8-6 白い血だるま
昼休みが始まってすぐ、私は町屋さんの席の方に目を向けたけど、すでに彼女の姿はなかった。私はバレー女子たちに断りを入れてから、町屋さんを探しに購買へと向かう。
昼休みの購買は人でごった返しており、町屋さんの姿を見つけることはできなかった。私は彼女がお昼を食べていそうな場所を、片っ端からあたってみることにする。
……いや、ほんとはなんとなく見当はついていたんだ。たぶんあの場所しかないって……。
……また、ここに来てしまった。結局私は、ここに導かれる運命なのかもしれない。
トイレの中で、唯一扉が閉まっている個室の前に立ち、私はふうっと一つ息を吐いた。もしかしたら、全然違う人が入ってるかも……という楽観的な期待を捨て、私は扉の向こうに呼びかける。
「あの……町屋さん……だよね?」
しばしの沈黙の後、カチャっと鍵の開く音がして、目の前の扉がゆっくりと開かれる。そこには、予想通りの人物、町屋さんがいた。
「…………なんで?」
彼女から不意に投げかけられた言葉に対して、私はどう答えるべきかと思案する。どうやって見つけたことにしようか……最初に後をつけて知ったことを、正直に言うべきか……。
「その……たまたま、ここに来るのを見かけたから……」
とりあえず、曖昧な答え方をしてお茶を濁してみた。すると、彼女から想定外の言葉が返される。
「そうじゃない…………なんで誘ってくれないの?」
私が話を理解するのに時間を要しているうちに、彼女はさらに続ける。
「白野さん、言ったよね? 毎日お昼に誘ってくれるって。あれ、嘘だったの? ねえ、なんでなの? 私が頭悪いから嫌いになったの? 私が白野さんと同じステージに立てない人間だから? だから私を切り捨てたの? ねえ、なんでなんでなんでなんで?」
――私はゾッとした。風邪でもないのに悪寒がするという感覚を初めて味わった。
彼女は怒っているでも悲しんでいるでもなく、ただただ無機質な表情で壊れた機械のように淡々と言葉を吐き出していた。まるで磔の呪文のようなその言葉は、私の耳から全身を巡り、体はピクリとも動かせなくなった。
……過程こそ違えど、結果的に私は、ジャスミンのときと同じ過ちを犯してしまったのかもしれない。
いや、同じどころか、むしろ前回より状況は悪化している気がする。ほんと、お昼にトイレに来ると、ろくなことがないな……。
何も言葉を返せず立ち尽くしている私に対して、彼女はさらに追い打ちをかけてくる。
「そうだ、白野さんのために牛乳買っといたんだよ。好きだもんね、牛乳。ほら飲んで飲んで」
「いや……」
無表情で瞬き一つせずに突き出される牛乳を、私は受け取ることができなかった。
大好きなはずの牛乳なのに、それはまるで邪悪な魔女から差し出される毒リンゴのように見えた。
黙ったままの私に対して、彼女は畳み掛けるように常軌を逸した言動を続ける。
「あっ、そっか――」
バシャっという音とともに、目を閉じた私の頬に細かいしぶきが飛んできた。
そして同時に、鼻腔には牛乳特有の強烈な臭気が突き刺さる。
恐る恐る目を開けると、そこには牛乳を頭から被って、真っ白になった町屋さんの姿があった。
「ほら、これで私のこと好きになってくれるよね? だって白野さん、牛乳好きだもんね。…………ね?」
――私の心は恐怖に支配された。
足が震えて動かない。
冷や汗と牛乳が混ざり合った雫が、頬を伝ってゆっくりと流れ落ちる。
じっとこちらを見つめたままの白い血だるまは、一歩また一歩とにじり寄ってくる。
ダメだ、もう取り返しがつかないところまで来てしまった。
これもすべて、傲慢な私自身の振る舞いが招いた結果か。
……とにかく、まずは早急にこの場を離れないと。勇気を出せ。動け足!
――逃げろ! 逃げるんだ白野ミルク!
ありったけの力を振り絞って、なんとか呪いを撥ね除けた私は、震える足に鞭打ってその場から逃避した。
まだ昼下がりだというのに、私は学校を抜け出して例のお店に来ていた。
「時空ミルク、いくらですか?」
トイレから逃げ出した勢いそのままに、店に駆け込んだ私は、レジのおばあさんに尋ねる。
「89円だよ」
良心的な値段で安心した。私はすぐにお金を払って、時空ミルクを購入する。そして、そのまま店を出ようとしたところで、踵を返してレジへと舞い戻った。
「あの、やっぱりこれもください」
私が追加で購入したのは、レジ横に雑然と陳列されていた魔法の粉『ミルメーク』だ。ビンに入った時空ミルクと、コーヒー味のミルメークの小袋、そして一緒にもらったストローを手にした私は、今度こそ店を出る。
ほんとは、牛乳はそのままで飲むのが一番なんだけど、あのおぞましい光景を見た直後だと、とても真っ白なまま飲む気にはなれなかった。
そこで目をつけたのが、ミルメークだ。牛乳との相性は抜群だし、中でもコーヒー味は小学生の頃から最も慣れ親しんだ味なので信頼できる。
私は店の前でビン牛乳の蓋を開け、小袋に入ったミルメークの粉をすべて注ぎ込んだ。そして、ストローでしっかりと粉が溶けるまでかき混ぜていく。
すぐに飲んでしまいたい衝動にかられたが、ビンの底を覗き込んで、粉が完全に見えなくなるまでしっかりと溶かす。ミルメークを飲むのは給食のとき以来だけど、こういう所作を体は覚えているらしい。
……そういえば小学校の給食の時間にも、キバさんと一緒にこうやってミルメークの粉を一生懸命溶かしてたっけ。ビンの底で攪拌される粉末とリンクするように、私の頭の中で懐かしい記憶の欠片が駆け巡る。
ミルクの神様の話をしてくれたキバさん、今も元気かな?
きっとあんな友達は、もう二度とできない気がする。
あの頃みたいに、何の打算もなく、純粋に仲良くなれる友達は……。
それなのに愚かな私は、友達なんて無限にできる、代わりはいくらでもいると勘違いしていた。
あの頃の友達が、どれほど尊い存在だったのかにも気づけずに。
キバさんとは、なんとなく疎遠になっちゃったけど、ちゃんと仲良くし続けてればよかったな。
ちゃんと繋がり続けておけば、もしかしたら私は、高校でひとりぼっちになることもなかったのかもしれない。
……人は一度ネガティブな思考に陥ってしまうと、考えなくてもいい不安や後悔にまで、延々と思いをめぐらせてしまうようだ。
気づけば、ビンの底にあった粉はすっかり消え去っていた。
溶け残りがないことを入念に確認した私は、ストローをビンから取り出し、ビンに直接口をつける。
ストローでちまちま飲んでなんていられない。早くやり直したい。
私は一気に牛乳を喉に流し込む。
――甘さの中にひっそりと隠されたほろ苦さに、あの頃の私は気づけなかったけど、ちょっぴり成長した今の私には、深く深く身に染みた。
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