、ここまでガラッと雰囲気が変わるとは予想外だった。


陽の腕から解放され呼吸を整えると、こっちの視線に気付いたのか、白神さんは少しだけ照れくさそうに、短くなった前髪を指で弄りながら話す。


「決意表明と言いますか、心機一転ということで少しイメチェンを………ちょっと単純かと思いますが」

「良いじゃん良いじゃん!めちゃ似合ってる!ヤバッ写真撮らせてくれ深冬ちゃん〜‼︎」


どうやら陽のお気に召したらしく、色んな角度からもの凄い勢いでパシャパシャとスマホで撮り始める。


「今日は深冬ちゃんの、喫茶研究部、歓迎会をやるからな、放課後は予定空けてくれよな!」

「そ、そんな、大袈裟ですよっ」

そんなやり取りを交わしながら数分が経ち、気付けば陽も満足したのか、撮影会は終了したようだ。

自分のスマホ画面を覗き込みながらニタニタとしている。生粋の変態か、彼奴は。

そして撮影会から解放された白神さんが、こちらへと歩み寄る。


距離が近づいたことで、彼女の甘い香りが、俺の鼻腔をとろかしていく。

「また色々な話を聞かせて下さいね、秋さん」

彼女の天真爛漫てんしんらんまんな笑顔が眩しい。その眩しさと甘美で芳醇な香りにあてられ、反射的にふいっと顔を逸らしてしまう。

朝っぱらから心臓に悪いな、と俺は思う。


(…また色々な話を、か)

そんな彼女の言葉から、それとは別の言葉を連想させられる。

『よいコミュニケーションは、ブラックコーヒーと同じくらい刺激的でその後はなかなか眠れない』

アン・モロー・リンドバーグの言葉だ。


(俺なんかの話が………いや)

俺や陽や、この部活や、もっと先のことが、白神さんにとって、刺激的で良いものであってほしいと心から思う。

それはもう燎原の火の如く、止まらない勢いで。


白神さんの方へと向き直る。

「…こちらこそ宜しく。白神さん」

自分の黒髪を掻きながら、我ながら下手な取り繕いだと思いながら、そう返した。



冬が終わり、そして新たな青春の物語が始まろうとしていた–––––

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