第19話
最初に殺人をしたのは小学校五年生の夏休みだった。殺したのは自分の母親だ。父親と離婚し、毎日外に出て遊んで男を作っては振られたりして帰ってくる。その鬱憤を晴らす為か帰ってくると毎日のように殴る蹴るの虐待の日々だった。でも母親を憎んだりはしなかった。虐待をしてこようがたった一人の母親は必ず帰ってきてくれる。それだけで良かった。毎日、毎日身体に痣を作りながらも、外に出ていく母親を見てきっと帰ってきてくれる、帰ってきてくれるならそれで良かった。それさえ裏切らなければ。虐待をしてこようが構わなかった。
夏休みが始まって二週間経った雨の日、少女は母親を殺した。手には包丁を握り締め、目の前には事切れた母親が横たわっている。どうして殺したのか。理由は簡単だった。いつものように暴力を振るい、いつものように外に遊びに出かける母親を見て、ふと今出ていったらもう帰ってこないのではないかと思った。何故かその瞬間だけそう思った。そこからの思考は早かった。母親が出ていく、母親と一緒に居たい、今引き止めてもすぐに出ていってしまう。ずっと傍に居てくれるにはどうすれば良いか。導き出された答えが頭の中で巡るよりも前に身体が動いていた。台所に走り包丁を握り締めて母親の背中のど真ん中に突き刺す。鈍い音を立てて包丁が肉を裂き骨を砕く感覚が包丁を伝って感じられた。母親は一瞬身体を震わせ、何が起きたか分からないというような顔をして娘を見る。これで一緒に居られる安心感からか母親が最後に見たのは無邪気な笑顔で自分を刺し殺す娘の顔だった。少女は何回刺したかは覚えていない。ただ、倒れてからもしばらく刺し続けていたのは覚えている。横たわる母親を見て最初はずっと一緒に居られると嬉しく思っていた。しかし徐々に自分のした事の大きさを自覚していった。殺人をすればいつかはバレる、バレたら捕まる、罰を受けなければならない。小学五年生という歳でそこまで考えられたものの、パニックになりつつあった。少女は母親の遺体を浴室に必死に引きずって運び、父親の工場に向かった。その日は工場は休みだったのを知っていたので休みの静かな工場に忍び込み、いくつかの刃物を盗み家に帰った。浴室で動かない母親を見て泣きながら首を切った。次に右手、右足と次々と解体していく。浴槽内にバラバラの手足が並ぶのを見て少女の中で何かが崩れる音がする。ふと空腹を感じたので冷蔵庫を見るが子どもに虐待を振るい、死んでもいいと思っていふ母親が子どもの為に何か食べ物を残しておく様なことはしないと思い知った。何か食べ物はないか。そうして浴室のただの肉塊に成り果てた母親を見る。少女は唾を飲む。欲が嫌悪を上回る。少女は狂っていたのかもしれない。少女は刃物で胴体の腹の部分を開くと、気持ち悪い感触も気にせず臓器を取り出し、加熱処理をする。自分を心配して余り物の肉などをくれた近所の肉屋の主人に色々教えてもらっていたので処理の仕方は一緒だと思っていた。数時間後、警察の介入により母親の殺害が発覚して後に平成の食人事件と呼ばれる事件が顕になった。その通報をしたとは奇しくもその肉屋の主人だった。
少女は警察官と歩いている時も、事情聴取を受けている時も、児童相談所の相談員の話を聞いている時も、ずっと自分の身体の中にいる母親の事を考えて幸せな気分に浸っていた。その後は医療少年院に入り、里親に引き取られ、大学にも行かせてもらい結婚までした。その時はもう愛着障害も依存性パーソナリティ障害も治ったと思っていた。そう、あの日、あの男が現れるまでは。
工場内に悲鳴と火薬が炸裂する音が響く。鷲島は目を見張り、佐東は右腕に感じる熱い感覚にしばらく固まっていた。佐東の右腕には穴が空いており、そこから服に赤い染みがどんどん広がっていく。熱い感覚が徐々に痛みに変わり、佐東は叫ぶ。
「いっ・・・・・・痛ったぁぁぁぁぁぁ?!あぁ?!痛い!痛いよ!」
佐東はノコギリを投げ出して右腕を抑えて転がり込む。痛みを和らげるためか必要以上に叫んでいるようにも見えた。叫ぶ事で痛みの意識を他に逸らして脳に痛みを感じさせないという話は聞くが、実際は痛みを伝える神経よりも圧覚の神経の方が太く、伝達が速いので痛む場所を抑える事で痛覚の神経よりも圧覚の神経の伝達が脳に早く届けられ、脳は弱い痛覚よりも強い圧覚の刺激を感知するので痛みが和らぐという原理があるが、それを理解して行動している人なんて居ないだろう。佐東も恐らく本能的に被弾した右腕を抑えているだけで叫びは彼女の心の底からの声なのだろう。だからこそ先程の殺人の告白も嘘ではないのかもしれない。そこまで考えてはっとして周りを見渡す。叫びで目が覚めた千聖と息子は何が起きたのか分からないというような顔で鷲島を見ている。
