5、世間は「いじめられっ子」より「いじめっ子」が好き
就活がもとめている人間像は、「普通」の人間である、と言われる。簡単なようだが、実はこれが難しい。「普通に両親に愛されて、普通に学校に通って、普通に友達や恋人ができて、普通に周囲から認められて生きてきた人」が世間様の想定する一般的な就活生像である。これらを満たせるのは実は、ごく限られた人間だけである。そういうことに気付くだけの想像力がない人たちが「就活」を牛耳っている。
たとえばこんな定番の質問がある。「あなたが今までに一番つらかった経験はなんですか」
面接本によれば、望む答えは「苦難にどのように立ち向かい、克服したか」がわかるような経験である。面接本にはこうも書いてあった。「いじめや虐待についてはNG」「いじめられた経験は情けないヤツだと悪印象につながる」
この発言には正直、中指を何本立てても足りない。
本当につらかった経験を聞かれて真摯に答えれば「ちょっと、そんな重い話聞きたいんじゃないよ……」とでも言いたそうな人事が求めているのは、「自分で克服できる程度のマイルドな苦難」である。本物の地獄を見た人間はここで切り落とされるか、「まともに愛されて生きてきた」仮面をかぶって擬態することを求められる。正直に言えば「情けない」という烙印を押されるらしい。
結論から言うと、社会は弱者が嫌いだ。いじめられっ子や被虐待児童や心の弱った人が嫌いだ。だから生活保護がバッシングされる。だから「ストレス耐性が高い」人が求められる。
社会は強者が好きだ。彼らは「社会不信になったいじめられっ子」より、「明るく社会性やリーダーシップがあるいじめっ子」の方が好きだ。「いじめられる側にも理由がある」という言葉が好きだ。
先日、「自分をいじめていた奴がオリンピック代表になっていた」というツイートを見た。人を平気でいじめて、何の良心の呵責を感じない人間が、きらびやかな舞台に堂々と立ち、国を背負って人々に応援される。いいパフォーマンスをすれば「感動をもらった」と感謝される。たとえ過去に踏みつけていた人間がいても、素知らぬふりをしていればなかったことになる。
このエピソードはこの社会に象徴的な事案である。
いつだって、社会でキラキラ輝けるのは「いじめっ子」の側のほうだ。「いじめられっ子だった」告白をする人があれだけいるなら、「いじめっ子だった」人はその何倍もいるはずだ。けれど、彼らがそれを表に出すことはない。うまく隠して、当然のように生きている。いじめのある教室では、いじめる側こそ「普通」の側だから。彼らはいつだって「普通」で「多数派」の側にいて、その特権性を意識することもなく生きている。うまく生きることのできる人たち。
そういう人たちによって「社会」は作られている。
憎まれっ子世にはばかる、の原理、ここにあり。
人生のどこかで地獄を味わった人は、こうして振るい落とされる。「暗い」社会不適合者は社会から排除され、選抜に生き残ってしまった「情けない奴」は、パワハラや長時間労働や心無いクレームによって「ストレス耐性」の無い順に鬱になって死ぬ。社会から「弱い人間」はいなくなる。めでたしめでたし。
社会のこういう嫌なところを、就活ははっきり映す。それはひどく合理的でもあり、同時に残酷でもある。
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