12-3 ミルクの神様

 短い記憶の旅から戻ってきた私の目の前には、見慣れた牛柄の服装の乳神様がいた。


「……私が忘れてただけで、これから私が進もうとしていた未来も、既に経験済みだったんですね。私はまた、かつてと同じことを繰り返そうとしていたってことですか……」


「そうよ。また同じことの繰り返しを見せられても退屈なだけだから、先に教えてあげたわ。……それで、この事実を踏まえて、あんたはこれからどうしたいの?」


 言葉だけ聞けば冷たい印象だが、これは乳神様なりの優しさなんだと思う。

 ここで過去の記憶を見せてくれなかったら、きっと私はこの時間のループから永遠に抜け出す術がなかっただろう。


「記憶を消しても無駄なのはわかりました。……だったら、私はこの記憶を持ったまま、もう一度タイムトリップしてやり直します。ミズキもナナセも、そしてアマナもそれ以外のみんなも……全員を救って、今度こそ完璧な世界にしてみせます」


 記憶を捨てて、辛い過去から目をそらすのは甘えだ。この記憶と経験を持って、改めてここから新たな旅を始めよう。それしか私に道はない。


「あんた神様にでもなったつもり? そもそも、全部完璧な結果にするなんて、神であるあたしですら無理なのに」


 私の決意を遮るように、乳神様は冷たく言葉を吐き捨てた。


「無理でもやるしかないんです。私がやり直すことで救える人がいるなら、妥協するわけにはいかない。誰かが不幸になる世界のまま、やめるわけにはいかないんですよ」


 もはや私には、タイムトリップをやめるための口実がない。

 この時間の檻から逃げ出すための免罪符が見つからない。

 だって私は、何度でも無制限にやり直せるんだから。


 ――デメリットがないのがデメリット。

 今さらになって、かつて乳神様から言われたその言葉の意味がわかった気がする。


「それで? あんたはこれからどうしたいの?」


「私にできるのは、とにかくやり直して、ひとり残らずみんなが幸せな世界を目指すことだけ。タイムトリップできる私には、その責任がある。今さらやめるなんて選択は許されませんから」


 どうしたいとか、そんなことは関係ない。私はただ理想郷にたどり着くまで、果てしない旅を続けるだけだ。それが私に与えられた使命なんだから。


「みんなが幸せな世界ねえ……。あんた、そんな目的のために過去に戻ってたの?」


 私は……みんなを救いたかったんだっけ?

 ……いや、もともとそんな崇高な目的のために過去に戻ってたわけじゃない。


 ――私はただ友達が欲しかった。どこかのグループに混ざりたかったんだ。


 記憶を消す前はともかく、少なくとも今の私がタイムトリップをしていた目的は、ひとりぼっちの高校生活から抜け出したかったからだ。

 でもいつしか、私は自分をすり減らしてすべてのカップにミルクを注ごうとしていた。そんなことをしても、味気ない結果になるだけなのに……。


「……じゃあ私、どうしたらいいんですか? 教えてください……もう何が正解なのかわかんないんですよ……」


 私は目の前の神様にすがるように言葉をぶつけた。だが、返ってきたのは突き放すような厳しい答えだった。


「勘違いしてるようだけど、あたしはあんたの先生でもなければ友達でもない。あんたが欲しがってる言葉をかけてあげるほど優しくはないのよ」


「さんざん過去に飛ばしておいて、今さらそんなこと言うんですか。こんなことなら、タイムトリップなんてしなければよかった……」


 口をついて出たのは、心にもない言葉だ。タイムトリップを繰り返してきたからこそ、今の私がある。それは紛れもない事実なのに。


「ずっと言ってるはずよ。これまでも、そしてこれからも、あたしはただあんたの望み通りにするだけ。だからもう一度聞くわ……あんたはどうしたいの?」


 そうだ、これまで関わってきたクラスのみんなが、教えてくれたじゃないか。

 自分らしくいることの大切さ、好きなものを好きと言える心地よさ、全力を尽くすことの清々しさ、心が通じ合えた瞬間の喜び……そして、周りの期待より自分がどうしたいのかが大事だということも……。


 どうしたいかなんて、ほんとはとっくにわかってる。

 私には、その選択をする勇気がなかっただけ、まだ見ぬ明日へ踏み出すのが怖かっただけだ。

 でも、歩むべき道は自分で選ばないと……。


「私は……みんなとまた友達になりたい。これまで仲良くなったクラスのみんなと、これからも教室で一緒に過ごして、一緒にお昼を食べて、そうやって一緒に明日へ進みたい。もう私だけ後戻りするのは嫌なんです……」