「二人とも!伏せてろ!」
「えっ・・・でも」
「いいから!」
鷲島の言葉に千聖は息子を守るように覆い被さる形で伏せる。鷲島が辺りを見渡すと工場の奥の扉から何人もの人が出てくる。鷲島は最初に出てきた人の名前を叫ぶ。
「佐々川さん!」
「遅くなってすまない!佐東がお前達を拉致した場所を探すのに手間取ってしまった・・・が、ようやく会えたな、殺人鬼野郎」
佐々川は銃をしっかり構えながら右腕を抑えて悶える佐東にゆっくりと近づく。後から他の捜査員たちも入ってきて鷲島と千聖、息子を助け出す。鷲島は痛む頭を抑えながら佐東の元へ歩く。佐東はゆっくりと顔を上げる。その顔には苦悶の表情と怒りの表情が混ざっているような顔だった。
「離れたくないから殺す・・・その人を食べればずっと一緒にいられる・・・・・・そんな事してもずっと一緒にはならないだろ!」
「黙れ!誰もがお前みたいに虐待から立ち直れる訳じゃないんだよ!虐待でこの先の未来を全部歪められたまま生きていくしかない人だっているんだよ!」
佐東の言葉に工場内に居る人々は黙る。第三者でもない、虐待を受けてきた当事者から放たれる言葉にはどんな理屈も通用しない重さがあった。だからこそ鷲島もかつてその当事者だった身として佐東の言葉を受け止める事が出来る。だからこそその生き方は間違っていると真正面から言う事ができる。やり直せると、どれだけ歪められようがその歪みを元に戻せないことは無いと。鷲島はまっすぐ佐東を見る。佐東は虎に睨まれたかの様に身体を震わせる。意を決したのか、佐東はゆっくりとノコギリを振りかぶり鷲島に襲いかかる。鷲島は佐々川に二人を連れて早く逃げるように目配せをする。佐々川はそんな事はできないという表情で鷲島を見たが、鷲島の真剣な眼差しを見て黙って二人を連れて工場内から出ていく。鷲島は鬼の形相で襲いかかる佐東を見て、かつての自分を重ね合わせながら過去の己を否定するようにこぶしを握る。
「殺した人間は帰ってこない・・・一緒に居られると思うのはお前の一方的な気持ちだけだろうが!」
振り下ろされるノコギリを間一髪で避けて下から顎を突き上げる形で拳を振り上げる。所謂アッパーというやつが盛大に佐東の顔にくい込み、そのまま佐東は機械に乗り上げながら転がり落ちていく。佐東はそれきり動かなかった。鷲島は一気に身体から力が抜ける。もう少しで三人とも佐東に殺されるところだった。佐々川が助けに来なければ確実に手遅れだっただろう。そう考えていると佐々川が捜査員を連れて戻ってくる。捜査員達は佐東を見るや否や手錠で拘束して連行していく。佐東の顔は絶望も希望もない全くの無表情だった。鷲島は佐々川に問いかける。
「どうして佐東が俺達をここに連れて来たって分かったんですか?」
「あの捜査資料だよ。あそこには事細かに佐東に関する情報が書かれていた。そこに父親が経営していた工場の事も書かれていて、自宅で解体するのに限界が来た殺人鬼は次に遺体を解体するなら誰も来ないであろう父親の潰れた工場だと思っただけだ」
「あぁ、あの捜査資料・・・」
「お前、あれを見て佐東が犯人かもしれない、と思ったんだろう?」
確かにそうだ。あの捜査資料には佐東に関する情報が事細かく書かれていた。しかし鷲島は頭に何か残っているような気持ち悪さを感じていた。佐々川を見ると佐々川も同じような顔をしていたが今は捕まえた佐東を取り調べしなくては。その後は、家族三人でちゃんと先の事を話さなければ。
「佐東さんを変えたのは虐待なんでしょうか」
「変えた・・・か。変わったのか、変えられたのか、それとも・・・・・・いや、忘れてくれ」
佐々川の意味ありげな言葉に疑問を感じながら鷲島は痛む身体に鞭を打って工場から出ていく。明かりが消えた工場内には機械の軋む音と隙間風が奏でる不気味な音が響いていた。
