17 父の想い
暑い暑い夏が来て、台風の時期が過ぎても、京子は一向に大阪に帰る気配を見せなかった。
敬一郎にしてみれば、京子が大阪に帰らないで自分の側にいるということは、敬一郎自身にとって大助かりであった。
ただ、敬一郎は好きな絵に熱中していればよかった。
母から二度帰ってくるようにと京子に手紙が届いたが、京子は帰らなかった。
三度目に届いた母からの手紙には、敬一郎を頼むと書いてあった。
秋も深まったある日、将造と律子の親娘(おやこ)は二人仲良く家に差し込んでくる、ポカポカした秋の日差しの感触を楽しんでいた。
囲碁の練習をしていた将造は週刊誌に目を通している律子にポツンと言った。
「今日はこんなに良い天気だから、家にいるより外に遊びに行って来たらいいよ」
「外出しても用事が無いから家にいるわ」
「たまの休みの日ぐらい外に出て、ノビノビしてくるのも悪くないのではないかなぁ。
若者にはねぇ・・・」
「こうして家にいる方がいいのよ」
律子は父の顔を見ないで言った。
「律子に父さんは前々から一度は聞こうと思っていたのだが、お前が心に想っている男性はいないのかい?父さんには、どうしても心に想っている男性がいるような気がしてならないのだよ。
もしいるのだったら正直に話してごらん。
お前の力になるから。」
将造は、今言った言葉をもっと早く言ってやれなかったのかと、後悔していたのである。
三〇に手の届く所にまできている娘を見ていると、将造はみんな自分の責任であるようで、娘に対してすまないという心があったのである。
もうこれ以上、可愛い娘を家の犠牲にするのは親として最大の恥と思うのである。
親は子の為、出来うる限りの事をしてやるのが本当でないか、出来損ないの子ならいざ知らず、律子は私達に何も文句も言わず良く尽くしてくれているではないか。
母さんが反対すれば反対したっていいではないか。
今からでも遅くは無い。
自分だけでも娘の力になってやろう。
女性というものは好きな男性のところに揺れ嫁に行くのが一番幸せなんだ。
きっと、母さんだって分かるはずだ。
腹を痛めて産んだ娘だもの。
父から、<心に想っている男性がいるのだったら、言ってごらん。力になるから>と言われて、
律子は、<好きな人はいるわよ>と言っていいのか
<そんな人いないのよ>と言っていいのか少し戸惑った。
律子はそれよりも、父が心底から自分の事を心配しているのが、とても嬉しかった。
思い切って、<結婚したい人がいるの>と言ってみたかった。言えば、父は喜ぶに違いない。
律子は父の顔を見て、言おうか言うまいかと、
戸惑っていた。
将造は娘が躊躇しているのを察して、
「何も考えることはない。
好きな人が本当にいるのだったら言ってごらん。
父さんだってお前に好きな人がいるということは、実に嬉しいことなんだよ。父さんは決心したよ。
お前に好きな人がいたならば、どんな事をしてでも、お前の力になってやろうと。
父さんは今まであまりにも母さんの言う通りにしてきたのがいけなかったと、最近になってようやく思うようになったよ。
だから、お前も好きな人がいるんだったら、その人の所にお嫁に行ってもいいよ。
父さんに言ってごらん。お前が好きな人の名を。
お前が幸せになる事だったら、それが父さんは嬉しい事なんだよ。
お前が好きな人っていうのは、どんな男性だろうかね・・・」
と、将造は優しい眼差しで言った。
「いいの?本当にいいのね?」
「あぁ、言ってみなさい」
「敬一郎さんなのよ」
と、父にだけ聞こえるくらいの声で律子は言った。
言ってしまってから、目元のあたりが、かすかに赤くなっていくようであった。
将造は娘の恥じらう様子を目の当たりに見て、
<やっぱり聞いて良かった>と思ったのである。
「お前が好きな人とは、敬一郎くんだったのかい?
