18 不安な気持ち
心地よい眠りを、獣のような唸り声で京子は目覚めた。
今の声は夢だったのしら?と暗闇の中を耳を澄ませると、また、かすかに<ううん、ううん>と、夢の中で聞いた声が、身体に伝わってくるのだった。
今度は波のように低く高く。
お兄さんだわ?と脳裏をかすめた瞬間、京子は敬一郎の寝ている隣接に飛び込んでいた。
闇の中で敬一郎は寝具から身体をはみ出して、苦しくもがいているのだった。
「お兄さん!お兄さん!どうしたの?
苦しいの?どこが苦しいの?」
と、夢中で京子は言った。
頭上の明かりをつけると、床は乱れ、額に玉のような汗を流し、両の手のひらを胸に当て、くの字に身体を折り曲げ、平常の敬一郎の姿はどこにもなかった。
この様な場合どのような処置をすればいいのか、
京子は、なすすべを知らなかった。
手っ取り早いのは電話で救急車を呼ぶか、医者に往診してもらうのが一番良いのであるが、家には電話は引いてなかった。
電話をかける為には、家の前の坂を駆け下り、小さな農道を東へ三〇〇メートルぐらい行かなければ国道に出なかった。
電話は国道の脇にあった。
しかし、自分が国道まで電話を掛けに行っている間に、兄に万一の事があったらと考えると朝は家の外に向かなかった。
母親が赤子に乳を与えるような姿で、京子は敬一郎を、両腕の中に抱え上げた。
苦しみの振動が京子の肌にも伝わってきていた。
「お兄さん!しっかりして、しっかりして!」
と、兄の顔を覗き込むように言ったら
「大丈夫だ。心配はない」
と、敬一郎は顔を僅かにもたげて語調強くハッキリ言った。
その口元は、顔を持ち上げている数秒の間ほころんでいた。
その言葉を耳にして、京子は落ち着きを取り戻す事ができた。
でも、シーンとした広い家の中で兄の苦しみの声が響き渡っているのであった。
外は風が出て来たようである。
裏の竹林のざわめき、雨戸を打つ風の音。
意外と思うくらい、兄の体重を支えている膝と両腕には重みを感じなかった。
柱時計が二人を嘲笑うかのように、ボーンボーンと二つ打った。真夜中の二時である。
落ち着いたといっても京子は若い女性である。
不安な気持ちになって当然である。
しかも、自分以外に頼りになる者はいない。
まして、夜明けは遠い午前二時である。
<大丈夫、大丈夫。慌てない、慌てない>と、
自分の心に強く言い聞かせながら、膝からずり落ちそうになった敬一郎をしっかりと両腕の中におさめるのであった。
祈るような気持ちで、額、顔、首筋にかけて汗でグッショリとなったのを丁寧にタオルで拭いてやり、しばらく経つと、敬一郎の苦痛の声が小さくなり、顔面も穏やかになり、京子はホッと胸を撫で下ろした。
静かに寝具の上に敬一郎を横にすると
「心配かけたなぁ」
敬一郎は、薄めを開けて言った。
「もう、大丈夫なの?」
と、敬一郎の手を握ったまま優しく京子は言った。
敬一郎は頷くと、握っている京子の右手を心待ち強く握り返した。
そして、目を閉じた。
その顔は青白かった。
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