第8話
六月二十二日/午後五時
鷲島は目を覆うように手を顔に当てる。椅子の背もたれに全体重をかけて背中の筋肉を伸ばす。筋肉が解れる感覚が全身を駆け巡り身体がじわじわ温まってくる。ネット記事の件、SNSの利用者の暴走、晒された人達の情報など全てを処理していたらいつの間にか数時間が経っていた。鷲島は何も進展がないまま終わるかもしれないと思っている今回の事件について少し考えていた。犯人はどうして臓器を食べるのか。人が人を食べる行為はカニバリズムという文化としては存在していたが、それは好き好んで食していたのではない。どちらかと言うと人が人を食べるのはかなりリスクが大きい。しかしそのリスクを犯してまでやっているのだから、そうしなければならない理由があるのだろう。理解出来そうにない犯人の思考を探れば探るほどこちらが狂いそうだった。そんな鷲島の頬に熱い感覚が鋭く襲う。うおっ、と声を挙げると缶コーヒーを持った佐々川が後ろに立っていた。
「佐々川さんですか・・・びっくりさせないでくださいよ」
「いつものお前ならこの程度じゃ動じないのにな。疲れは人を変えるか」
そんな佐々川もいつもの呑気な口調や腑抜けた顔ではなく、完全に疲れきっていた。どっこいしょ、と勢いよく座ると缶コーヒーを一口飲み、苦そうに顔を顰める。
「こうやって飲むと、佐東さんの所のカフェのコーヒーは美味いって改めて実感するな」
「向こうはプロですからね。まぁその缶コーヒー売ってる側も美味しく作ってるんでしょうけど」
鷲島も渡された缶コーヒーを一口飲む。口に広がる苦さを我慢して飲み込む。佐東の淹れるコーヒーはただ苦いだけではなくその中にコクや旨味があった。淹れる人が違うだけでこうも味は変わるのか、と感心する。
「やはり三船千佳子は結婚相手の連れ子に虐待なんてしてなかった。碓氷保も彼女に虐待などしていない。阿比留教授に関しても虐待というワードは聞かない」
「つまり虐待加害者を狙った犯行ではない?」
「と言うより、虐待被害者が虐待加害者ということになっている。誰かが吹聴しているんだろう」
「それが尼崎という男・・・ですかね」
佐々川は唸り声を挙げながら腕を組む。
「ただ、尼崎がそんな嘘を言いふらす理由が分からない。虐待加害者を狙うならわざわざ嘘を言いふらさなくても本当の虐待加害者を狙えばいい。それをすぐに見つけられる格好の場所があるからな」
「虐待を無くす会・・・確かにあそこには虐待被害者だけではなく虐待加害者も参加していましたからね。そこに参加していた三船千佳子を尾行していれば虐待加害者なんてすぐ見つかりますよね」
そこまで言って少し引っかかる。尼崎は確かに三船千佳子には接点はある。しかし碓氷保と阿比留岩雄にはほぼ接点はない。今回の犯行はその手口から見ても確実に同一人物による犯行だ。そうなれば被害者全員に接点がなければならないが、そうではない。それに尼崎が嘘を吹聴している証拠はない。
「獣医師って人間の身体も切開できるのか・・・?」
「さぁ・・・ただ動物と人間ですからね。身体の構造もありますし、動物には動物特有の手術方法とかあると思いますから、人間の身体の手術の仕方なんて知らないと思いますよ」
鷲島の答えにまた佐々川は唸る。しばらくの沈黙の後、佐々川は静かに沈黙を破る。
「鷲島、お前は今日は休め」
「え?」
突然の指示に鷲島は素っ頓狂声を挙げる。
「お前、全然寝てないから頭働かないだろ。いくら一刻を争う事件でも体力と冷静さは欠けちゃいけない。急ぐのもいいが、急ぐ方が逆につまらないミスを連発して時間がかかることもあるからな」
まだ大丈夫です、と言おうとしたが佐々川の言う通りだと思う。冷静さと限界を迎える身体で捜査を進めても的はずれな方向に向かっていくだけかもしれない。それならばしっかり休息をとって遅れを取り戻せばいい。鷲島は深く息を吐くと重たい体に鞭を打ち立ち上がる。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
「おう、奥さんと息子さんによろしくな」
軽く手を挙げてその場を後にする。鷲島は妻の千聖に今日は早く帰れそうだ、とメッセージを送る。しかしいつもなら秒速で帰ってくる返事が今日は来ない。それどころか既読もつかない。何かあったのだろうか、単に最近帰ってないから先に寝ているだけなのか。もしそうなら寂しい思いをさせた自分の責任だ。今日はちゃんと妻と子どもと話をしようと思った。何か手土産でも持って帰ろうかと思い、佐東のカフェに美味しい焼き菓子があったのを思い出す。営業時間は調べていないが一か八かで佐東のカフェに向かう。
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