でも、父さんは安心したよ。
好きな人がいるものですか!と言われれば、父さんはガッカリしただろう。
本当に父さんは嬉しいよ!」
「お父さんは喜んでくれるの?
ありがとう、お父さん。律子嬉しいわ・・・」
「お前が敬一郎くんを好きになった理由が、お父さんには解るような気がするよ。
敬一郎くんは人と違って変わっているように見えるが、本当は意志の強い人間なんだと思うよ。
私達一般の人間からみれば、敬一郎くんは時代ずれした馬鹿で怠け者のようにうつるが、決してそんなものではないんだよ。
この、父さんを見なさい。
母さんの所に養子に来てはや三〇数年、養子という名を肩に背負って、自分の心を出さずじまいに人生を終わりそうだよ。
父さんは意志が弱かったんだよ。
弱いのはいけない。
何事に対しても強くなくてはね。
だから、父さんは律子に養子を迎えることは、
もろ手を上げて賛成できないのだよ。
何故、このような事をお前に話をするか解るか?
実を言うとお前に一ヶ月前から縁談の話が持ち込まれているのだよ。
今度の相手は律子より五つ年上の銀行員で、真面目で大人しい男だそうだ。
父さんと違って母さんは大分乗り気で、今度こそは律子にピッタリだの話だと言って喜んでいる。
今日も、その事で母さんは外出しているのだよ。
母さんの話によれば、なかなか律子に合っているようだと言っていた。
母さんは自分から律子に話をすれば、多分断るので父さんから話をして下さいと何度も念を押されていたのさ。
でも、この話はこれでお終いにしよう。
母さんから頼まれていたので律子に黙っている訳にはいかないからね。
母さんには、父さんからよく事情を話して断っておくよ」
「すみません」
「いいのさ。それよりも敬一郎くんの話をしよう。
これは、父さん友達から聞いた話なんだが、敬一郎くんは北の町外れにある小さな庵寺に、毎年欠かす事なく十俵以上の米を奉納しているという事だよ。
敬一郎くんのお婆さんが生きていた時には、そのお婆さんが小さな庵寺にやっぱり米を五俵ぐらい毎年奉納していたそうだ。
これは、なかなか若い人には出来ないことだよ。
今の人間には前の人から何事に対しても継承していく心が無いのではないかなぁ。
父さんは、この話を友達から聞いた時、身体中がほのぼのと爽やかになり、人の世もまだまだ捨てたもんじゃないなぁと想ったよ。
庵寺の年老いた尼僧さんは敬一郎くんの事を我が息子のように思っておられるそうだ。
今の世の中では、敬一郎くんのような人間は貴重価値だよ。滅多にいないよ、敬一郎くんのような人間は」
と、将造はいかにも楽しそうに話をするのである。
「敬一郎さんらしいわ。私達から見れば敬一郎さんの行動は変わっているように見えても、本人は至極
当たり前の事だと思っているのだわ。
多分そうなのよ。敬一郎さんは、そういう人なのよ」
律子は明るく言った。
「お前が敬一郎くんの事を好きだという事はわかったが、敬一郎くんはどうなんだい?
お前の事を、どんなふうに思っているのだろうか?」
「嫌いではないらしいわよ」
と、律子はさりげなく言った。
「それを聞いて安心した。
何はともあれ、一度ゆっくり会って話でもしよう。
早ければ早い方がいい」
「いつでもいいのよ。
お父さんが都合のいい日にでも。
でも、お母さんに相談しなくても大丈夫かしら?
心配だわ」
「お母さんの事は、お父さんに任せておきなさい。
お前が一番幸せになることだけを考えなさい。
それが、父さんは一番嬉しいのだよ。
そうしなさい」
「はい」
と、律子はおさげ髪の少女のように顔を真っ赤にして、父に素直に返事をするのだった。
すぐに冬の足音がら聞こえてくるというのに、
窓から差し込む陽光は夏のように明るく、
暖かく二人を包み込んでいるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。