第1話-4

 滅多に人を通さない己の寝室に向かい、大きなベッドに少女を横たわらせる。ベッド脇の椅子に腰掛けたデイヴィットはようやく落ち着いて少女を観察できた。年は十に満たない程度。手足には鞭で叩いたのか、刃物で切られたのか、小さな傷も大きな傷も見受けられる。年齢の割に体は小さく、痩せている。頬に赤みもない。

(平穏に暮らして来たわけじゃあなさそうだな……)

スティーブは主人が開け放ったままの扉をノックした。

「失礼いたします。坊っちゃま、オレンジ様が話をしたいと……」

「わかった。子供を頼む」

デイヴィットは柔らかな掛け布団を少女の肩までかけ腰を上げた。

「かしこまりました」

すれ違いざまに執事スティーブはデイヴィットに耳打ちをした。

「オレンジ様ですが、私が気付く前に玄関に立っておられました」

「……そうか」

 デイヴィットは客間の一室に案内されていたオレンジの元へ訪れる。オレンジはベッドに腰かけた状態で窓の方を見ていた。

「話があるって?」

「……ああ、そうだ。あの子供の事だが……俺はあの子と相性が悪い。それで、俺はあの子とあまり関わらない方が良いから、今後はアンタが世話をしてくれ」

「悪魔に子供を押し付ける気か?」

「アンタは無闇に暴力を振るう奴じゃない」

「まあその通りだがよ。……相性が悪いと言ったな? 理由を聞いて良いか?」

「あの子は星見だ」

「ははあ、なるほど。だからか。確かにそりゃ相性が悪い」

「ああ、あの子に見られているとも出来ないからな」

「わかった、世話は任されてやるよ。つっても、誰か適任がいればそいつに任せる」

「……アンタ以外の適任はいないよ。あの子に関しては」

「ふうん」

「眠ったら、俺も移動する。ベッドをありがとう」

「おう、休みたかったらいつでも来て良いぞ。それからメシは食って行け。安心しろ金は取らん」

「……わかった、その言葉には甘えておく」

「おう。じゃあな」

「ああ、おやすみ」

 扉を閉めデイヴィットは寝室に再び顔を出す。爺やが少女の身体に付いた傷を魔法で治している。その様子を見守りながらデイヴィットはベッドの端に腰かけた。

「俺が面倒を見ろとよ」

「左様でございますか。身の回りの世話にはメイドを当てがいましょう」

「そうだな。それからその娘は星見だそうだ」

「ふむ、左様でございますか……。しばらくこの爺も目を離さないようにしておきます」

「そうしてくれると助かる。それとオレンジ曰く娘は客じゃなくなる。大事にしすぎるな。普通に接しろ」

「かしこまりました。ではお嬢様とお呼びしましょう」

「お嬢様ねえ……。まあ、いいか」

今頃、この娘と自分を魔祓い師たちが血眼になって探しているであろう。魔祓い師たちはまだどちらが獲物なのかわかっていない。デイヴィットは不敵に口の端を持ち上げた。


 深く眠ったのはいつぶりだろう? 深い闇から戻ってきた少女はしゃっきりしない頭で周りを見渡した。天蓋付きのベッド。見慣れぬ広い部屋。部屋の周り、壁の向こうには不思議な紋様がびっしりと書き込まれそれ以上の外側は視認できない。そこで世界が終わっているようにプッツリと途切れている。

(えっと……)

何が起きたのか思い出そうとしながらエヴァンジェリンは体を起こした。大人の男たちに攫われた。面倒を見てくれたシスターに裏切られた。過去の情景を思い出した少女は自分を抱きしめブルリと身を震わせた。

(私、どうなるの……?)

