第2話[EP.Winter 中編]

考えた。


私は考えた。


「受け入れる………かぁ」


自分の部屋に着くと、着替えることもなく、制服のままでベッドにダイブする。布団の柔らかさを堪能すると、なんだか緊張感が解け安心に包まれる。

体勢を変え、天井を見つめながら今日起きた出来事を振り返っていた。


不思議な部活、喫茶研究部。そこにいた2人。


グイグイと距離を縮めてくるフレンドリーでカッコいい朱城陽あけしろはるさん。急に抱きつくのはびっくりしたけど。


少し目付きが怖いけど、意外とお喋りな橡秋つるばみあきさん。クールな印象だったけど、話すと意外とお喋りで、物知りで、ちょっと抜けてるところがなんだか面白い。


お悩み相談。


そして、秋さんが提案した別の方法。

でもその考えが最初から無かったわけではなかった。


(ここまで具体的に言われるとは思わなかったけど……)


まぶたを閉じる。

無音の室内だからこそ、過去の記憶を、より鮮明に思い出させる。

数年前の私の記憶。


小さい頃の私は、無邪気でイタズラ好きな性格だったと思う。男女関係なく色んな子たちと遊ぶのが好きだった。その頃の私はとても充実していたと思う。

周りに嫌われるようなことはなかったはずだと思う。多分。


でも、小学生高学年のある時––––––

『ウザいんだよ、お前』

そう言われた。


その日を境にだろうか。他の子たちにも距離を置かれ、煙たがられるようになったのは。

奇異と嫌悪の目で見られ、私は『おかしい子』という烙印を押された。

(私がおかしいから、普通じゃないから、仲間外れにされちゃうんだ)

変な人には近付かないという心理と行動を、幼いながら当事者という立場からそれを理解した。


あの頃の教室の中の重苦しい空気と、孤独であるという現実を叩きつけられる実感。忘れるはずもない。


でも、だからってどうしたらいいの?


別に私だって、こう生まれたいとは望んでいない。こういう風になったんだから仕方ない。どうしようもない。


私は、私がどうしたらいいのか、分からない。

こんなに嫌われて誰にも必要とされない私はどうすればいいのだろう。


『気持ち悪い』『うるさいよ』『ウザいんだよ』––––––


自分の記憶の良さを呪った。それは留まることを知らず、川の流れのように延々と溢れ出ていく。


おでこに手の甲を当て「はぁ」とため息を吐き出す。

そのため息と一緒に不要な記憶も私の中から出ていけばいいのに。

つい、そう思ってしまう。


私は小さい頃から、色んなものに目移りするタイプだった。様々なモノに興味を持ち、時にはヤンチャなこともしていたと思う。それこそ花や虫、公園、特に水族館、動物園なんかは、その頃の私にとって宝石箱のようだった。


–––––––楽しかった。


新しい出会い、興味を惹くようなお喋り、奇妙な部活、私の知らないコーヒーの味、香り………。


その感情を忘れていたなんて––––––。


『ここまでの会話すら、白神さんは楽しんでたんじゃないか?』


だからこそ、それを秋さんに指摘されたときはそれこそ顔から火が噴き出る様なものだった。

図星だったからだ。


(やっぱり誰かと話すと素が出ちゃうな………)