取調室はかなり簡易で無機質で、狭い部屋だ。白い部屋に白い机とパイプ椅子が机を挟むように二つ。部屋の真ん中に置かれており片隅には取り調べの様子や供述内容を記録したり、警察官の取調室での違法行為が無いように補助官が座る椅子と机がある。上の方には黒い箱があり、中にはカメラが入っている。警察官の取調室での違法行為が深刻化した事もあり、二〇一六年の刑事訴訟法等の一部改正により裁判員裁判対象事件・検察官独自捜査事件において、身体拘束下の被疑者取り調べの全過程の録画が義務付けられ、二〇一九年六月に施行された。鷲島も施行前に何度も先輩刑事と取り調べを行うことはよくあったが今ではやってはいけなかったのか、と思うような乱暴な取り調べは多々あった。恐怖や暴力で得られた供述など信用できるかどうか、とは思うが緊急性が高いとどうしてもそうなるのかもしれない。そこまで追い詰められているのなら。
今、取調室には奥に佐東菜摘、向かいに鷲島、その後ろに佐々川と補助官がいた。熊谷警察署に連行された佐東は裏口から署内に入り、多くの捜査員達と会う。その捜査員達は今回の猟奇殺人事件を必死に追いかけた人達であり、その凶悪な犯人が目の前にいると知った彼らの顔は忘れられなかった。犯人を捕らえた安心、無惨に人の命を奪うのを許した悔しさ、その肉を食べるという被害者を冒涜する行為を行った犯人に対する怒りなどが混ざっていた。佐東は彼らを舐めまわすように見てから、軽く頭を下げて捜査員に連行される。静寂が制した取調室の沈黙を破ったのは鷲島だった。
「何故彼らを殺した・・・・・・というのはもう話してくれたな。寂しかった。それとも障害のせいか?」
俯く佐東の肩が少し震える。佐東の表情は見えないが鷲島は話を続ける。引き出しから捜査資料を出して佐東の前に投げる。
「佐東菜摘、いや、阿比留菜摘。十五年前、鴻巣市で母親を殺し、その肉を食べた平成の食人事件。それも寂しかったからか?それがどうして今になって同じような事件を?」
佐東は答えない。聞こえているはずなのに、何も答えまいとする確固たる意志を感じた。冷静を演じていた鷲島もしびれを切らして佐東に掴みかかる。カメラなんて気にしていなかった。補助官が止めようと立ち上がるが、佐々川が少しだけやらせてくれ、と制止する。顔が見えるように佐東の襟首を掴むと佐東は無表情だった。呑まれてしまいそうな闇に近い、まるでブラックホールのような。
「千佳子さんは・・・結婚するって言って・・・・・・私のこと大好きって言ってくれたのに。保くんも私と一緒にいれて楽しいって言ってくれたのに、就職で東京に行くって。阿比留先生は・・・・・・おじいちゃんは私のこと異常者だって・・・・・・・・・みんな私を置いて見捨てていくから!一緒に居られないなら殺すしかないでしょう?!ねぇ?!」
「彼らはあんたと同じ虐待被害者だった!彼らは知らなかったかもしれないが、あんたも同じ虐待被害者として彼らの気持ちを理解出来たはずだ!そういう意味での信頼関係じゃなかったのか!」
「一人は嫌なの!!離れるくらいだったら殺してずっと傍に居てくれればいいじゃない!」
依存性パーソナリティ障害。他人に依存し、世話をしてもらいたいという過度の要求を特徴とし、服従することで他人に世話をしてもらおうと考える。愛着障害。養育者どの愛着が何らかの理由で形成されず、子どもの情緒や人間関係に問題が生じる状態であり、大きな原因は虐待や離婚。愛を思う様に受けられず、他人に依存する。一人では生きられない、誰かと一緒じゃなければいけない極度の寂しがり屋の人が心を許した人と離れると思ったらどうなるか。佐東の場合は彼女の一方的な思い込みだったが、殺人まではいかなくてもそれに近い行動は起こすのかもしれない。それでも佐東がやった事は許されることでは無い。
「どうして嘘なんか吹聴したんだ?少なくとも最後の被害者以外は虐待なんかしていない。しかもその嘘を吹聴する、尼崎に吹聴させる理由は無いはずだ」
佐東は無表情で鷲島を見る。ゆっくりと佐々川と補助官を見てからまた鷲島を見る。
「・・・・・・黙ります」
それだけ言い残して佐東は座る。それ以上彼女が口を開くことはなかった。
『先週から埼玉県熊谷市で発生していた猟奇殺人事件について、警察が先程容疑者を逮捕したと発表しました』
『容疑者は佐東菜摘二十六歳、熊谷市でカフェを経営していました』
