4-7 最後の希望
――私は絶望していた。
頼れるのは、もうあれしかない。
重たい足取りで私が向かったのは、乳神商店だった。ゆっくりとお店に入り、レジのおばあさんに例の質問をぶつける。
「時空ミルク、いくらですか?」
「819円だよ」
私は財布の口を開いた状態にしてひっくり返す。出てきたのは、十円玉と五円玉と一円玉が数枚程度。
……まったく足りない。
財布の中だけでなく、私の全財産を合わせても、到底手の届く金額ではなかった。
結局私は、勝手にネットで買い物をしていたことが親にバレて、それはもうめちゃくちゃ怒られた。それだけでなく、これまでに買った牛乳グッズはすべて売り払われ、貯金も没収、当面お小遣いもなしということになった。
……まあ、それも当然だろう。あれだけバカみたいにネットで買い物をしまくって、しまいには家計を傾ける結果になったんだから。
こんなことをやらかしてもなお、私がなんとか平静を保っていられるのは、たった一つだけ、逆転の一手が残されているからだ。
――そう、最後の希望、時空ミルク。
これさえ手に入れれば、すべてを帳消しにできるんだ。
「あの、今お金これだけしかなくて……。これって、まけてもらうことはできないですかね?」
「値下げはしないよ」
「……そこをなんとか」
「819円だよ」
どうやらネットショッピングのように、特別タイムセールは実施されていないようだ。
……これはどうしたものか。
自販機の下とかを片っ端から探し回って、小銭集めをしようか。
それとも、誰かに頭を下げてお金を借りるか……。
っていうか冷静に考えると、ビン牛乳一本に819円って高くない?
伝説とか究極を見慣れたせいか、ちょっと安く感じてたけど、普通にぼったくりレベルの価格設定だよね?
絶対これ、私に買わせないための嫌がらせじゃん。
レジの前で佇んだままいろいろ思案していると、そんな私を不憫に思ったのか、おばあさんがある提案をしてきた。
「値下げはできないけど、それと交換なら譲ってあげてもいいよ」
おばあさんの視線は、私の財布についているキーホルダーに向けられていた。
――アイドルとアニメのキーホルダー。彩田氏と小浦氏にもらったものだ。
親にすべての牛乳グッズを取り上げられても、それでも手放さなかった友情のキーホルダー。
……これを渡せば、時空ミルクが手に入る。
そうだ、これを手放したからって、別に友情がなくなるわけじゃない。
いや、そもそも考えてみれば、時空ミルクさえ飲んでしまえば、この時空で起こった出来事はすべてなかったことになるんだから、これを手元に残しておくことに意味はないともいえる。
――答えは決まった。いや、きっと最初から決まっていたんだ。
「どうするんだい?」
催促するおばあさんの目を、私は力強く見つめ返す。
「これは渡せません。私にとって、大切なものなので。……すみません、また出直します」
我ながらバカみたいだと思う。でも、今これを手放してしまうと、私の中の大切な何かが二度と取り戻せなくなるような、そんな気がした。
まあ時空ミルクは時価なんだし、いずれ値段が下がるタイミングまで待てばいいだけの話だ。
それが明日なのか、一年後なのかはわからないけど、それまで耐え抜いてみせる。
そうして店を出ようとした私を、おばあさんは呼び止めた。
「時空ミルク、タダでいいよ」
「えっでも、さっきは819円だって……」
「さっきはね、でも値段はずっと同じじゃないんだよ。……時価、だからね」
「ありがとうございます!」
おばあさんの優しさなのか、はたまた本当に今値段が下がったのかは定かではないが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、私が時空ミルクを手に入れられたということだ。
私は店先で牛乳ビンの蓋を開けた。そして、チラッと自分の財布についている二つのキーホルダーに目をやる。
――ありがとう、そしてさらば。
私は牛乳を一気に飲み干して、ギュッと目を閉じる。まぶたの裏には、友情の残像がいつまでも焼き付いていた。
****
「これはこれは、牛乳ガチ勢の白野氏ではありませんか。今回はどのようなご要件ですかな?」
「いや、笑いごとじゃないんですけど?」
乳神様は、にやけた表情で私の方を眺めていた。前回の借りを返すといわんばかりに、完全に私のことを小馬鹿にしている様子だ。
「ああごめんごめん。……で、牛乳に溺れる人生ってどんな気分? やっぱり、牧草生えちゃう感じ?」
この期に及んで、まだからかってくるとは。……神様のくせに、なんて心がちっちゃいんだろう。
今回の乳神様のキャラ設定は、超絶めんどくさいな。とっとと話を切り上げて、早いとこタイムトリップさせてもらおう。
「牛乳買って破産して親からしこたま怒られてすべてを失ってお先真っ暗……もういいから早く戻してください」
「わかったわよ。そこまで落ち込まれたら、こっちが悪いみたいじゃない。まあミルクの神として、責任を感じないわけではないしね」
やれやれといった態度なのは少々癪に障るが、ようやく乳神様は例のタイムトリップをさせてくれる気になったみたいだ。
「じゃあ、お願いします。こんな夢も希望も何もない世界からは、一刻も早く立ち去りたいので」
私はぶっきらぼうにそうつぶやいた。こんな明らかに失敗した世界に、これ以上長居したくはない。
「はいはい。……だけど、すべてを失ってもなおその手に残ったものを、しっかり覚えておくことね」
――――ミルキートリップ!
終始神様らしからぬ嫌味な態度だったけど、最後の言葉だけは不覚にも私の心に深く刻まれた。
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