むに、と自分の頬を包むように触る。

「……はぁ」

うつ伏せになり柔らかな枕に顔をうずめる。

視覚も聴覚も何もかもを遮断するかのように。



「私だって……みんなみたいに……」


・・・


次の日、再び白神さんは部室に現れた。


しかしその表情は明るいとは言い難く、そしてコーヒーを淹れる隙すら与えずに、申し訳なさそうにそれを言った。


「色々考えたんですけど、ごめんなさい」

ぺこりと小さな頭を下げ、白神さんの甘い匂いがふわりと舞う。


「落ち着いて白神さん。……一体どうしたんだ?」

席を立ち上がろうとする前に、その設問に彼女は答える。

「やっぱり私、秋さんの提案には納得できなくて………私は、私自身を受け入れることができません」


どうあれ、提案したことを拒否されるというのは、なんだかんだいってショックだったことが今改めて痛感した。

そして、白神さんの抱える闇の深さにも気付けない、自分の無能さにも。


そして思わず訊き返してしまう。

そうするしかなかった。

「それは、どうして…」


自らの視覚と聴覚を集中させた。

視覚は彼女の唇の動きから、言語を拾うため。

聴覚は些細な声すら聴き逃さぬように。


そして白い髪の少女は言った。


「–––怖い、からです」


–––––それだけを言い残し、パタパタと足早に部室を後にした。

呼び止める間もなく。


「あれ」

そのすれ違いざまに陽が顔を出す。

「…今、深冬ちゃんが通ってたけど、なんかあったのか?」


・・・


カチャと音を立て、ソーサーの上にカップを戻す。

陽はうんうんとリズミカルに頷き、面白そうに話を聞いていた。


「…なるほどなァ、つまり振られちゃったと」

「振られてはない」


一通り聞き終えたところで「でもさ」と陽が口を開く。

「それだけだと深冬ちゃんは、ただ自分の個性をポジティブに考え直しただけじゃないのか?」

「それはその通りだけどさ」


顔をしかめながら、とくとくと語る。

「人を変えるってのはそう単純な話じゃないからさ。まずはステレオタイプを排してもらって、考え方から地道に変えてけば良いかなって」

「なるほどな、秋なりに一応考えはあるってことか」

と納得した様子を見せる。


しかし先方はそうでも、こっちには納得いかないことがあった。

「この件を陽、お前がやればさ、もう少し楽に進められると思うんだけど、そこんとこはどう考えてんの?」

陽のコミュニケーション能力、カリスマ性、冷え切った精神にすら光を灯すそのスキルは今の白神さんにとって必要なモノだと俺は考えていた。


––––しかし

「それはダメだ」

と一瞬でそれを否定した。


「なんでだ?」

「それじゃあ意味がない」

「…意味?」


その言葉の真意を考え詰める前に、話題をすり替えるように陽が尋ねる。

「そういや昨日、私に聞きたいことがあったんじゃないか?」

「あーそういえば…」


白神さんについて考えてばかりで、うっかり忘れていた。

陽に聞きたいこと。

せっかくこの話題を陽から出したのだから、それにあやかってこの際だから聞いておこう。


「別にそんな大したことじゃないんだけど、あのときお前に言われた『世界を変えないか』ってさ、あの頃は俺らが知り合って間もないときだったからアレだけど………今の俺は世界を変えれるような人間に見えるか?」


そう尋ねると「あぁそんなことか」と拍子抜けした表情になる。

「んー、まぁ深冬ちゃんへのヒントにもなるかもだし、いっか」

とブツブツ呟いたあと、ふと立ち上がり、品定めをするようにこっちの周りをぐるりと歩きはじめた。


「これは私の持論なんだが、世界を変えるチャンスってのは全ての人間が持っていると私は考えている。それがたとえ当人にとって不本意なものでも。あとはそいつ次第」


「なるほど……?」

「つまり、変えるのも変えないのもお前次第、だっ!」

「いだッ!?」


バチンッと思いきり背中を叩かれ、反射的に思わず叫んでしまう。

「…なぜ叩く?」

「なんかいつもよりも暗さに磨きが掛かってたから、私なりに喝を入れてみた」

なんだよ、暗さの磨きって。


「お前は人に対して無関心そうに見えて、首を突っ込むとすぐ飲まれるタチだからなぁ。仮に深冬ちゃんが深刻な状態だったとしても私らまで深刻になる必要はない。失敗したら別の手段を持ってくればいいんだよ。今はそんくらいの時間はあるだろ」


不服ではあるが、そう言われて今の自分がペースに飲まれていたことに気付く。

「……うん、そうだな。ありがとう、お陰で目が覚めた」

「よくコーヒーは飲むくせに、目覚めるのは遅いんだよなぁ」

一言ひとこと余計だ」


「ま、それは置いといて、お前はただ本に書いてある内容をコピペして深冬ちゃんに説明しただけなんだよ。深冬ちゃんに対する心の配慮が抜けてんのさ。分かる?」


「辛辣さもここまで極まると切れ味良すぎて逆に扱いに困るな…」

「せいぜいケガしないようにな。くどいだろうが、変えるのも変えないのも最終的にはそいつが決めることだ。周りで焚き付けたり、説得しても、説明しても、そいつの心に火が付かない限りは意味は無いと私は考えている」


多分、俺があの時、陽に言われてここまで来れたのは、陽の考えで言うところの『心に火が付いた』状態なのだろう。

心の配慮が抜けてる、というのはつまり本人の意志の尊重。やる気を焚き付けるための薪ということか。


ドカッと陽がやや乱暴にもといた椅子に掛け直し、腕を組む。

「受け入れる、というのもある種ひとつの選択だ。秋が考えた上でそうアドバイスをしたなら、まぁその辺は心配してねーけど、だが相手は人だ。確認したことをすぐインストールして学習する機械じゃない。時間が掛かるのは間違いないし、心変わりすることだってあるし、ゴールに着くまでの忍耐だって必要だ」


