第18話
目が覚めた時最初に感じたのは肌寒さだった。もう六月で夏の入り口だというのに二月の様な冷たい風が頬を撫でていく。その度に身体が内側から震えるのを感じていた。辺りを見渡してみると鉄骨が剥き出しの広い倉庫のような場所にいることが分かった。大きな扉は閉まっているが、窓から差し込む光はなく既に夜を迎えているのだろうと理解するには時間は掛からなかった。鷲島は意識が落ちる前のことを思い出そうとするが後頭部に鈍い痛みが走り思考を遮る。殴られたのは覚えておりその前に暴動で受けたキズがあったのによく死ななかったな、と自分の悪運の強さに少し感心しながら隙間風の音でようやく自分が今どのような場所にいるのかを把握する。普通の家の倉庫にはない大きな機械。鉄を伸ばす機械や鉄を曲げる機械、鉄を切り出す機械など明らかに工場の中にいることは理解出来た。まだ暴動の時の傷や尼崎を追いかけた時のダメージが癒えておらず、身体に走る痛みを我慢して立ち上がろうとするが上手く立ち上がれず、尻もちをついてしまう。両手を見ると手錠で自由を奪われていた。幸い足には何も拘束はなかったのでしっかりバランスをとれば立つことは可能だった。ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がりそして辺りを改めて見渡す。高い天井からは弱い光を放つ蛍光灯が工場内を鈍く照らしていた。外に出る出口はないかと歩き回る。鷲島の足音だけが虚しく響き、そして後ろから近づく足音に気が付くのが数秒遅れた。
「あぁ、目が覚めましたか?鷲島さん」
「!佐東・・・・・・さん」
鷲島は素早い動きで後ろから近づく佐東の方に振り返る。昔からそのタフさは周りから褒められていたが、今でもそのタフさは健在だった。佐東は何事も無かったような澄ました顔で鷲島を見ている。それだけ見ればいつも通りの優しいカフェ店長の佐東だが手に持っているノコギリが佐東が猟奇殺人鬼だという事を物語っている。ノコギリの刃には赤黒く錆びた何かと髪の毛か体毛の様な毛が付いていた。鷲島は心臓の鼓動が早くなるのを感じる。今目の前にいるのは人の臓器を食べる猟奇殺人鬼だ。どんな理屈や常識も通用しない。そもそも良心や常識なんて持ち合わせていたらこんな殺人事件は起こさないだろう。佐東は警戒する鷲島を見て気持ち悪い笑みを浮かべる。
「鷲島さんが聞きたいことは分かりますよ?どうして殺人なんか、ってね」
「・・・信じたくなかった」
「?」
鷲島の言葉に首を傾げる。
「佐東さんを見ていると昔の自分を見ているようで・・・バイトの子も常連さんも大切にしていて、優しい人だと・・・」
鷲島は声を震わせながら言う。それは悲しみからなのか怒りからなのか、それとも両方が混ざった感情なのか分からないがとにかく言葉にせずにはいられなかった。鷲島の言葉を聞いていた佐東はニヤニヤ笑いながらゆっくりと話す。ノコギリを機械に擦り付けながら歩く。甲高い金属音が工場内に不気味に響き渡る。
「本当にここまで追い詰められるなんて思いませんでしたよ。全部尼崎に罪を擦り付けようとしてたのに・・・尼崎もあなたの為なら!なんて満面の笑みで話に乗っかってきて、気持ち悪いストーカーでしたよ」
「どうして・・・」
「・・・・・・みんなが、私から離れていくから・・・」
佐東の先程までの笑みは消え、怯えと怒りの表情に変わっていく。まるでもう一つの人格が現れたかのように。佐東のノコギリを掴む力が強くなり、ノコギリが軋む。
「みんな私を置いて!見捨てていくから!だから・・・・・・離れるくらいだったら殺しちゃえば・・・・・・殺して食べちゃえば・・・みんなは私のこの・・・身体の中で一緒にいられる・・・」
佐東は自分の腹部を妊婦がお腹の中で成長する我が子を撫でるように触る。その顔はまた笑みに包まれていた。鷲島は佐東の言っている事が理解できなかった。同じ人間とは思えなかった。何をどうしたらそんな考えに行き着くのか。殺してしまったらそれまでだ。だが中には生きていればいつかは自分から離れていくかもしれない、ならば殺して自分から離れさせなければいいと考える人もいるかもしれない。そんな人間は滅多にいないと思うが。鷲島は依存性パーソナリティ障害、愛着障害という言葉を思い出す。
「最初から尼崎を利用するつもりでいたのか。南藤さんとの繋がりは・・・」
「それを話して何になるんです?だってあなたも今から・・・・・・大切なものを奪われるんですからね」
佐東はそう言うと奥にあるカーテンのように掛かる布を引き剥がす。奥には鎖に繋がれた妻の千聖と息子がいた。まだ意識は戻っていないのか眠ったままだった。鷲島の心臓が飛び跳ねる様な感覚に襲われる。鷲島は両手を縛る手錠を思い切り引っ張る。
「お前!何をするつもりだ!」
「私を裏切るからいけないんですよ・・・・・・千聖さん、引っ越しするって言ってました・・・」
千聖が虐待をしていると知った児童相談所で約束したこと、もっと広いところに引っ越そうという約束を思い出す。そして依存性パーソナリティ障害のことを思い出す。佐東は千聖に世話をしてもらいたい、千聖に依存しており千聖が自分の元を離れるならいっそ殺してずっと一緒にいられるようにすればいいと考えているのかもしれない。母親を殺したのも、その肉を食べたのももしかしたら空腹からではなくその障害が原因なのかもしれない。とにかく今は佐東を止めなければならない。
「やめろ・・・やめろぉぉ!」
「私を見捨てていくなんて許せない!私から離れていくくらいだったら!ずっと一緒にいられるようにしなくちゃ!」
佐東はノコギリを大きく振りかぶる。鷲島は必死に手錠から手を抜こうともがく。手首から血が溢れ出す。痛みも忘れて身体を動かして佐東を止めようとする。鷲島の目には、大きく振りかぶられたノコギリが千聖の頭に振り下ろされる光景がスローモーションの様に映った。そして━━━━━━━━━━━━
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