7-5 さよならジャスミン

 トイレの個室は、学校の中で唯一の落ち着ける空間だ。しかし、お世辞にも居心地が良い場所とは言えない。

 それでも、私はここに戻ってきた。脱便所飯……そう思ってたんだけどなあ。


 とりあえず、牛乳を飲んで気分を上げよう。

 私はパック牛乳にストローを刺して、ゆっくりと飲み始める。

 牛乳はすごい。なんてったって、こんな相性最悪な場所で飲んでも、それなりに美味しく感じる……はずなのに。なぜだか今日の牛乳は、ちょっと味気なかった。今までは、そんなことなかったのに……。


 以前の私は、たぶん本当の牛乳の美味しさを知らなかったんだと思う。でも、一度その味を知ってしまうと、もうあの頃には戻れないんだ。

 こんな気持ちになるくらいなら、ずっとひとりぼっちのままでいた方がマシだったのかもしれない。


 そんなことを考えながら、紙パックに入った牛乳をゆっくりとストローで吸い上げていると、不意に誰かの足音が聞こえてきた。教室から離れた場所にあるとはいえ、たまには人が入ってくることもあるのだ。

 そして足音は、私の入っている個室の前で止まった。


「ミルク? いるデスか?」


 私の心をノックする音がする。

 せっかく作った分厚い壁を壊す勢いで、何度も私に呼びかける。

 彼女の優しい声に促され、私はつい目の前の扉の鍵を開けてしまった。


「ミルク、ここで何してるデスか?」


 まさかトイレでお昼を食べてるとは思わないよね。うーん、ジャスミンと距離を取ってるとも言えないし。この状況、なんて説明しよう……。


「ミルク、ワタシ何かシマシタか?」


 私が黙ったままでいると、彼女は不安そうに問いかけてくる。


「別にそういうわけじゃ……」


 私が勝手に避けていただけで、ジャスミンは本当に何もしていない。彼女に気を遣ったつもりだったけど、結果的に気を遣わせてしまったな。


「もしかして……ワタシのコト、嫌いになったデスか……? ワタシがみんなと違うカラ? ニホンゴが上手くないカラ? 髪と目の色が違うカラ? だから仲良くしてくれないデスか?」


「ちがう! それは絶対ちがうよ。……ただ、私以外の人とも仲良くした方がいいと思ったから……」


 悲しそうな表情で問いかけてくる彼女の言葉を、私は即座に否定した。いつも笑顔の彼女を、こんなにも悲しませてしまったことに対する罪悪感と、私のもとへ駆けつけてくれたことに対する嬉しさとで、私は涙が溢れそうになった。


「みんなは、ミルクとは違いマス。みんなには壁があって、ホントのトモダチにはなってくれないデス。だから、ワタシにはミルクだけデス!」


 みんなは別に、ジャスミンとの間に壁を作っているわけではないと思う。少なくとも、以前はそんな雰囲気ではなかった。

 もし彼女の言っていることが正しいなら、不真面目な私と一緒にいたせいで、みんなから奇異な目で見られるようになってしまったということだろう。それを自らの容姿や言葉遣いが原因だと勘違いさせてしまっているのなら、こんなに申し訳ないことはない。


 私と関わらなければ、ジャスミンは、もっと自分に自信をもって高校生活を送ることができたはずなのに。今の彼女は、私のせいで、ありもしない偏見を感じて猜疑心にさいなまれてしまっている。

 このままだと、高校生活どころか、彼女の今後の人生さえも狂わせてしまいかねない。

 ジャスミンが次の言葉を発する前に、私は彼女を抱きしめて囁きかれる。


「私がジャスミンを嫌いになるわけないよ。クラスのみんなだって、きっとそうだよ。……ごめんね、不安にさせて。ほんとに大好きだよ。ジャスミンは何も悪くない。ぜんぶ……ぜんぶ私のせいだから……」


 私はたどたどしいながらも、自分の素直な想いを真っ直ぐに伝えた。抱き合っていて表情は見えなかったけど、ジャスミンは、私の拙い言葉をしっかりと受け止めてくれていたと思う。

 ふと目線を上げると、視線の先の鏡は、私の情けない泣き顔を映し出していた。そして、そんな私に包まれたジャスミンの後ろ姿は、とてもか弱く、小さく見えた。


 これが、今回私が選択した結果だ。私がルールを破って屋上へ行き、授業を……人生をサボって楽をした結果が、この光景を生み出したんだ。

 ……こんな結果は許されない。このままで良いわけがない。ジャスミンにとっても、私にとっても……。


 ジャスミンは本当にいい子だ。

 今回、ジャスミンと仲良くなれて良かった。

 私はジャスミンのことが、本当に大好きだ。

 ――だから私は、彼女ともう関わらないことに決めた。




 私は学校の屋上でひとり、目の前のミルクと向き合っていた。別に鏡を見つめているわけではない。文字通りのミルク……時空ミルクだ。

 放課後に乳神商店に立ち寄って、今回は410円で購入した。ビン牛乳一本にしては多少割高ではあるものの、今さら購入をためらうはずがない。


 そして、時空ミルクを手にした私は、それを店先で飲むことはせず、再び学校に戻ってきたのだ。最後に、この景色をもう一度目に焼き付けておきたかったから。思い出のこの場所からの景色を……。


 今日はまた、うんざりするほど天気がいい。

 グラウンドでは、運動部がウォームアップを終えて練習を開始する。

 ……名残惜しいけど、そろそろお別れだ。


 そのとき、バンっという音がして、校舎と屋上を繋ぐ扉が勢いよく開かれた。


「ミルク!」


 ほんとに、あきれるほど真っ直ぐで、どんなときでも迷わず私のもとへ駆けつけてくれる。きっと彼女は、私という重りがなければ、どこまでも高く、果てしなく遠くへと羽ばたいて行けることだろう。


「……さよなら、ジャスミン」


 私は手に持っている牛乳を一気に飲み干す。そして屋上の真ん中で、倒れ込むように仰向けに寝そべった。


 視界を満たす蒼穹は、ジャスミンの澄みきった瞳のように綺麗だ。

 少し傾き始めた太陽の温もりが、穏やかに私の意識を奪っていく。


 ――いつもより10メートルほど近づいた青空は、それでもなお、手が届きそうにないぐらい遠かった。

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