『情報によると、佐東容疑者は名前を変えており改名前は阿比留菜摘、十五年前に起きた鴻巣市母親殺人事件の容疑者でもあり、今回の三人目の被害者である阿比留岩雄さんの孫でもありました』
『やっぱりこういう事件を起こす人は元々危険な思考を持っているんですよ。虐待が原因とか言ってますけど、やっちゃいけない事をやった訳ですからね。頭のおかしい人間が頭のおかしい狂った事件を起こしただけの話でしょう』
『こういう事件を見ると、やっぱり異常者はって思いますよね』
佐東が逮捕された翌日のニュース、新聞、ネット記事などマスコミ関係の見出しはほぼ佐東の事件で埋め尽くされていた。記事の見出しには『猟奇殺人鬼イヌ男』の文字も多く見られた。結局男による犯行というのはミスリード、というよりは男による犯行だという思い込みが招いたことだった。佐東が犯人だと分かったのもあの捜査資料があったからだ。鷲島は解散した捜査本部の会議室で一人テレビを見ていた。すると手元に熱々のコーヒーが置かれる。
「カフェのコーヒーほど上手くはないがな」
「機械でも充分美味しいですよ」
「・・・・・・俺がハンドドリップで淹れてみた」
少し驚きながらも佐々川の自信ありげな表情と発言を信じてコーヒーを飲む。確かにコーヒーらしい苦味は感じるが雑味が混ざり、旨みが上手く出し切れていない。蒸らしなど入れないでやったのかもしれない、と思いながらもプロではない事と今そんなダメ出ししても意味は無いと思い苦味と共に飲み込む。佐々川はふぅ、吐息を吐く。
「終わったな」
「終わりました・・・・・・・・・終わったんですかね」
鷲島の歯切れが悪い。佐々川はまたふぅ、と今度はため息をつく。どうやら佐々川にも同じ様な引っかかりは感じていたらしい。
「あの捜査資料、多分署内では作られていません。資料は必ず全員に配られるはずです。あの内容ですから調べた時点で佐東が怪しいと分かったはず。なのにあの時まで佐東に関する捜査資料は出てこなかった」
「外部の人間が入れた。何のために?」
「それは・・・」
分からないとしか言い様がない。単純に考えれば誰かが佐東が犯人であることを知らせようとしたと思うが、それならば尼崎はどうなる。尼崎を犯人に仕立てあげようとしたのが佐東だとしてもそれを知る人物は居ただろうか。あの捜査資料は佐東が事件を起こし、そして捕まることまでを想定したとしか思えない。もっと言えばあの捜査資料が無ければ佐東が犯人である可能性にも気が付かず、事件解決には至らなかったかもしれない。それこそ佐東に対して何か強い恨みを持つ人間か。しかし今回の遺族にはそんな余裕は無いはず。ならばもっと前に佐東に対して恨みを持つ誰かなのか。
事件は解決したはずなのにスッキリしないもどかしさを感じながらテレビのニュースを見る。彼らは口を揃えて今回の猟奇殺人事件の犯人である佐東を『頭のおかしい人間』と言っていた。だが彼女がどれだけの虐待を受け、そして虐待を受けた者がどれだけその先の人生を歪められてしまうのかを考えようとはしていない。自分には理解できない、社会や集団から逸脱する人はどの世界でも『おかしい奴』と決めつけられてしまう。そのおかしい奴の心の内や考えを少しでも理解しようとはせずに。結局、どれだけ口で虐待を受けた人の助けになりたい、等と言っても当事者からしたらただの気休めで本当の意味で助けにはなれないのだ。こんな事を言ってしまうともう誰も助けることなんてできない。刑事だって助けられなかった命は多くある。どんな事でも当事者からしたら結局は他人なのだ。佐東にとっての鷲島も。
「重度の依存性パーソナリティ障害と愛着障害、だがそれは医療少年院に入ってある程度は治療したはずだ。だからこそ佐東も社会に出て結婚まで出来た。そんな佐東が十五年の時を経て何故今頃?」
「何かのきっかけで障害が再発した・・・っていうのはありえる話なのかもしれませんね」
十五年前の殺人を犯した時の障害を再発させるほどのきっかけ。つまりそれは殺人と同じくらい佐東にとって重大な何かがあった。鷲島はコーヒーを飲み干すと佐々川に美味しかったです、と言い部屋を出る。佐々川は出ていく鷲島を見て呟く。
「美味いわけないだろ。コーヒーなんて今日初めて自分で淹れたんだからな」
嘘が下手だな、と思いながら静かな会議室で一人テレビを見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます