20 別れ
翌日から敬一郎は絵筆を手にする事はなかった。
いや、出来なかったのである。
医者に往診に来てもらった時、京子は知った。
兄が、とうの昔に医者から見離されていた事を、医者は言った。
これまで生きてこられたのが不思議なくらいだと。
京子がいなければ兄は誰にも言わず黙っているつもりでいたのである。
<今度、発作が起これば助かる見込みは、おそらくないでしょう。
もう、体力の限界に達しているのです。
ご家族の方達をお呼びになられた方がいいでしょう>と、
医者は顔を曇らせ気の毒そうに言ったのである。
形ばかりの薬を置いてお医者様が帰った後、
京子は、どうする事もなく裏の竹林に駆け込み、
うずくまると、一雫、また一雫と、静かに静かに悲しみの涙が頬を濡らすのだった。
兄と一緒に生活を始めてから、京子は人間の自由を味わう事ができ、今までと反対にオリ(都会)の中で息の詰まりそうな人生を兄によって解放されたようで、言い知れぬ満足感が日一日と広がっていくような心待ちがしていた矢先なのであった。
それを打ち崩すかのように、医者の言葉が胸に突き刺さった。
京子は泣いた、声を押し殺して泣いた。
泣くまいと思っても、とめどもなく涙は頬を伝って流れ落ちるのである。
顔がクチャクチャになり涙が止まると
<お兄さんは、まだ亡くなったわけではないわ。
気を強く持たなくちゃ。>
と考え直し、立ち上がり、涙の顔を井戸水で洗い足音をたてないように家に入った。
敬一郎の寝ている部屋に入ると、敬一郎は目を開けて天井を見つめ、何か考えている風だった。
京子が枕元に座るまで気づかなかった。
「お兄さん気分はどう?」
と、言葉をかけると、やっと京子がいることに気が付き
「京子か・・・
気分は最高に良いと答えたいところだが、見ての通りだよ。
昨日は心配かけたなぁ。驚いただろう」
「えぇ、最初はね。
でも、お兄さんの言葉を信じていたから」
「苦しんでいる最中に何か言ったのか?
俺には覚えがないよ。」
「あら、知らないの?ちゃんと言ったのよ。
大丈夫、心配ないって、しかも、お兄さんは笑って言ったのよ」
「そんな事を言ったのか。全然覚えがないよ」
昨夜は余裕なんてあるはずがないと思った。
でも、京子がウソをつくはずがない。
断言できないが、京子に心配させまいと思って無意識に口から出たのかも知れない。
敬一郎は、そう思った。
「お兄さん、お母さんに電話したら今日の夕刻には、ここに着くって。
今頃は飛行機の中だと思うわ。
お父様も敬ニ兄さんも一緒よ、きっと」
「そうか、電話を掛けたのか。
俺も皆んなに会いたいと思っていたのさ。
お前のお陰で母さん達に会えるかもしれないな。
早く帰って来るといいのに」
敬一郎の語調はハッキリしていたが、京子には弱々しく聞こえていた。
「お兄さんが皆んなに会うのは何年振りかしら?」
「さぁー。久しく会ってないからなぁ。
確か、五年前会って以来だよ。
早いものだなぁ。もう、五年が経ったのか。」
敬一郎は笑っていた。
笑いながら父母の顔を思い出していたのである。
そして、今は亡き祖母の顔も懐かしく思い出していた。
もう、この時、死期が足早に身体の奥深く潜行していたのである。
昼食を終えると、
「外の景色が見たいから障子を開けてくれないか」
と、敬一郎は言った。
障子を開けると床から起き上がり、タバコを一本取り出し、楽しむような仕草でタバコに火をつけ、美味しそうに口にするのであった。
敬一郎の身体は、この時、小刻みに震えがきていた。
人間世界に別れを告げるべき発作が、容赦なく訪れたのである。
絶え間なく身体は震える。
死の恐怖は敬一郎には全く無かった。
生の神秘と死の神秘を経験して、人の一生は終わりを告げる。
当然のことなのである。
もはや、苦痛は感じなかった。
敬一郎は、今日の日を迎える為に精一杯生きて来たのだという、自信があった。
目の輝きはなくなり、青かった顔面はしろくなっていった。
脳神経に言い知れぬ快感な走った。
敬一郎の身体は静止した。
そして、床の上にテレビのスローモーションでも見るように、音もなく崩れていった。
台所で茶碗を洗っていた京子が駆け寄り抱き上げた時には、すでに、こときれていた。
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