種を蒔く

 ゆっくりと目を開ける。相も変わらず狂いの無い針が、一つひとつ着実に時を刻んでいる。陽の高さが変わったせいで、カーテンの隙間から射す光が眩しい。


 静かだ。


 まるで誰も居なくなってしまったかのような静寂だった。思い付く限りの親しい人たち全員に残らず置いていかれたとしたら、こんな感覚かもしれないと思った。

 亀もびっくりの速度でのそのそと起き上がり、リビングを出る。どこに居ても仕方がないから、自分の部屋へ行こうとした、その時だった。

「何よ。────とお──んが──なっ──、私────き────んか───たく──」


 はっとした。なんと言ったのかは分からなかった。だけど彼女の怒気を孕んだ声は、もう長いこと聞いたことがなかった。


『何よ。自分はなんにもしないで寝てるだけ、私ばっかり頑張って、夢だって諦めたのに』


 気のせいだと思った。だけど、何て言ってたの? とは、絶対に聞けなかった。

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