「それが、あんたの望みなのね」


「はい……もう過去には戻りません。たとえこの先が、どんな辛い未来でも、私はみんなと前に進んで行きます」


「いいわ、その願い叶えてあげる」


 私の正直な想いを聞いた乳神様は、心から納得した様子だった。

 きっと私がその答えにたどり着くのを、ずっと待っていてくれたんだと思う。


「その……ありがとうございました。私にやり直すチャンスを与えてくれて」


 私は改めて目の前の神様に頭を下げる。いや、これまでの感謝の念から、自然と頭は下がっていた。


「あーもう、最後なんだし、堅苦しいのはなしにしよ。……ほらミルク、顔を上げて。これからは前に進むって決めたんでしょ?」


 乳神様はこれまで以上にくだけた口調で話し始める。


 顔を上げると、乳神様はすべてを包み込むような穏やかな表情をしていた。

 その表情から、途端にこれで最後なんだと実感する。

 これで本当にお別れなんだと……。


 私は名残惜しさから、迫りくる別れの時を引き延ばすかのように言葉を紡ぐ。


「あの……なんで私なんかのために、ここまでしてくれたの?」


「当然でしょ、あたしは『ミルク』の神様なんだから」


 その優しい声に呼応するように、自分でも説明できない様々な想いが私の中を満たしていく。

 そして温かい感情に誘われるように、なぜだか涙が込み上げてきた。

 感情の整理が追い付かないまま私が黙っている間に、乳神様は話を続ける。


「……それと、さっきのあれ、嘘だからね」


「……さっきのって?」


「だから、その……さっき『友達じゃない』って言ったこと。記憶を消す前のミルクとあたしは、ちゃんと友達だったから」


「なんだ……そんなのとっくに気づいてたよ。記憶を消してからは、私が同じ過ちを繰り返さないようにって、あえて友達としてじゃなく、神様として距離を置いて接してくれてたんでしょ? まあ、全然神様っぽくはなかったけどね」


「えー、けっこう頑張ったんだけどなあ。やっぱり、らしくないことはするもんじゃないね」


「そうだよ、自分らしくいることが何より大切なんだからね」


 私たち二人は、私が記憶を消す前に戻ったかのように、楽しく談笑していた。記憶がなくても、私にはなんとなく当時の感覚がわかるような気がした。


「……さてと、じゃあそろそろお別れかな。もう時空ミルクは飲んじゃダメだからね」


「言われなくても、わかってますよー。これからは、ちゃんと前だけを向いて生きていくから、心配しないで。……っていうか、もし私がまた時空ミルクを飲んだとしても、今度こそタイムトリップさせちゃダメだからね」


 記憶を消す直前に、もう二度とタイムトリップさせないでほしいって頼んだのに、ひとりぼっちの私を見かねてあっさり過去に飛ばしてくれた前科があるからなあ。


「大丈夫、もう甘やかしたりしないから。泣いて頼んだって、もう過去には飛ばしてあげないからねー」


 いたずらっぽいこの笑顔も、これで見納めか。

 いつまでも話していたいけど、そういうわけにもいかない。


 私はこれまでの世界に区切りをつけるように、一度ぎゅっと目を閉じる。

 そして、力強く目を見開くと、しっかりと前を見据えた。


「これまでありがとね、乳神様……ううん、チイちゃん」


 覚悟を決めた私に応えるように、目の前の少女は小さくうなずく。

 そして、こちらをじっと見つめたまま、ゆっくりと最後の言葉を告げた。

 これまでの日々への別れと、新たな明日への旅立ちの合図を。


 ――――ミルキートリップ!


 薄れゆく意識の中で、これまでの思い出が走馬灯のように脳裏をよぎる。


 ひとりぼっちだった私に投げかけられた温かい言葉。

 初めてメイクをしたときの高揚感。

 推しに彩られた生活。

 仲間とともに切磋琢磨した日々。

 お昼前の屋上で浴びた背徳的な陽光。

 放課後の図書室の心地よい静寂。

 そして、眩しい光とともに現れる、暗く重たい影の残酷さ……。


 私はそのすべてを、しっかりと心に焼き付けた。

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