「たしかにな」

つまりは苗が育ちきるまでの間、雨風を凌ぎ、肥沃な土壌を備えた温室が必要ということだ。


そしてもうひとつ––––


(怖い………か)


白神さんが言ってた言葉を思い出す。

それは何に対してだろうか。

俺や周りの他人か。それとも自分の変化にだろうか。もしくは………。


(こればかりは本人に訊ねないことには分からないな)

と考え事をしている矢先、口元に添えた手を陽に思いきり掴まれ、持ち上げられた。俺は思考の海から、現実の陸へと引き上げられた。


「秋、確かにお前は頭は回るが、それでもただ考えているだけだ。名推理だけじゃ答えが出ない、なんてこともあるしな」


「じゃあどうすればいいんだよ?」

「もっと経験しろ。分析思考で頭でっかちの秋なら、実践とフィードバックの反復でどんどん学習できるだろ?」

ぺチンとおでこに軽くデコピンをされる。


「人をロボットみたいに…」

さっきのよりは痛くはないが、なぜいちいち痛覚を与えてくるのかは議論の余地がありそうだ。


そんな贈り物をお届けする本人はというと「らしくねぇことしたな」とぼやきながら、がしがしと頭を掻きむしる。

金色の髪が、太陽の光をいっぱい浴びた麦畑の様に、サラサラと揺れていた。


・・・


職員室に鍵を返し終えたあと、その足で図書室に向かった。

中に入ると受付の女子生徒が視界に映る。


「あっ陽!………と橡くん」

相変わらず、陽と陽以外の人間のリアクションの差が激しい女の子だ。


「よっ麻乃!会いに来てやったぜ」

「図書室では静かにって前からずっと言ってるでしょ。まったく…」


威勢の良い挨拶をする陽に対し、それに物怖じせず、ツンと毅然とした態度で対応する彼女は古月麻乃こげつあさの、同じクラスの女子で図書委員だ。

肩までかかっている淡いクリーム色の髪が特徴的で、キリッとした瞳や静かで落ち着いた印象からは真面目さや知的さを感じさせる。どちらかといえば、生徒会や学級委員長を務めてそうなタイプだ。


特徴と言えば、制服ごしでも分かるその大きな膨らみは、男子達の視線を集めやすくなっており、本人は呆れを通り越して常に不機嫌そうにしている。


「とりあえず、はい。返却に来た」

以前図書室で借りた本を麻乃に渡す。


それを見た陽は、「相変わらずだなぁ」といった眼差しで呆れつつあった。

「…2人一緒ってことは、もしかして部活?」

「まぁそんなとこ、さっき終わったけど」

「そうそう!今回は珍しく人生相談なんだよ。流石の秋もお悩み中ってわけさ」

と陽が割って入り、声量を気にすることなく話す。


一方で麻乃はというと

「私、思うんだけど、そういうのってあまり深く関わることないんじゃないかなって思うのよね」

ぽそっと呟く。


「ほう、その心は?」

陽は興味ありげな視線を飛ばし、麻乃の意見を引き出す。


「人の持っている悩みとか才能とかって、その人自身の持つ力で解決までの道筋を組み立てる方程式がそれぞれあって、それをどうこうするのもその人個人の役割だと思うの。もちろん橡くん達がやっていることが悪いとは思わないけど」

そう言いながら、こちらの様子を伺うように麻乃は眺め見る。陽も特に何か喋るでもなく、傾聴の姿勢を保っている。


「その人の道を他人が指示するってことは、逆に言えばその人のあらゆる可能性を狭めることになるかもしれない。その道を進まない選択肢だってある。その人の持っている気質……みたいなものを活かすのも使わないのも、最後に決めるのはその人本人だと私は思う」


「…そうだな。まったくその通りだ」

人の持つ可能性、その才能を潰すのは、そう難しいことではない。それは皮肉にも人間が社会的動物あってのことだ。

この部活の方針もあくまで手助け、サポートであって、問題の直接解決ではない。


「それでも、橡くんは深入り、というか余計なお節介をするの?」

本人に悪気はないだろうが、手厳しい口調で尋ねてくる。


「まぁ、そうだね。それに古月さんの言う道だって堂々としたものじゃないかもしれない。茂みに隠れてて目を凝らさないと見えないけもの道だったりするかもしれない。目印の看板を立てるくらいならバチは当たらないと思うんだ」


(それに……あんな辛そうな表情見せられたらな……)

