2-5 いじめ
――最初は、教科書がなくなった。
英語の授業が始まる前に、鞄の中や机の引き出し、ロッカーも探したけど、どこにも見当たらなかった。
家に忘れてきたのかな? ……ぐらいに思って、このときはあまり気にしていなかった。
でも、その日の帰りに下駄箱の中から教科書が出てきた。……ボロボロになっていたけど。
それから、ノートやシャーペン、消しゴムに定規なんかも、いつの間にかなくなっていることがあった。
「ミルク、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
ミズキに聞かれて、私はとっさに引き出しの奥にボロボロの教科書を押し込める。
知らせてもどうにもならないし、ただ心配されるだけだ。
それに、もしかしたらいじめとかではなく、軽い気持ちで誰かがイタズラしただけかもしれない。
教科書も切り刻まれているわけでもないし、別に読めないってことはない。
そもそも、私がターゲットってわけでもなく、たまたま私の教科書が目についただけって可能性もある。
このまま騒がずそっとしていれば、もう何もされないかもしれない。もうちょっと様子を見て、これ以上酷くなるようだったら、先生に相談しよう。
……こういう、とりあえず何も手を打たずに様子を見るという選択は、たいていの場合、物事を良い方向には導かない。なんとなくそんな気はしていたけど、私にはそうすることしかできなかった。
その後も、私物がなくなったり、汚されたりといった被害は続いた。ここまでくると、もう私を狙ってやっているとしか思えない。
ちょうどその頃、タイミングよくクラスでいじめ調査のアンケートが実施された。これは、いじめの有無に関わらず学校全体で定期的に実施されている、いわば恒例行事のようなものだ。もし、いじめやそれと疑わしいことがあれば生徒から報告できる仕組みで、いち早く学校側で事態を把握するためのアンケートなのだ。
私は、今の自分の身に起きていることを、アンケート用紙に書いて提出した。すると後日、私は担任の五十嵐先生から呼び出される。
「白野さん、最近調子はどう?」
……とまあ、軽いジャブがありつつ、本題に入る。
「それで、アンケートに書いてくれたことだけど、詳しく聞かせてもらえる?」
私は五十嵐先生に、自分に起きている事柄を大まかに説明した。
「そうだったのね。……ちなみに、誰にやられてそうとか、何か心当たりはある?」
「正直、あまり思いつかないですね……」
そもそも、私が友達と呼べるのはミズキくらいだし、クラスの中でほかに関わりのある人は皆無といっていい。
もしかしたら、多少なりとも誰かに嫌われている可能性はあるけど、積極的に恨まれる理由は見当がつかなかった。
「そうねー、ちょっとしたことでも何かない? 例えば、過去に誰かと意見が食い違ったことがあるとか……」
ひとしきり考えて、私は口を開く。
「そうですね……ぜんぜん確証はないんですけど、もしかしたら染山さんとか茶田さんかもしれません。前に魚田さんに関することで、ちょっと揉めたことがあったので……」
正直、染山さんたちとミズキの間で起こった問題については、円満に解決したつもりでいた。
でも、あのときの私の態度が気に障って、こんな嫌がらせをしているって可能性もゼロではない。ひょっとしたら、四人全員ということではなく、あの中の誰かひとりが単独でやっているのかも……。
「そうなのね、じゃあ一応彼女たちのことは注意して見ておくわ。また何かあったらいつでも言ってね」
それから五十嵐先生は、私の身に起きている出来事について、クラスのみんなに周知してくれた。
私や染山さんたちの名前は伏せてくれたので、ミズキやほかのクラスメイトから気を遣われることがなかったのはありがたい。先生の気遣いで、ボロボロになった教科書も新しいものと取り換えてもらえたので、誰も私が被害者だとは気づかないだろう。
「ひどいことする人もいるんだね」
「……えっ?」
「嫌がらせの話。あんなことする人の気が知れないよ」
「うん……そうだね」
昼休みにミズキから話を振られて、私はぎこちなく答えた。彼女は、被害にあっているのが私だとは微塵も思っていない様子だった。
「ちょっといいかしら」
そんな私とミズキの会話に、唐突に割って入ってきたのは、委員長の酒井さんだ。
「二人は最近、何か困ったこととかない?」
「うん、別に大丈夫だよ」
ミズキが酒井さんの問いかけに、きっぱりと答える。私は、酒井さんの真っ直ぐな瞳を誤魔化せる自信がなくて、うつむいてひたすらパック牛乳を飲んでいた。
「なら良かったわ」
「みんなに聞いて回ってるの?」
「クラスで起きてる問題は放っておけないもの。委員長として当然よ」
さすが酒井さん、正義感が強い。委員長だからって、なかなかできることじゃないと思う。
「だけど、もし困ったことがあれば相談してね、魚田さん」
「うん、ありがとう」
「白野さんもね」
「……うん」
私のよそよそしい態度を、酒井さんは少し気にしているように見えた。
「ああ、ミルクは牛乳飲んでるときは心ここに在らずだから、気にしないで」
「そんなことないから!」
ミズキが和ませてくれたおかげで、この場はどうにか変な空気にならずに済んだ。
もしかしたら、酒井さんに相談したら、上手いこと私の問題を解決してくれるのではとも思ったが、委員長の仕事で何かと忙しそうだし、無駄な心配をかけるのも申し訳ないのでやめておこう。
五十嵐先生のはたらきかけもあってか、しばらくの間は私への嫌がらせは収まっていた。
……だが、それも一時的なものだった。しかも、再開された嫌がらせは、前よりもエスカレートしていた。
あるときは体操服が汚されていたり、またあるときは靴紐が抜き取られていたりもした。
それでも私は、自分の置かれている状況について、ミズキに話すことはしなかった。
もしミズキに相談したら、巻き込むことになってしまうかもしれない。万が一、矛先が彼女に向くことになれば、以前と同じように学校に来られなくなる可能性もある。そうなることだけは避けたかった。
別に、体操服は洗濯すれば着られるし、靴だって画鋲が仕込まれているよりはマシだ。
どんなに辛いことがあっても、私は耐えられる。
友達がいなかった、あの日々に比べれば、なんてことはない。
――なんてことはない。これも、なんてことは……。
そんなことが続いていたある朝、日直の私がまだ誰もいない教室で目にしたのは、
私の机の下にできた牛乳の水たまりだった。
ゆっくりと近づいて改めて確認すると、私の席の周りにぶちまけられた大量の白い液体から、牛乳特有の強い臭気が漂ってくる。
机の下には、一本の割れた牛乳ビンも無造作に放置されていた。
……とりあえず、誰かが来る前に片付けないと。
私は雑巾を取りに行くために、教室の外へと向かいかけて、扉の前で立ち止まった。そして、うつむいたままこぼれそうになる涙をこらえる。
泣いちゃダメだ、笑え。
笑え、白野ミルク!
これぐらい、なんてことない。
これぐらい…………いや、これは無理だ――。
自分でも気づかないうちに私は教室を飛び出し、学校の外へと駆け出していた。
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