ベッドから足を下ろすと脇にあった木製の机に置いてあった時計が目に入った。時刻は昼前。体感としては一日も経っていないはずだが自信はなかった。なにせ泥のように眠ってしまったから。

少女は己の腕を見やる。皮膚を覆うほどあった細かい傷跡がほとんど消えている。滑らかになった自分の肌を触ってみるとさらさらとした感触が珍しくて、何度も確認する。喉の渇きと空腹を思い出した彼女はベッドからふらふらと離れドアノブに手をかける。

「おや」

部屋を出ようとしたエヴァンジェリンは美しく染め上げた茶髪の老人と鉢合わせ体が強張る。

「ご様子を見に伺おうと思っておりました。お食事はいかがですか?」

「……食べます」

「では、こちらへ」

 今まで訪れたどの家よりも広く豪奢な内装を見渡しながらエヴァはダイニングに案内される。十人は座れそうなスペースの一角に子供用にクッションがいくつも積まれた椅子が鎮座している。

「すぐご用意いたします」

「はい」

白いテーブルクロスの上には精錬され、美しい食器たちが左右正しく並んでいる。聖典で読んだ悪魔の棲み家はもっとどろどろでぐちゃぐちゃだったはずだ。実際の悪魔は随分綺麗好きなのだな、と考えていると食事が運ばれて来る。スープ皿が置かれ中身が注がれる。意外な事にそれはポトフだった。

「……あの」

「はい、いかがなさいました?」

「いつもは食事の前に、お祈りをするんですけど……」

「ああ、ここでは不要です。そのまま口へお運びください」

祈らなくて良い、というのは初めてだ。困惑しながらもエヴァは久しぶりのポトフを口に含む。修道院では清貧を美徳としていたためスープに具が入っていることはなく、大体はすりつぶした芋かニンジン、良くてチキンで出汁を取ったスープだった。ご馳走であったウインナーを咀嚼する。

「……美味しい」

「それはそれは、ようございました」

エヴァがポトフにパンやハンバーグ、一通りの食事を口にしているとダイニングへの扉が開け放たれる。エヴァンジェリンは思わずビクッと身をすくめた。

「歳? あー、十歳くらいか?」

黒い炎のデイヴィットは素っ気ないシャツ姿でスマホ片手に誰かと電話をしながら入ってきた。髪をかき上げる動作をして姿を人に置換したデイヴィットは電話を耳に押し当てる。

「女児。とりあえずそっちに向かうが、いかにもな神父服の連中が来たら……来た? 引き留めておいてくれ。すぐ行く」

電話を切ったデイヴィットは強張ったまま自分を見上げる少女を紫の瞳で見下ろした。エヴァは物を貫いて星空を見通す瞳の持ち主。いつもピントが合うのは遠くの星ばっかりで、近くの物は思いっきり目を細めなければ見えないことも多かった。しかし今、彼女の瞳にはデイヴィットの顔がくっきり見えていた。人の顔をこれだけスッキリと見られるのは初めてだった。そして、黒い髪のデイヴィットは美しかった。星のように。

(綺麗……)