その時の光景を振り返る。


「ふーん…珍しく秋がやる気だ」

陽が腕を組みながら小さく独語する。

「誰かさんが熱を与え過ぎるから、でしょ」

「え、私?」

そう言いながらも、陽はどこか嬉しそうな様子だった。


・・・


陽達との別れ際、麻乃にお礼を言うと

『なんでお礼を言うのよ?』

と怪訝な顔を示した。


『………いや、特に気にしないでくれ』

自分と違う意見を聞けるというのは、ある意味、物事を客観的に見る方法として、これほど手っ取り早いものは他にない。


陽は陽で、

『麻乃のデカ乳を拝めて、秋は眼福なんだとさ』

とくだらないことを言うので、流石にそれは即否定した。普段は冷静な麻乃も顔が赤くなり怒りの矛先を陽に向けていた。ついでに仕返しがてら、デリカシーの無い陽にチョップもかまし、その場を後にした。


そんなこんなで、俺はひとり駅前ちかくにひっそりと構える喫茶店へと足を延ばしていた。


名は喫茶きぶし。


外観からの印象としては、若い子達が来るというよりは年配の方が訪れるような、落ち着いた雰囲気を漂わせている。大きめの窓から中を覗くこともできるが、初見では入りずらい空気を創り出している。


(ラッキー、今日は誰もいなそうだな)


チリンと軽快に鈴が鳴り重厚感のある木製の扉を開ける。

中に入るとそこはクラシックな空間、別世界が広がっていた。暖色系の明かり、濃厚なコーヒーの香り、そこにあるだけで自然感を与える観葉植物、光に反射し輝く白陶器のカップ、全ての要素が日常生活から切り離されたような空間を演出している。


最初こそはここにいる自分が場違いなんじゃないかと思っていたが、今となってはこういう緊張感は嫌いではなくなった。


「いらっしゃいませ………お、秋くん、いらっしゃい」

「こんにちは」


カウンターの方からこの店、喫茶きぶしのマスター、四季晴明しきせいめいさんが優しい微笑みで迎えてくれた。

見た目は60代辺りだろうか、グレーの髪、細い両眼が特徴で、パリッとした白シャツと清潔感のある黒パンツ、その上に黒のエプロンを身にまとっており、さながら老紳士といった印象だ。


「ブレンドひとつお願いします。あと同じブレンド豆を300gお願いします」

「かしこまりました」


自分以外誰も客がいないというのもあり、せっかくなのでカウンター席で頂くことにした。


注文を受けたマスターは、その老練な手つきで手際よく準備を進めていた。

ドラマチックに演出された空間、マスターの無駄のない洗練された動き、動線、豆を挽く音やお湯が注がれる音すら、コーヒーという芸術作品を奏でる交響曲へと昇華していた。


それは時間を忘却の彼方へと葬り去り、気付けば魅入られてしまった俺の目の前に差し出されていた。


「お待たせしました」

白陶器に満たされたコーヒーは、店内の光で赤く照らされ、自分で淹れるのよりもとても高級感を醸し出している。


「…頂きます」

コーヒーカップに口を付ける。

含まれた熱と苦味が全身に巡り行き渡るように感じる。


『一杯の珈琲はインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除く』


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの言葉だったか。

(ブランデーの方はともかく、コーヒーの方は、言いたいことが理解できる気がする)


そう思いながら、再び口を付ける。

やはりコーヒーとは、知的作業を延ばしてくれる神の水なのかもしれない、或いは脳内の創造力を独走させるガソリンということもあるやもしれない、そう思わせるくらいには、この黒い飲み物を好んでいた。


そんな脳内レビューの最中、その様子を見ていたマスターこと四季晴明さんが、ふと気になったという口振りで話しかける。


「……何か悩み事かい?」

「………そう、見えますか?」


顔にでも出てたのだろうか。

「まぁ、コーヒーを美味しく飲んでいることは間違いないだろうし、それは私としてもとても嬉しい。その傍らで、何か引っ掛かる、気に掛かるようなことがある、思い残しがある、という風に見えてね。もちろん味のことではないよ」