思考を読んだのかデイヴィットはニッと口の端を持ち上げた。

「名前は?」

「……エヴァです。エヴァンジェリン・ス」

「おっと、全部言わなくていい」

デイヴィットは唇の前に人差し指を立てた。

「俺らみたいな人間じゃない奴には本名を全部教えちゃならん」

「どう、してですか……?」

「相応の理由はあるが、今はそう言うものだと覚えておけ」

デイヴィットは腕時計を確認すると執事と目を合わせる。

「着替える」

「畏まりました、坊っちゃま」

エヴァンジェリンはダイニングを出て行こうと背を向けた二人を見て焦って腰を上げた。

「あ、あの……!」

「何だ」

「あ……」

このまま置いて行かれるような気がした。信用していいのか分からない人たちなのに、どうしてか置いて行かれる方が怖かった。

少女の青い顔を見たデイヴィットはフンと鼻を鳴らした。

「いい、一人で着替えてくる」

「畏まりました」

少女がもう一度声をかける前にデイヴィットは出て行った。残った執事はエヴァの近くへ戻ると彼女を椅子に座らせ紅茶を注いだ。

「お食事の続きを」

「で、でもさっきの人が……」

「坊っちゃまはお着替えをなさっているだけです」

「でも、そ、外はさっきの怖い人たちがいるから……」

スティーブは怯える少女にティーカップを握らせた。

「お飲みになってください。落ち着きますよ」

紅茶にはミルクと砂糖が入っていた。たっぷりと甘くされたミルクティーに口をつけるとエヴァの体は温かさと甘さで解きほぐされる。

表情が和らいだ少女を見てスティーヴはにこりと微笑んだ。

「お嬢様」

「お、おじょうさま? 私のことですか?」

「はい」

「私、お嬢様ではないので……あ、あの、エヴァンジェリンと申します。エヴァと呼んでください」

スティーヴはにっこりとし、軽い会釈とともに左胸に手を添えた。

「ご丁寧にありがとうございます。スティーヴ・サイモンと申します。デイヴィット様の執事でございます。スティーヴか、爺やとお呼びくださいませ。エヴァ様」

「あ、よ、よろしくお願いします。……スティーヴさん」

「こちらこそ。光栄でございます」

スティーヴは柔らかく微笑んだ。

 革靴を鳴らしてデイヴィットがダイニングに戻ってくる。整髪剤で髪を後ろに流したこの家の主人は夜会に向かうような豪奢な刺繍の黒いスーツに身を包んでいた。

「爺や、ボタン」

「はい」

カフスボタンを手渡された執事は主人の袖に手を添えた。ボタンをつけ終えるのをただ待っていたデイヴィットの元にエヴァンジェリンがおずおずと近寄る。

「あ、あの……」

「ん?」

「そ、外はさっきの怖い人たちがいるから出ないで……ください」

デイヴィットが紫の瞳で少女を見下ろすとエヴァは胸の前で握った両手をより握りしめる。

「お、お願いします……」

「悪魔にはナシだ。契約を持ち掛けられるぞ」

デイヴィットがフイと顔を背けるとエヴァは疎まれたのだと思って俯いた。

(どうしよう……)

「なぜ引き留める?」

「え?」

少女が顔を上げるとデイヴィットはボタンをつけ終え少女の前で膝をついた。見上げていた男を見下ろす形になりエヴァは戸惑う。

「あ……」

「俺はお前が怖がってる神父どもより断然強いぞ」

「で、でも怪我したら……」

「しねえよ」

デイヴィットは固く握りすぎて真っ白になってしまった小さな手を取るとそっと指を広げさせた。そして小さなその手をうやうやしく持ち上げ甲に口付けた。何が起きたのかわからず、エヴァは目の前の光景を呆然と見つめた。

「ここは俺の城だからどこよりも安全だ。結界は張ってあるしいざとなったら爺やもいる」

デイヴィットは少女の手を取ったまま首を傾けて執事を示した。

「こう見えて俺の執事は戦える。お前がここからさらわれる心配はない。不安なのはそれとも」

デイヴィットは目を合わせたまま少女の指先に口付けた。

「俺があんなクソどもにボロボロに負ける方か?」

「ち、違う……」

エヴァンジェリンは泣きそうだった。

出て行ったデイヴィットが帰ってくるか分からなかったから。

「そうじゃ……」

(そうじゃなくて)

デイヴィットは真っ直ぐエヴァの瞳を見つめた。戯れに合わせるのではなく真剣に見つめ返した。少女はひりついた喉からやっとの思いで声を絞り出した。

「置いて、行かないで」

その答えはデイヴィットにとって意外だったようだ。目を丸くした彼は数回瞬きをすると少女を抱き寄せた。エヴァンジェリンはデイヴィットの首に腕を回し、自分の擦り切れた袖をぎゅうっと握りしめた。

「置いては行かない。ここは俺の家だからすぐ帰ってくる」

「ん……」

「お前はお留守番だ。爺やにデザートをたっぷりもらって腹一杯食って眠ってろ。服も買って届けさせるから好きな色のワンピースに着替えるんだ」

「ん……」

少女の青い瞳から涙がポロポロとこぼれた。エヴァは不安からではなく安心してあふれた涙をどうしていいかわからなかった。

「ここにお前を害する物はない。安心していい」

「うん……」

小さすぎる背中をトントンと叩いたデイヴィットはエヴァが落ち着くのを待って体を離した。

「じゃあ、行ってくるよ」

「……いってらっしゃい」

デイヴィットは優しく微笑んで少女の頬を撫でた。立ち上がる頃にはデイヴィットの表情は凛と引き締まったものへ変わっている。

「マチルダに連絡して服を持って来させろ。言い値で買え」

「畏まりました」

デイヴィットはエヴァの頭にポンと手を置いてから玄関へ向かった。

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