なるほど……。

やはりこの人には頭が上がらない。

これが年の功とでも言うのか。

積み重ねた結果から来るものなのか。

『経験』という称号を充てるなら、きっとこういう人にこそ相応しいだろう。

そう心から思った。


「…そうですね。ちょっと部活で色々ありまして……」

けっしてマスターが口が軽いとは思わないが、事情が事情なだけに、むやみやたらに他言はできなかった。


そういう風な意図を察したのか、先方もそれ以上は踏み込まなかった。

しかし、ここで会話が途切れるのも歯切れが悪い気がしたので、別方向からアプローチをかけることにした。


「こんな質問は困ると分かっているつもりですが………」

それでもお構いなしに続ける。


「人は変われると思いますか?」


案の定、いきなりの質問に相手方も不思議そうな反応を示した。

そんな突然の問いに少し考えてからニコリと穏やかな笑みを浮かべながら返答する。


「私は変われると考えているよ」

そう言い切った。


「その良し悪しは置いておくとして、人はいくらでも変われると私は思っている。秋くんだって前に比べるとずっと明るくなっている。私から見たら良い変化だと思うね」


「…そうでしょうか?」

そう言われると少々照れくさい気もする。


手を休めることなく、後片付けをしながら話を続ける。

「例えば同じコーヒー豆でも淹れ方や豆の挽き方、水の温度や硬度なんかで幾千も味が変化する。そんな風に、人が変わるきっかけというのはどこにでも在る。環境や人付き合いだったりね」

変わるのは簡単ではないとは思うがね、とさらに付け加えた。


「きっかけというのは無数に存在する。自らの外側にも内側にもそれらは在るだろう。けどそれだけでは足りない。その無数にあるきっかけと向き合ったとき、それに対して前向きであるかどうか。それが大事だと思うんだ」

「前向き………ですか」


そう、とマスターは深く頷く。

「例えば、興味を持ったり、それを受け入れたりとか、そういう些細なことでいい。そのオープンな心構えが人を変化させる原動力になる。それができれば新しい世界が見えてくるだろうさ」


やる気、モチベーション、新たに変わろうという勇気、自分は変われるという心構え、受容する気持ち、忍耐力、胆力。

確か陽も同じようなことを言ってたな。


「年寄りの意見だからね。あまり参考にならないかもしれないが…」

説教じみた言い方をした、と後悔しているように見えた。


とんでもないです、と否定するように手を振る。

「良いヒントになりました。ありがとうございます」


店の扉が開き、新たな来客が訪れたことで、マスターがカウンターを離れ、そちらへと向かう。常連客との談笑が店内を賑わせている。


まだ温かいコーヒーをすすりながら、あるだけの知恵を呼び起こし思考を張り巡らせ、状況を整理する。


(白神さんは一度、『自らを受け入れる』という選択肢を取ろうとした)

しかしそれは拒絶され振り出しに戻った。


『正論じゃ人は変わらない』

当たり前のことを告げられ、しかも肝心な部分が完全に抜けていた。

(悔しいけど陽のお陰で気付いたのも事実…)


そもそも自分の意見を否定するような情報を提供するというのは、相手に新しい反論を思いつかせる、それどころかさらに頑固にさせることもあり得る。

思い返せば、俺は墓穴を掘っていたのかもしれない。


そしてもうひとつ、

『そいつの心に火をつけない限りは意味はない』

『そのオープンな心構えが人を変化させる原動力になる』


陽とマスターの2人の、この言葉。

柔軟なマインドセット。

成長の起点。


何の本だったか、他者の心に残る見解というのは、正しさではなく、より興味深いものだと主張している内容を読んだことがある。

つまり、相手のやる気を引き出したり、興味を持ってもらわないことには、いくら説得したところでその面影すら残らないということだ。

これが政治活動なら落選は免れなかっただろう。


反省も踏まえて、それらの散りばめられた欠片から導き出される解答。

俺ができることはこの辺りにあるのかもしれない。

変に深入りすれば、それこそ麻乃が危惧してたようなことになってしまう。

しかし白神さんは、本質的には好奇心の塊のような人間だ。

それ自体は容易いことだ。


それを邪魔する要因は、白神さんの恐怖心そのものである。それを取り除く、或いはそれ以上の自己肯定感を持つことで万事解決する。

(そう事が上手く運ぶとも思わないけど…)


目を閉じる。

脳内の秩序を正すように。

荒れる水面を落ち着かせるように。


––––道は教えた。

前回のやり取りで、白神さんの選択肢は増えている。いや、もしかすると既にその選択はあったのかもしれない。今となってはどちらでも構わない。知ってることが重要なのだ。

『無知の知』というやつだ。


図書室で麻乃と話した時の表現を用いるなら『目印の看板は立てた』だ。

あとは警戒標識を立ててやるだけのことだ。

危険を知らせることは、そのまま安全に繋がるとも限らないが、少なくとも安心する材料くらいにはなるだろう。


––––白神さんの好奇心を直接呼び起こす。


これが、今の俺にできる最大限の務めだろう。

もう少し要領よくできればとは思わないわけではないが、今そんな事を言ってもしょうがない。


やるだけやってみよう。



あとで悔やむことのないよう、まだ熱があるうちにコーヒーを飲み干した。

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